雨の季節になりました。
雨の日の必需品といえば、雨傘。梅雨が明けて夏が到来しても、突然のゲリラ豪雨があったりするので、外出時に傘を持ち歩く日が多くなりそうですね。最近は、女子用の晴雨兼用のおしゃれな傘とか、ビジネスマン向けの持ち歩きしやすいコンパクトな傘も発売されていますし、コンビニ等に行けば、ビニール傘も売っているので、急な雨でも大丈夫!?
一方で、「傘を持ち歩くのがめんどう……。」「傘を持ってくるのを忘れだけれど、ビニール傘を買うのも……。」という声もあるためか、傘のレンタルサービスやシェアリングサービスが増えています。
あらゆるものがリサイクルされ、実はSDGs的にも進んでいたのではないかとも言われる江戸時代、「貸し傘」と呼ばれる雨傘のレンタルサービスもありました!
この記事では江戸の「貸し傘」サービスについて、どのようなものだったのか紹介します。
■和樂web編集長セバスチャン高木が解説した音声はこちら
高級品だった江戸の雨傘
現在の雨傘は、安いビニール傘からオーダーメイドの傘や専門店の高級傘まで、値段はピンキリ。色やデザインも様々です。
雨具としての傘は、鎌倉時代には存在していたと言われており、当時の絵巻物『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』や『法然上人絵伝(ほうねんしょうにんえでん)』にイグサを使った傘が見られます。
江戸時代になって、紙張りの雨傘が作られるようになり、庶民の間にも普及。頭に直接かぶる笠がヘアスタイルを乱すことから、女子たちの間で雨傘がもてはやされるようになります。
江戸女子憧れの「蛇の目傘」。そのお値段は?
江戸時代、傘は高級品で値段が高く、使える人は限られていました。
女子用の雨傘として人気だったのが「蛇の目傘(じゃのめがさ)」。中央と周囲に紺の土佐紙を張り、その中間に白紙を張り巡らすのが特徴で、傘を開くと、太い輪の蛇の目のような模様が出るところから、「蛇の目傘」と呼ばれるようになります。
「蛇の目傘」は、元禄時代(1688~1704年)に番傘を改良して考案されたもの。8代将軍・徳川吉宗の頃、「蛇の目傘」に定紋をつけるようになり、これが女子や通人(つうじん)と呼ばれるトレンドセッターの間で流行します。特に、細くて軽い傘が良いとされました。
「蛇の目傘」の値段は、銀6、7匁(もんめ)くらい。現代の値段にすると、約2万円です。ちなみに、『文政年間漫録』という資料によると、当時、他の職業に比較して手間賃が良かったといわれる大工の日当(にっとう/1日の給料)は、銀5匁4分(約16,200円)でした。
価格の安い番傘は、普段使いとして人気!
一方、庶民の普段使いの傘が番傘で、番号を書いた傘という意味です。
正徳時代(1711~1716年)に大坂の傘師・大黒屋が大黒天の印を押して売り出した「大黒傘」が江戸に伝えられます。「大黒傘」は、1本の竹を30~35本に割った太い骨に白い紙を張り、荏油(えのあぶら/エゴマ油)で防水加工をしていました。柄も骨も太く、丈夫で値段が安かったことから、庶民の間で流行します。
享和時代(1801~1804年)になると、江戸でも番傘が作られるようになります。形は直径が3尺8寸(約1.15メートル)、骨数は約60本、柄の長さは2尺6寸(約79センチメートル)くらい。商家では、傘の表に屋号の印や住所、番号などを記載されていたことから、番傘と呼ばれるようになりました。
番傘の値段は、200文(約6,000円)くらい。「蛇の目傘」の約1/3の値段で手に入れることができました。
傘は高級品。だから、修理して長く使う!
傘が普及すると、「古傘買い」「古骨買い」と呼ばれる、紙が破れて役に立たなくなった傘を買い集める商人が現れます。
「古傘買い」は、買い取った古傘を竹の骨と紙に分類します。竹の骨は傘張り職人のもとに持ち込み、新たに紙を張り直して修理し、また売ります。傘の骨は捨てることなく、何度もリサイクルして使いました。一方、油紙は馬・鹿・猪などの獣肉を扱う「ももんじ屋」に売り、脂分の多い肉の包装紙に使ったのだとか。
江戸では傘は買取りでしたが、京都・大坂では土瓶や土製の人形との交換が主でした。古い傘の買取り金額は、高くても12文(約300円)だったそうです。
呉服屋が始めた傘のレンタルサービス
そんな中、雨傘を貸す「貸し傘」を始めたのが、三井越後屋(現・三越百貨店)や大丸屋(現・大丸百貨店)などの呉服屋です。
三井越後屋
三井越後屋は、1673(延宝元)年、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)出身の三井高利(みつい たかとし)が、江戸・日本橋本町一丁目(現・東京都中央区)に開いた呉服店です。1683(天和3)年、越後屋は駿河町に移転。それまで、武家屋敷相手の掛売り(=代金後払い)が主だったのを、庶民相手の「現金掛け値なし」「店前売り」という新しい販売方法に切り替え、江戸時代最大の呉服商となりました。その繁盛ぶりは、浮世絵に描かれただけではなく、日本で初めての経済小説ともいわれる井原西鶴(いはら さいかく)の浮世草子『日本永代蔵(にほんえいたいぐら)』でも紹介されています。
「駿河町」の町名の由来は、江戸城の向こうに駿河国(現・静岡県)の富士山を望むことができるから。ここからの富士山の眺望は江戸一と言われていました。絵の両側には、丸に井桁、その中に漢字の「三」を入れた三井家の家紋が入った看板や、家紋を染め抜いた紺色の暖簾(のれん)が越後屋の店頭に掛かっています。
「貸し傘」サービスは、顧客サービス兼歩く広告?
「貸し傘」サービスは、顧客サービスとPRを兼ねたもの。
突然の雨が降った時、越後屋では、顧客だけではなく、通りがかりの人々にも雨傘を無料で貸出しました。「貸し傘」には、越後屋の大きな紋がロゴマークとして入っています。「貸し傘」を借りた人々が傘をさして町を歩くことで、多くの人の目に触れ、越後屋の名前を知ってもらうことができます。つまり、「貸し傘」は、歩く広告塔のような役目もあったのです!
傘を借りた人は、後で傘を返しに越後屋に行くことになるので、それをきっかけに、一見さんからリピーターや顧客になった人もいたかもしれませんね。
同様の「貸し傘」サービスは、大丸屋でも行われていました。
大丸屋は、享保2(1717)年、下村彦右衛門(しもむら ひこえもん)が京都・伏見(ふしみ)に創業した呉服商・大文字屋が発祥。「現金掛値なし」の商法で繁盛し、享保年間(1716~1736年)には、京都店を総本店として、大坂・名古屋・江戸に店を構えます。
大伝馬町3丁目には、木綿呉服店の大丸屋がありました。店頭に、丸の中に大の文字のロゴマークの入った暖簾がかかっています。
大丸屋は、寛保3(1743)年の江戸店開設時に「貸し傘」サービスを開始。傘には、丸の中に大の文字の大丸のロゴマークが入っていました。
傘に貸出記録用の番号の入っているから、番傘
「貸し傘」は浮世絵に描かれたり川柳に詠まれたりしていることからも、江戸ではポピュラーなものだったことがわかります。
御厩川岸(おうまやがし)は墨田川の西岸、激しい雨に煙る東岸がシルエットで表現されています。地面には跳ね返ったしぶきが描かれています。
画像の右端の男性の傘に、番号が記入されていることがわかりますか?
「貸し傘」には貸出記録用に傘に番号を入れていたため、「番傘」と呼ばれていました。当時、貴重だった雨傘を、何度も貸出しして使えるよう頑丈に、しかも安価で大量に作ったと言われています。
雨傘の表には番号のほか、屋号、屋印、町名などを書き、使用人に使わせたり客に貸したりするようになりました。越後屋では、多数の「貸し傘」を常備していました。越後屋の「貸し傘」を詠んだ川柳が多くあります。
・江戸中を越後屋にしてにじがふき
・するが町江戸一番の傘屋
・降りだすと江戸へひろがる駿河町
・越後屋の前まで傘へ入れてやり
にわか雨の時などには、越後屋では、たくさんの傘を客に貸出しました。雨傘を持っていない人のために、越後屋まで傘に入れてあげる人もいたようです。
夕立が去って、虹が出る頃には、越後屋の傘を借りた人たちが越後屋のPR役となって、江戸中に散らばることになったことを詠んでいます。
・するが町とあるのがわたくしが傘
「するが町」とは、越後屋のこと。越後屋の名前が大きく入った「貸し傘」を返さないで、自分用の傘として使っている人を詠んだ川柳があることから、実は、「貸し傘」を返却しなかった人もいたようですね。
また、江戸の若者にとっては、「貸し傘」をさして歩くことが粋でカッコいいとされていたので、「貸し傘」を自分用として使いたかった気持ちもわかります。
もしかしたら、多くの人の目に触れる「貸し傘」は、当時のブランディング戦略の一つだったと言えるかもしれません。当時は高級品だった雨傘ですが、江戸の町全域への広告宣伝費と考えれば、安いものだったのかもしれませんね。
和樂web編集長セバスチャン高木が音声で解説した番組はこちら!
主な参考文献
- ・『日本大百科全書』 小学館 「傘」「番傘」「蛇の目傘」の項目など
- ・『浮世絵の解剖図鑑』 牧野健太郎著 エクスナレッジ 2020年9月
- ・『CGで甦る江戸庶民の暮らし(サライ・ムック サライの江戸)』 小学館 2018年8月
- ・江戸時代、店が客に対して無償で傘を貸す「貸し傘」はあったのか。(東京都江戸東京博物館図書室)(国立国会図書館レファレンス協同データベース)