令和4(2022)年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、鎌倉時代より前の歴史を学ぼうのコーナー! というわけで今回は「平忠常(たいらの ただつね)の乱」! 平安中期1028(長元1)年に起き、1031(長元4)年にようやく平定した反乱事件だ。
ん? 「平将門の乱」じゃないかって? それは前回やっただろう! 今回は平将門の乱から約100年後の戦だ。
平忠常って誰よ?
忠常は、将門公の伯父にあたる平良文(たいらの よしふみ)の孫にあたる人物だ。
現在の千葉県である房総半島の3国のうち、上総国と下総国を支配していた大豪族だった。あとは最南端の安房国さえ手に入れれば房総半島を完全に支配できる、というわけだ!
安房国を手に入れろ!
そんな忠常は、安房国を手にいれるためにどうしたか? 安房国に赴任していた朝廷の役人、安房守惟忠(あわのかみ これただ)を焼き殺した!! いきなり!!
いや、実際はいきなりってこたぁないだろうし、忠常側にも言い分はあるんだろうけれど、忠常側の記録が残ってないものだから、京目線で語るしかない。
ちなみに「安房守」はもちろん官職名。姓はおそらく「平(たいら)」だ。といっても将門公や忠常の「平氏」とは全然別系統の平氏なので、ややこしいが、がまんしてくれ。
謀反人をやっつけろ!
朝廷から直接派遣された役人を殺してしまったので、忠常は当然ながら謀反人となってしまった。その忠常を討伐すべく長元元(1028)年に派遣されたのが平直方(たいらの なおかた)! また平氏だよ! ややこしいな!
ちなみにこの平直方は、平将門公を討ち取った平貞盛(たいらの さだもり)の孫だ。
だけど3年経っても乱を鎮める事ができず、代わりに派遣されたのが、源頼信(よりのぶ)・源頼義(みなもとの よりよし)父子。頼朝様のご先祖様だ!!
頼信父子は長元4(1031)年に乱を鎮め、忠常は頼信公の家来になる。しかも頼信公は、一切戦闘行為はしていないらしい。話し合いだけで解決した。まさに江戸城から800年先立った無血開城だな。
平忠常の乱のポイント1 坂東の調停者たる源氏
最初に直方が派遣された理由は、おそらく直方が、忠常と敵対していた常陸国の勢力と関わりが深かったからだろうと考えられる。乱に乗じて忠常を討伐すれば、自分が仲良くしている常陸国の勢力が拡大し、自分も恩恵を受けられる。
しかし、忠常は手強かった。直方の代わりに派遣された頼信公に忠常があっさりと降伏したのも、そこら辺の駆け引きがあったんだろう。なんせ頼信公は、かの藤原氏の全盛期を築いた藤原道長殿の直属の部下で「道長四天王」と呼ばれていた方なのだ。坂東のド田舎の豪族にとって、これほど心強い後ろ盾はなかろう。
そして、頼信公も忠常を家来にした事で、忠常が持つ坂東の軍事力を統括できるようになったのだ。のちに頼朝様が鎌倉幕府を開く基盤はこの頃からあったのだな!
平忠常の乱のポイント2 源氏と北条
この「平忠常の乱」の後、頼信公は相模守となる。そしてこの時に、直方は鎌倉の領地を、頼信公の息子・頼義公に譲っている。
実は頼義公と直方の娘が結婚しているのだ。そして、頼義公と直方の娘の子孫が頼朝様になる。つまり頼朝様が鎌倉に幕府を開いたのは、先祖伝来の土地が鎌倉にあったからなのだ。
加えて……頼朝様と婚姻した北条氏は平直方の子孫を自称している。子孫同士でまた結婚したというわけだ。そして、元々鎌倉の所有者であった直方の子孫が再び鎌倉で権力を持ったとも言える。……いやでも、なんかこう、やっぱり上手くできすぎ感が否めない。
さて、次回はちょっと坂東から離れて、東北地方と源氏の関係に迫る戦の話だ!
▼6巻に描かれています!
新装版 マンガ日本の歴史6-王朝国家と摂関政治 (中公文庫)
「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)
▼ガイドブックもチェック
NHK2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」完全読本 (NIKKO MOOK)