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イザナギとイザナミは結婚して、「ヤマト」を構成する島々と森羅万象の神々を産む。
島国&多神教国家ニッポンの誕生だ。
だから、歴史(古代人にとっての、ですよ)の中でも特に大事な場面といっていい。
それなのに、それなのに。
この経緯でさえ、日本書紀と古事記では書かれている内容が異なるのだ。
我が「ボッチ神論」とは直接は関係ない箇所だけれど、両者の性格の違いが如実に現れる部分なので、一応触れておきたい。
さて、古事記によると、イザナギとイザナミの結婚式は、太い柱の周りそれぞれ反対方向にぐるっと一周して、出会ったところでお互い褒め合う、というだけのとても簡素なものだった。そして、そのまま披露宴もなしに初夜を迎える。婚姻届だけ出して、夫婦になるようなものだ。日本はボッチの国であると同時に、シンプルウェディングの国でもあった。特筆すべきことだろう。
イザナギとイザナミの子どもたち〜古事記編〜
さて、もともと生命力盛んな二柱の神だけあって、同衾したらさっそく子ができた。
第一子を水蛭子(ひるこ)、第二子を淡島(あわしま)という。
この子たちがどんな姿形だったかは、具体的な描写はないのでわからない。ただ、その名前から推し量ると、水蛭子はヒルのように骨がない、つまりフニャフニャな子、淡島は泡のように頼りない不定形の島だった、と想像される。要するに、ふたりともあるべき姿としての形が整っていない子たちだった。
それを見た両神、あろうことか「良からず」、つまり自分たちのメガネには適わないと判断し、我が子として認めなかった。あまつさえ、水蛭子は葦船に乗せて流し、淡島に至っては消息不明のまま捨て置かれる。
ちょっと待て。
いかに神話とはいえ捨て子はないだろう、捨て子は。
しかも理由が「欲しかったタイプの子じゃないから」だなんて。本当に胸くそ悪い話だ。
けれども、神話の世界では、生まれてきた子はしばしば祝福されぬまま不幸な末路をたどる。ギリシャ神話には将来主神の地位を奪われるのを恐れて我が子を次々丸呑みしてしまう神までいるぐらいだ。
人類の黎明期において、命は必ずしも重いものではなかった。神話や伝説、昔話などの旧い物語を読み重ねると、それをつくづく思い知らされる。「命大事に」は人類が数万年の時をかけてようやく手に入れた新しいスペシャルコマンドなのだ。だからこそ大切にしていかなきゃいけないと真剣に思う。
と、いかにも現代人的な感傷はここまでにして、国生みの続きをささっと説明しよう。
二神は思わぬ結果を生んだクリティカル・エラーを修正するために結婚の儀式をやり直し、今度こそ望み通りの子たちを得ることに成功する。
淡路島、四国、隠岐島三島、九州、壱岐島、対馬、佐渡ヶ島、そして最後に本州である大倭豊秋津島の八子だ。その後、さらに瀬戸内海や東シナ海の九州沖に浮かぶ島々を生み、これにて国生みは完了した。
あれ? 沖縄諸島は? 北海道は? 北方四島は? 伊豆大島は? 八丈島は? 小笠原諸島は???
残念ながら古代神話にそれらの地域は出てこない。つまりそれは、国生み神話が成立した時代の人々が「ヤマト」として認識していたのは、現代日本の領土の半分にも満たない範囲に過ぎなかったことを意味する。また、日本海側や大陸側の離島は出てくるのに、太平洋側の島々にはまったく言及されないあたりは、先祖たちが大陸からやってきた、あるいは大陸との交流が盛んだったことの証でもあるだろう。
このようにして、夫婦神は合計十四の島を生んだと古事記は語る。
日本書紀でも最初に生まれたのは親にとって不都合な子だった!?
一方、日本書紀ではどうなっているだろう。
二人が婚姻の儀式を行い、まぐわいして子を設けるのは同じだ。
ただ、生まれ順が違う。
最初に生まれたのは淡路洲(あわじしま)だったという。ただ、この子は普通の子ではなく胞衣、つまり胎児を包んでいる膜だけの存在だった。つまり、水蛭子や淡島同様、親にとっては「不都合な子」だったのだ。だから、やっぱり二神は喜ばなかった。
次に生まれたのは豊秋津洲つまり本州、以下四国、九州と続く。次は隠岐島と佐渡ヶ島が双子として誕生。さらに越洲、大洲、吉備洲と続く。
これらが生まれて、大八洲国が誕生した、とするのだ。
記紀の双方でまたまた話が大きく食い違っているのがわかってもらえただろうか。
最初に生まれてきた子が満足のいく子でなかった、という点は共通している。
しかし、古事記では水蛭子と淡島だったのが、日本書紀では淡路島になっている。では淡島と淡路島が同じなのか言うとそうでもない、らしい。古事記では、「まともな子」の筆頭として淡路島が生まれているからだ。
さらに、古事記では神から生まれた島の仲間に入っている壱岐島と対馬が、日本書紀ではイザナミが生んだのではなく、水の泡から生まれた島だとしている。
なぜそのような違いが生まれたのか。それは古事記と日本書紀では背景に置かれた「世界観」が違うからなのだという。さらに、編纂者の政治的な意図が働いている、と。
なんでそんなことになるのか詳しく知りたいところだが、今はひとまずスルーして、次回は「神生み」神話を見ていこうと思う。消化不良の方、すみません。待てない場合はぜひいろんな学術書を読んでみてください。編集部までご連絡いただければ、書籍をご紹介いたします。あ、この連載が終わる頃にはネタバレということで参考文献リストも出す予定なので、それまで待っていただいても結構です。
それでは次回をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら。
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