江戸時代、最も比重の大かった家事は何だと思いますか?
答えは「針仕事」。当時は、日常着の着物を含め、衣類が手縫いだったということもありますが、針仕事は江戸女子必須のスキルでもあったのだとか。
そこで、2月8日の「針供養」にちなみ、江戸女子と針仕事事情について調べてみました。
「針供養」とは?
「針供養」は、日頃の針仕事で折れたり曲がったりした針を豆腐・こんにゃく・餅などに刺して供養し、紙に包んで社寺に納め、裁縫の上達を祈る行事。針をやわらかい物に刺すのは、堅い布を一生懸命縫ってくれた針に感謝し、ねぎらうという意味があったそうです。針を川や海に流す地域もあるようです。
針供養は、関東では2月8日、関西や九州では12月8日に行われることが多く、この日は針仕事を休んで針を使わないのが習わしです。
関東では浅草寺境内の淡島堂、関西では京都・法輪寺や和歌山・淡嶋神社で行われる針供養が知られています。淡嶋神社の御祭神・少彦名命(すくなひこなのみこと)は医薬の神様で、特に、子宝、安産、婦人病の治癒などに御利益があるそうです。針供養は、江戸時代中期に「淡島願人(がんにん)」と呼ばれる者が諸国を回って淡島信仰を広めたことによるもの、江戸時代後期から明治時代にかけて、裁縫学校などで技能の上達を祈って行われたのが定着したものなどの説があるようです。
江戸女子の必須スキル、針仕事
江戸時代、最も比重の大きい家事は「針仕事(裁縫)」でした。
武家も庶民も、結婚して家庭の主婦ともなれば、家族や奉公人の着物を縫わなければいけません。日常的に、着物の破れを繕ったり、着物のサイズを調整したりなどの仕事もあります。子どもができれば、古い着物を子ども用に仕立て直したり、おむつにしたりします。着物をほどいて「洗い張り」をした後は、ほどいた着物を縫い直さなくてはいけません。
針仕事は女性のたしなみとされていました。『女大学』などの当時の女子用教訓書でも、裁縫は女子が身に付けるべき教養の一つとしています。
女子たちは、花嫁修業の一つとして幼い頃から母親から教わったり、お針の師匠へ習いに行ったりして針仕事のスキルを身につけます。16歳頃には、裏地のない単(ひとえ)の着物を縫い上げるくらいのスキルを身に付けていたのだとか。裁縫箱は、嫁入り道具に欠かせないものの一つでした。
年4回の更衣は大事なイベント
日本には四季がありますが、衣服も四季に合わせて「更衣(ころもがえ)」を行ってきました。更衣は、日本では平安時代から行われていた年中行事です。江戸時代に入り、幕府によって年4回の更衣が制度化され、庶民にも広がりました。
・4月1日~5月4日:袷(あわせ/裏地つきの着物)
・5月5日~8月31日:単・帷子(かたびら/裏地のない麻や紗の着物)
・9月1日~9月8日:袷
・9月9日~3月31日:綿入れ(袷の表地と裏地との間に綿を入れた着物)
現在は、シーズンレスの服も増えていますし、日程をきっちり決めて更衣を行う人は少ないと思われますが、江戸時代は年中行事の一つとして、一斉に更衣を行っていました。しかも、当時の更衣は、夏物と冬物を入れ替えるのではなく、次の季節に合わせて着物を縫い直し、着物に綿を入れたり、出したりしていたのです!
庶民の着物の枚数は、一人3~5枚程度。寒い9月から3月にかけては袷の表地と裏地との間に薄い綿を入れて「綿入れ」として着用し、4月になると綿を抜いて袷にします。5月5日には袷の着物をほどいて表地と裏地で2枚の単にし、夏の間に着まわします。そして、9月になるとまた袷にします。少ない枚数の着物を季節ごとに「袷→単→袷→綿入れ→袷……」へと縫い直し、フル活用していました。
着物だけではなく、羽織、胴着、襦袢なども縫い直します。初冬には、来年のための新しい着物の縫い物も始まります。そして、更衣の縫い直しを含め、家族全員の衣服の管理を行っていたのが、各家庭の主婦たち。更衣の期日に遅れようものなら、一家の主婦としての家事能力を疑われ、とても恥ずかしいことだったそうです。
透ける生地を見つめる女性、反物を調べる女性など、夏用の着物を仕立て中の女性たちを描いています。子どもや猫もいて、女性たちはおしゃべりをしながら針仕事をしていたのでしょうか?
リサイクル着物を活用した庶民たち
江戸時代、着物や帯の生地となる布はすべて手織りだったため、高価で希少なものでした。このため、絹製品を中心に扱う呉服屋は庶民にとっては高嶺の花。庶民は木綿や麻の織物を扱う太物屋(ふとものや)を利用するか、古着屋でリサイクル着物を購入していました。古着屋街としては、神田柳原土手や日本橋富沢町が有名で、打掛から帯、股引、端切れまで売っていたのだとか。
藍染の浴衣を着こなす女子は、湯屋(ゆや/江戸時代の銭湯)からの帰りのようです。洗い立ての髪は、櫛だけで巻き上げ、湯屋で使った糠袋を丸めて髪に巻き込んでいます。
女子が眺めているのは、「竹馬きれ売り」という行商。着物を仕立てた時に余った布や、バラバラにした古着などの布を、竹を組んで馬型にしたものにかけて売り歩きました。庶民は、この布を買い求め、掛け衿や腰紐などを作ります。端切れでも無駄にせず、大切に使っていたのです。
着物のお手入れはどうしていた?
着物は日常着なので、汚れますし、傷みます。破れたら繕いが必要ですし、汚れたら洗濯をしなくてはいけません。
着物の洗い方には、「丸洗い」と「洗い張り」の二つの方法があります。
「丸洗い」は、単の麻や木綿の着物をそのまま手洗いすること。「洗い張り」は、「解き洗い」ともよばれ、絹物や袷、綿入れ着物をほどいて布にして洗う方法です。灰汁(あく)や無患子(むくろじ)の煎じ汁、米糠(こめぬか)を洗剤として使用しました。
「洗い張り」はしょっちゅうできるわけではないので、できるだけ着物が汚れないように保護して着る工夫をしました。
その一つが「掛け衿(かけえり)」で、通常は着物と同じ柄の共布(ともぬの)が首の周りにかかっています。首周りは、髪油や白粉などがつくので、特に汚れやすく、掛け衿だけをはずして洗うことができました。
江戸時代後期頃からは、庶民は汚れが目立たない黒い布の掛け衿をするようになります。
コマ絵に描かれているのは、尾張町2丁目にあった恵比寿屋という呉服屋です。尾張町は、現在の銀座5丁目と6丁目にあたります。恵比寿屋は絹物だけではなく、木綿の太物も扱い、手広く商売をしていました。
恵比寿屋の店内で、右の箱の中から、5枚セットの小切れの布を手に取って思案中の女子。網代模様の着物に、黒い掛け襟がかかっています。庶民の女性は、衣類をはじめ、身のまわりのものは、全部自分で縫いました。小切れはセット価格のセール品のようですが、選び方は真剣そのもの。小切れを使って、何を作るのでしょか?
針仕事のスキルで、稼ぐ女子
「針仕事」のスキルは女性の自立にも役立ちます。奉公人として働きに出る場合、「お針」という縫い物担当で雇われることがありました。また、独り身の女性が個人で着物の仕立てや修理の仕事を請け負うこともあり、当時は少なかった女性の職業として重宝されていたのです。内職として、着物の仕立てや修理を請け負う女性もいました。武家屋敷や寺院、遊郭などの高級なものを縫う個人事業主は、月に4~5両(約40~50万円)も稼いでいたのだとか。
「御物師(おんものし)」とは、は和裁士のこと。左ページの御物師の女性は、眉間にしわを寄せ、ずいぶん厳しい顔をして指導しているようです。遊郭や寺院では、和裁士を「針妙(しんみょう)」と呼びます。
農家の女性は、針仕事だけではなく、機織りもしていました。織った布で家族の着るものを作るだけではなく、織った布を売って、貴重な現金収入を得ていました。このため、農家の娘は、「機織りができないとお嫁にいけない」と言われていたのだとか。
機織りは、農家だけではなく、武家でも、内職として機織りをする家もあったそうです。特に下級武家ではどこの家でも内職を行っていたので、織った反物の収入は家計の助けになっていたと思われます。
針仕事、していますか?
現代は、服は作るのではなく、買うという人がほとんどではないでしょうか? もちろん、服のオーダーメードもありまし、ハンドメイド用の型紙も売られていますが、バリエーションも豊富な服が手ごろな値段で売られていますし、何より、すぐに手に入れることもできます。もしかしたら、「裁縫箱なんか持っていない!」という方もいるかもしれません。
この記事を書くにあたって、江戸女子の裁縫事情を調査しました。着物を含め、衣類は自分で縫っていたいた江戸女子にとって、裁縫のスキルが不可欠であったことがわかりました。もしかしたら、「針仕事は苦手だけれど、おしゃれをしたいから」とがんばっていた女子もいたかもしれませんね。
「着物を含め、全部手縫いだったから、大変だったろうな。」と思っていましたが、1年を通してたくさんの針仕事があり、想像していた以上に大変そうでした……。
主な参考文献
- ・『12か月のきまりごと歳時記』(現代用語の基礎知識2008年版付録)
- ・『ウチの江戸美人』 いずみ朔庵著、ポーラ文化研究所監修 晶文社 2021年9月
- ・『絵でみる江戸の女子図鑑』 善養寺ススム文・画、江戸人文研究会編 廣済堂出版 2015年2月
- ・『絵解き「江戸名所百人美女」:江戸美人の粋な暮らし』 山田順子著 淡交社 2016年2月
- ・『江戸衣装図鑑』 菊地ひと美著画 東京堂出版 2011年11月