新型コロナウイルスによって、境界線は分断された。緊急事態宣言の発令や外出自粛、各国の入国規制等によって我々は物理的に自由な移動が困難になっている。考えてもみれば、なぜ国・都道府県・市区町村などの「境界線」は作られたのだろうか?これさえなければ、私達はみな自由に世界各国を行き来できる。関税の支払いや入国審査は無くなるし、言語の違いなどの障壁も感じずに生きられるのだ。
境界線を越える困難について想いを巡らせる私たちは今、境界線の原点に立ち返ることが必要かも知れない。
境界線を意識する時
「境界線」という意識はいつ生まれたのだろうか。このことを考える上で重要になるのが、「共同体」の存在かもしれない。小学校のクラスを思い浮かべるとわかりやすいだろう。自分達とあの人達という感覚が芽生えたら、少なくともそこに分断が生じていて、境界線の存在を感じることになる。
日本の歴史に置き換えてみると、共同体(ムラ)の発生の大きな要因として「稲作の伝来」が挙げられることも多い。水田を耕したり水路を作ったりと作業を集団で行うことで、効率的に大量の稲を収穫することができるようになった。そこで「自分達の土地」という意識が生じて、自分達とあの人達を区別するようになる。
自分達とあの人達で作物の収穫量に差が生じ、貧富の差が目立つようになると、争いが起き資源や土地の奪い合いが起こる。そして、多くの土地を占領した共同体(クニ)が生まれる。このように集団で定住する暮らしを始めた人々にとって、境界線を意識するのは必然的だったと言えるだろう。
境界線上には多様な交流が生まれる
時代を経るに従って、境界線上には様々な場と出来事が生まれた。「あの人達と協力して仲良くやっていきましょう」ということもあれば、「あの人たちは許せん!戦いを仕掛けよう」ということもある。それら共同体同士の関係性の中で、市場、処刑場、戦場、葬儀場、関所などの場が生まれるのだ。
例えば、鎌倉時代後期に描かれた一遍聖絵を見てみよう。ケンカ腰の神主と僧侶がいる一方で、市場は非常に賑わっている。一つの空間にこれだけ多様な交流が凝縮している。この絵こそ、境界線を象徴しているようにも思える。
境界線にまつわる物語を他にもいくつかご紹介しよう。例えば、鎌倉には化粧坂(けわいざか)というくの字型に折れる急坂がある。中世においてそこは市の立つ賑やかな場所で、妓楼(ぎろう)が軒を連ねて遊女がたむろする場所だった。一方でここは死を連想させる場所でもあり、鎌倉幕府を倒す計画を立てた鎌倉時代後期の公家・日野俊基(ひのとしもと)はこの化粧坂で処刑された。鎌倉の切り通しは、内と外とを媒介する商業的な交流の場であったと同時に、天然の要害として外から攻めてくる敵を遮断する装置だったとも言える。
また、鎌倉の材木座海岸(ざいもくざかいがん)にある逗子市小坪との境界には、日本最古の築港跡「和賀江島(わかえじま)」が残っている。ここは中国・朝鮮の船も出入りしたとも伝わる国際的な貿易港だった。鎌倉の街の建設に必要な材木がこの港から揚げられた。ここは賑やかな商交易の場である一方、火葬場もあり死者を墓地に送り出すこともあった。滑川の河口近くは今でも閻魔川(えんまがわ)と呼ばれている。これらの事例からわかるように、境界線は「生と死」が入り混じる多様な交流の場なのだ。
境界線に行き着く人々
ここで視点を少し変えてみる。境界線はある意味、共同体から排除された者が向かう場所でもあった。『霊異記』上巻第三によれば、元興寺の鐘撞堂の童子を殺害する鬼が夜ごとに出現した話が出てくる。その鬼がある日、頭髪を引き裂かれたので逃げた。それを追っかけた人がいて、ついに正体を突き止めた。その鬼の本当の姿は、罪を犯して村はずれの境界線に埋められた奴婢(ぬひ)だった。この話が物語っているのは、境界線が処刑場であり、それを埋める場所でもあったこと。そして、共同体から排除された者が至る場所でもあったということだ。
一方で、境界線は旅人や放浪者などの「異人」が訪れる場所でもあった。つまり、何らかの理由で共同体を離れざるを得なかった人々が、外へ向かった結果行き着くのが共同体の境界線でもあった。折口信夫は「まれびと」の出自として、村八分的な刑罰や宗教規範に背いたために排除された者、精神に障害を負った者などが漂泊・放浪の結果、偶然立ち寄った村で神秘感を漂わせる「まれびと」として迎えられることを説いている。
社会全体の枠組みからすれば少数派の人々がより「異人」として位置づけられやすく、多数派の定住民からは畏敬と蔑視の両義的なまなざしが向けられる。自分の属する社会にとって珍しい性質を持った人間を異人視して様々な呼称を与え、畏敬や侮蔑の眼差しを向けた例は、日本全国の民間伝承の中に多く見出すことができる。それは時として、山人、山姥、山童、天狗、巨人、鬼などと呼ばれる。
境界線には村の守り神がいる
生、死、マイノリティ…。いずれにしても境界線には異界への未知なる扉が開かれている。共同体の内部に長く定住する人々にとって、見慣れない恐ろしい人や出来事に遭遇する可能性が高いのが境界線だった。この境界線に生じる厄災を防ぐことが即ち村を守ること。そのような考えもあり、猿田彦や塞の神、地蔵、馬頭観音、道祖神などの村の守り神が生まれたのだろう。
境界線に守り神を配置したという記述は古代より様々な文献に見られる。例えば『豊後国風土記』によれば、壬申の乱の際に戦場となった境界線上に、天武天皇側の赤麻呂という人物が盾を配置した。それによって敵が伏兵を恐れ退いたと言われている。その類の記述は、様々な書物に散見される。
秋田県には人形道祖神がいる
ところで、秋田県には今でも人形道祖神という村の守り神がいる。村人が力を合わせ稲作の藁を集めて作った道祖神の一種で、それを村境などに置くことで疫病などの災厄が村に入ることを防ぐのだ。人形道祖神がいつ始まったのかは定かでない。稲作時代に採取した藁や、狩猟・採集時代に採取した萱(かや)や麻などを使った生活道具作りの延長で作られたとも言われる。秋田は紀元前3世紀ごろに稲作が始まったが、数百年後、寒冷化によって稲作が厳しくなり、一時的に狩猟・採集をしながら土地を転々とする暮らしに戻った。しかし、再び土地に定住して稲作を始めたとされ、それが7世紀頃とも言われる。これら暮らしの背景があり、今でも稲作の藁を活用して人形道祖神が作られている。
藁の素材の特性は、しなやかな繊維構造を持っており、通気性、耐水性、保湿性に優れ、最終的には「腐るもの」として大地に還っていくということ。家具、道具、工芸品、衣装、祭具、燃料、肥料など暮らしの様々なところで藁が活用されてきた。この延長上に人形道祖神も作られた。共同作業によって結束力を高めつつ、ある意味自分たちを象徴するようなオブジェを藁という使い慣れた素材で表現し、最終的には疫病や害虫、外敵などから守ってくれるのが人形道祖神という存在だった。
一年に一回、この人形道祖神を作り変えるというサイクルがある。これは藁が腐るという性質同様に、所有し続けることのできない価値の流動性をも示唆している。これはドイツ人の経済学者であるシルビオ・ゲゼルが構想した「減価する(腐る)貨幣」の考え方とも重なり、植物の芽が出て成長して枯れて土に還るというような自然界の循環的なサイクルを人間界に適用した形と言えるかもしれない。
秋田を歩きながら人形道祖神を巡ってみた
2021年2月に私は、秋田県内の人形道祖神を数カ所巡った。人形道祖神には、カシマサマ、ジンジョサマ、ニンギョウサマ、ショウキサマ、オニョサマなど、様々なタイプがある。その中でも今回はカシマサマを中心に見て回った。人形道祖神が置いてある周りの風景を細かく観察したり、ストーリーを深掘りしたりすることで、「境界線」に対する新しい気づきもあるかもしれないと感じた。
例えばこの人形道祖神は、湯沢市の国道13号沿いに建てられたカシマサマだ。雪がまだ残っていたので、近くまで寄ることができなかったのは残念だが、念願のカシマサマが見られて良かった。「カシマサマ」とは、茨城県の鹿島神宮に祀られている「武甕槌命(タケミカヅチノカミ)」を模した人形道祖神の一種と言われている。
また、横手市平鹿町というところでは、カシマサマが木の幹にくくりつけられていた。先ほどのものと姿形が大きく異なる。こちらは「荒処のカシマサマ」と呼ばれており、草鞋の写真としめ縄を巻いているらしい。草履の写真は大雪の影響で位置がずれたのか、しめ縄の右端に隠れていた。
村ごとに表現の形がこんなに異なるのかという驚きがあった。人形道祖神の形は千差万別で、隣り合う村同士が形を真似るという事例はあまり聞かない。そこに境界線が引かれ、共同体が異なるという意思表示をしているようにも思える。
この2つのカシマサマは、どちらも町内で一番交通量が多い道路に面していた。共同体の守り神だから、人、車、出来事などが激しく交錯する場に、このような人形道祖神が立っていることがどこか必然的であるようにも思えた。実際はそこまで単純は話ではないだろうが、謎多き人形道祖神を眺めながらあれこれ想像するのは楽しい。
まだまだある、魅力的な人形道祖神
自分で回るだけでは気づきも少ないと感じていたところ、偶然にも秋田市内で「秋田人形道祖神プロジェクト」の小松和彦さんをご紹介いただいた。小松さんはイラストレーターの宮原葉月さんという方と秋田全域の人形道祖神を取材してまわり、冊子にまとめておられる。2018年に『村を守る不思議な神様〜 あきた人形道祖神めぐり 〜 』, 2019年に『村を守る不思議な神様2〜 あきた人形道祖神めぐり 〜 』を出版された。既に150以上の人形道祖神を取材されている。各地域で人形道祖神を作るところから完成まで、ヒアリングを行っているとのこと。
本を最初に拝見した時、イラストのキャッチーさと奥深いストーリーがとても印象的だった。『村を守る不思議な神様2』に登場する「三ツ村のカシマサマ」の話では、長身でスリムな体型のカシマサマの話が出てくる。
今から400年前頃、疫病である腸チフスが村に蔓延し、困り果てて神頼みしたら「村の入り口にワラ人形を作りなさい」と言われ、祭った結果、腸チフスから村を守ってくれたという。この地域では、4メートル近い巨大なカシマサマを作るそうで、50束の藁を使うのだとか。こんな大きい人形を作るのに、作業時間は4時間あまり。その早さに驚いたそうだ。このカシマサマは地域の心の拠り所となっており、毎年誰かが首にマフラーをかけにくるという。
やはり、人形道祖神には様々な興味深いエピソードが眠っている!次に秋田に訪れる際はぜひ、人形道祖神を作る地域の方々にもお話を伺ってみたいものだ。
境界線の原点を日常の風景から読み取る
秋田の人形道祖神を眺めていると、昔から続く地域の共同体それぞれの個性が色濃く反映されているように思える。ただ実際に私たちが現在見ている風景の多くは、極めて均質的でのっぺりとしている。アスファルトと道路、看板、大型スーパーやチェーン店…。どこにも見慣れた風景が広がっており、そこにある地域の共同体同士の境界線を見出すことは難しい。
コロナ禍においては、ZOOMなどのオンラインツールを活用することで、地域のみならず世界の人々との交流が可能になっている。そういう点においても境界線の喪失は明らかであり、極めて均質的な世界の到来と境界線の終焉が近づいていることの表れかもしれない。
それは世の中のあらゆる境界線、すなわち生と死、男と女、昼と夜、想像と現実、子供と大人など様々な概念に当てはめることができる。つまり、地理的境界線のみならず、身体的あるいは時間的な境界線などの障壁を壊そうという流れが世界中で加速しており、自由や自己実現等について否応無しに考えさせられる。
そのような時代の流れの中で、ふとした時に気分転換がてら家の周りを歩くこともあるだろう。最近、「自分が住む地域ってどんな場所だったっけ?」と改めて考えた方も多いはず。そういう時間の狭間において、私たちは境界線や村の守り神のことをふと思い出し感慨深さを感じるのだ。
・参考文献
赤坂 憲雄, 『境界の発生 』, 講談社学術文庫, 2002年
石倉敏明・田附勝,『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』, 淡交社, 2015年
秋田人形道祖神プロジェクト, 『村を守る不思議な神様2 ~ あきた人形道祖神めぐり ~ 』, 2018年
宮崎清,『図説 藁の文化』, 法政大学出版局, 1995年
シルビオゲゼル(相田愼一訳), 『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』, ぱる出版, 2007年
柳田國男,『遠野物語―付・遠野物語拾遺』,角川ソフィア文庫, 2004年
折口信夫,『民俗学について―第二柳田国男対談集』,筑摩叢書,1965年
アイキャッチ画像:稲作をする人々(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)