ウルトラマンや宇宙戦艦のヤマトとごっちゃになって、ヤマトタケルを昔の特撮かアニメのヒーローだと思っていたのは、わたしだけ?
……いやいや! ヤマトタケルは神話をモチーフにしたゲームなどにもよく登場するキャラだし、きっと同じような勘違いをしている人がほかにもいるはず。
今回は名前を聞いたことはあるけどよく知らない伝説の英雄、ヤマトタケルについてざっくり解説します。
ヤマトタケルとは
ヤマトタケルは『古事記』、『日本書紀』に登場する古代の英雄。大和政権(大和朝廷ともいう)が列島を統一するために東奔西走して戦った皇子です。父の景行天皇に命じられて西方の熊襲(くまそ)を討ち、さらに東方の蝦夷(えみし)を制圧しますが、大和国(奈良県)に帰る途中で倒れ、白鳥になって天に帰ったという伝説があります。
『古事記』には倭建命、『日本書紀』には日本武尊という名前で登場しますが、どちらも「やまとたけるのみこと」と読みます。現代では、日本武尊と表記されるのが一般的。
ヤマトは国の名前で、タケルは勇猛な人という意味です。名前の最後につく「命」、「尊」(みこと)は、飛鳥~奈良時代に神や高貴な人の名に添えられた敬称。
ヤマトタケルは景行天皇と皇后との間に生まれた皇子の一人で、幼名を小碓命(おうすのみこと)といいます。兄の名前は大碓命(おおうすのみこと)。
大碓、小碓という素朴な呼び名は、兄弟が生まれたときに産湯を使った石のたらいからつけられたという伝説があります。この石のたらいは、景行天皇の皇后の墓とされる兵庫県の日岡御陵(ひおかごりょう)の近くに今も残っているのだそう。
また、ヤマトタケルを名乗るようになる前の別名が倭男具那/日本童男(やまとおぐな)。おぐなというのは男の子という意味です。
ヤマトタケルの伝説
ヤマトタケルの伝説は、『古事記』と『日本書紀』とで内容が異なります。正史としてまとめられた『日本書紀』よりも情感たっぷりに、物語のように描かれているといわれる『古事記』から、エピソードの一部をご紹介しましょう。
父も恐れた、荒ぶる少年
ヤマトタケルが景行天皇から熊襲征伐を命じられたのは、まだ幼名の小碓命の名で呼ばれていたころです。そのきっかけは、家族間の殺人事件でした。
あるとき、小碓命の兄の大碓命が食事の席に姿を見せなくなり、景行天皇は小碓命に「兄をよく諭しておくように」と言いつけます。ところが何日たっても大碓命は現われません。不審に思った景行天皇が「まだ大碓命を諭していないのか」と訊ねると、小碓命は「もう諭しました。兄を捕まえて手足を引き裂いて殺し、遺体は袋につめて捨てました」と答えるのです。
景行天皇は小碓命の荒々しさを恐れ、自分から遠ざけるために「西方(九州)にいる熊襲を倒してこい」と命じます。
熊襲征伐は色じかけ?
さて、九州まで遠征した小碓命が狙うのは、二人の熊襲健(くまそたける)兄弟です。ようすを伺っていると、どうやら宴がはじまるもよう。
小碓命は髪を下して女物の服に着替え、少女に変装して宴の席へと紛れ込みます。二人の間に座った小碓命は酒を注いでは飲ませ、敵がすっかり酔っぱらったころを見計らって懐から剣を取り出し、まず兄を殺して次に弟を襲いました。
弟の熊襲健は「これほど勇猛な人がいたとは。あなたにヤマトタケルという名を贈ろう」と言い残して亡くなります。ヤマトタケルという名前は敵を打ち倒した勲章であり、強さの証でもありました。
メンターは伊勢の斎宮
景行天皇は西方から帰ったばかりのヤマトタケルに、「今度は東方の蝦夷(えみし)を討ちに行け」と命じます。
父から遠ざけられていることを察したのでしょうか、ヤマトタケルは叔母にこう弱音を吐いています。「天皇は私が死ねばよいと考えているのでしょうか」
叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)は、伊勢神宮に仕える斎宮です。須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治した伝説の神器、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)をヤマトタケルに授けて励まし、また「困ったときに開くように」と袋を渡して送り出すのですが……。
草薙剣があれば無敵
天叢雲剣は、歴代の天皇が受け継いできた三種の神器の一つで、とても貴重なもの。
ヤマトタケルはこの天皇の証ともいえる神器を、見事に使いこなします。
それは一行が駿河のあたりで賊に襲われ、野原で焼き討ちにあったときのこと。ヤマトタケルは天叢雲剣をふるって草を薙ぎはらい、炎をも退けるのです。それで天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになったのだとか。
また、袋を開くと中には火打石が。ヤマトタケルは火打石で火を起こし、逆に敵を焼き尽くしたといいます。このエピソードは、静岡の焼津という地名の由来としても伝えられています。
わが妻よ、東に眠れ
相模から船で海を越えて房総へ上陸したヤマトタケルは、常陸へと北上して蝦夷を制圧します。
けれどもその途中、荒れ狂う海を鎮めるために、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海に命を捧げるという出来事もありました。
ヤマトタケルが「あずまはや(わが妻よ)」と悲しんだことから、東日本を東国(あずまのくに)と呼ぶようになったという伝説があります。
最後は杖をついて……
その後も、ヤマトタケルは旅を続けます。甲斐から信濃、美濃へと内陸を歩いて、土地の人々、山の神々までも抑えていくのです。しかしあるとき、油断をしたのでしょうか。草薙剣を置いて手ぶらで戦いに出かけて、深手を負ってしまいます。
叔母の待つ伊勢へ、そして大和へ帰りたいと、ヤマトタケルは杖をついて歩き続けました。けれども伊勢の能褒野(のぼの)という地で歩くことができなくなり、最期を迎えます。伝説はヤマトタケルが白鳥に姿を変えて、大和の方へ飛んで行ったと伝えています。
白鳥伝説と三つの墓
三重県の亀山市には、ヤマトタケルの墓とされる熊褒野御墓(のぼのおんぼ)があります。また、白鳥となったヤマトタケルが降り立ったといわれる大和の琴弾(奈良県)、河内の古市(大阪府)にもヤマトタケルの墓とされる白鳥の陵(みささぎ)が残されています。
ヤマトタケルは実在したか
ヤマトタケルは天皇の皇子でしたが、自らは天皇になることなく亡くなってしまいました。
景行天皇の後を継いだ第十三代成務天皇は、ヤマトタケルの異母弟です。けれども、第十四代仲哀天皇はヤマトタケルの息子。天皇の系譜は、ヤマトタケルの名の下に続いていくのです。
ヤマトタケルは実在したのでしょうか?
『古事記』と『日本書紀』には、日本の神話と歴史が記されています。
ヤマトタケルの父、第十二代景行天皇は神々と人とをつなぐ時代の天皇にあたり、実在はしていないという説が有力。ヤマトタケルもまた、列島を平定した軍事力を人に例えたのではないかと考えられています。
倭から日本へ
ヤマトタケルの名前は『古事記』の倭健命と『日本書紀』の日本武尊、二つの漢字表記があります。
倭という字には「小さな」という意味があり、元々は中国などが古代の日本を指して呼んだ名前でした。いつ頃から国の名前が日本になったのかは、はっきりとしませんが、ちょうど『日本書記』が成立した八世紀初頭前後とする説が有力です。
倭(やまと)から日本(やまと)へ。
天皇の皇子として生まれ、神器を使いこなして列島をまとめた英雄は、日本という国の誕生を象徴しているのかもしれません。
アイキャッチ:『日本武尊 : 家庭歴史文庫』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
参考書籍:
別冊太陽 日本書記 編纂1300年(平凡社)
現代語古事記(学研)
日本人なら知っておきたい英雄ヤマトタケル(産経新聞社)
決定版人物日本史(育鵬社)
日本大百科全書(ニッポニカ)
デジタル大辞泉
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