Culture
2022.05.25

織田信長は城の歴史も覆した!愛知・小牧山城で石垣の魅力を探索!

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城と言われて、みなさんは何をイメージしますか。やはり高くそびえた天守でしょうか。

しかし古くから、城は敵から身を守るための防御や攻撃を目的とした拠点でした。日本では山や丘などの自然の地形を活かして造られた山城と呼ばれるものが大半を占めていたのです。

山城とは土を高く盛り上げて固めた「土塁(土手のようなもの)」や敵の侵入を防ぐために「堀(山の尾根に造った深い溝など)」を組み合わせて造った城郭です。戦国時代まではほとんどがこの山城で戦いが繰り広げられていました。

山城→平城に発展していったという話は歴史の授業で習いました!

土の城から石の城へ。信長の先見の明は城造りにもあった!

ところが1563(永禄6)年に織田信長は、今までの山城の常識を覆しました。土で固めた土塁や堀だけでなく、かなりの高さのある石垣を用いて城を造ったのです。それが信長が最初に築城したといわれる愛知県小牧市にある小牧山城です。土の城から石の城へ。この小牧山城を起点に始まった城づくりは、見るものを圧倒しました。そして、家臣であった豊臣秀吉や徳川家康などの武将たちにも大きな影響を与え、織田信長以降、本格的な近世城郭が誕生したのです。

濃尾平野に突如現れる小高い山に築かれた小牧山城(画像提供:小牧市教育委員会)

石垣の城造りは時代によって違った! 石垣の積みかたや形状の変遷をたどる

近世城郭と呼ばれる城造りは、石垣の上に天守がそびえるというのが一般的なイメージです。大坂城や名古屋城、姫路城や熊本城などのように、反り返るような巨大な石垣は、建築としても美しいですよね。でもこういった石垣が築かれるようになるには、石垣の変遷ともいえる歴史がありました。

そもそも織田信長が初めて築いた小牧山城の石垣は、岩盤を切り崩した石をそのままの状態で使用しています。そのため、形状も不揃いで、積み上げる際に隙間ができるため、小さな間詰石を埋めて補いました。

このように石を加工せず、自然のままの石を積み上げた状態を野面積みと呼んでいます。巨石を支えるためには裏側に裏込め石と呼ばれるたくさんの小さな石を組みました。これらは雨水を排水しやすくさせる役目も持ち、石垣の崩れを防いでくれていました。小牧山城では、この裏込め石が大量に出土しています。

野面(のづら)積み、覚えておきます!


織田信長が近世城郭の礎を築き、豊臣秀吉に受け継がれた

石垣を造る中で、石の表面を平らにし、大きさをある程度揃えた方が積みやすいということもわかってくると、切り出した石を荒削りして、石を加工して積み上げるようになりました。それらが打込接(うちこみはぎ)や切込接(きりこみはぎ)と呼ばれた石積みの方法です。打込接は、野面積みより、石と石の隙間も小さくなり、野面積みよりも高い石垣が造れるようになりました。こうした経験を重ね、織田信長は安土城の築城において、石垣造りを進化させました。安土城では、穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石積みの技術集団が活躍したといわれいています。さらにこの後、織田信長から豊臣秀吉へと受け継がれた城造りは、織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と呼ばれるようになり、その技術もさらに高まり、仙台城や江戸城、金沢城などにみられる切込接のように石を四角い形に切って加工したものを積み上げる工法が見られ、石垣はより強固で美しい形状へと変化していったのです。

指一本入らないくらいピッタリ積んであるのが切込接。君も近くのお城の石垣を見てみてくれよな!

信長時代の巨石が発見された発掘調査による大スクープ!

小牧山城では、2004(平成16)年の発掘調査で、信長時代の巨石が発見されて以後、毎年、さまざまな遺構や遺跡が出土しました。そして、いわゆる城の中心、本丸と呼ばれる主郭部分に、そこを囲むように3段の石垣を確認できたのが、2013(平成25)年でした。上の段の石垣には大きな石材が使用され、石垣の高さは2.5~3.8mと推定されました。当時は、壮大な石垣によって築城されたのは安土城からだといわれていのたで、この発見は考古学や歴史学の専門家を震撼させたほどです。

1576(天正4)年築城とされる安土城よりも、13年も早く石垣が造られていたってことですね。


信長時代の巨石発見から18年! 復元プロジェクトがスタート

2022(令和4)年4月2日、こうした長年の発掘調査の成果から、遂に小牧山城の主郭地区に織田信長時代の石垣が復元されたのです。

え、それの何がすごいかって? この復元には、約460年前の巨石が、当時のままの場所で見ることができるのです。ということは、信長が見ていた石垣を現代の私たちも同じように目にしているということなんです。 

全国各地に城は数々あれど、戦火による焼失などで、詳細が不明なものや、明治時代の廃城令で破却されてしまい、跡地に道路や建造物ができ、遺構がわからなくなってしまったものも多いのです。では、なぜ小牧山城には、織田信長の築いた約460年も前の遺構が残されているのか。それは小牧・長久手の戦いで陣を張った家康ゆかりの城として、尾張徳川家が小牧山城を管理し、一般人の入山を禁止していたからなのです。そのため、荒らされることもなく、遺構が良い状態で残っていたというのが小牧山城の特徴でもあるのです。

江戸幕府、ぐっじょぶ!

小牧山城は地産地消の城? 岩山の利点を生かした城造り

すごいということがわかっていただけたところで、発掘調査を管理している小牧市教育委員会文化財課の武市礼子さん(右)と浅野友昭さん(左)に、今回の石垣復元プロジェクトの経緯について伺いました。

―今回の復元された部分の石垣について教えてください。

「石垣復元プロジェクトは、小牧山山頂にある歴史館周辺を5分割し、3段に積み上げられた石垣がすべて現存しているところから復元を開始しました。ところどころ、抜けてしまった部分は、新たな石を足して積み上げています。上の方の石に黄色い印があるのが、現代の石です。それ以外の下にある石は信長時代のものです。印がまだ消えていない今が、信長期の石と比較するチャンスでもあります」

―この石垣は、安土城などでもみられる野面積みという工法で積まれているんですよね。

「石工(いしく)という石の切り出しや加工を専門とする職人が、自然石のまま積み上げる野面積みを研究し、当時と同じ様な状態に積み上げました。石垣の石材が無くなっている部分でも、発掘調査で裏込め石が見つかっていることから、そこまでは石垣が積まれていたであろうという推定はできるのですが、実際の石が見つかっていないため、その部分は植栽で表現しています」

―これだけ立派な石垣が造られたということは、その他にも何か造られていた可能性はあるのでしょうか。

「石垣の上に何らかの建造物があったことも推定されていますが、発掘調査は行っておらず、また絵図なども残されていないため、詳しい事はわかっていません。ただ、現在、小牧市歴史館が建っている曲輪へ至る搦手道では、柱などを支える礎石が見つかっていることから、出入り口門には、門などが建っていた可能性も考えられます」

―小牧山城は、清須城から移ると決めてから、短い期間で築城されていますが、どうしてそんなに早く城が造れたんでしょうか。

「小牧山はチャート層でできた岩山なので、堆積された石を切り崩して使用できたことが大きいと思います。下へ降りる途中に石切り場があり、そこから運んでいたようです。まさに地産地消の城といえます」

石を遠くから運んでくる必要がなかった、と。


小牧山中腹にある岩切場(画像提供:小牧市教育委員会)

―地質までわかって築城したのであれば、織田信長は建築にも秀でていたのでは? と思えてきますね。他にはどのような特徴がありますか。

「石垣の石材の中に花崗岩も見つかっているのです。小牧・長久手の戦いの際に、豊臣(羽柴)秀吉軍が砦を築いた場所でもある岩崎山から運んできたのではといわれています。小牧山にはない花岡岩は、一番大きな石垣が造られた場所に4~5個は見つかっています」

岩崎山の石は名古屋城の築城にも使用された

佐久間石と呼ばれる巨石発掘が、小牧山城を信長の城と決定づけた

この石垣復元ができるまでには学芸員と発掘作業員たちの長くて地道な発掘調査の歴史がありました。中でも、2011(平成23)年、信長時代の石垣を証明する「佐久間」と墨書で書かれた巨石が出てきてことは、一大ニュースとなりました。当時から発掘調査に関わっていた発掘作業員の平手卓さんは、その時の様子を詳しく語ってくれました。

小牧山城の発掘調査に初年度から関わっている平手卓さん

「主郭地区に関していえば、ちょっと掘れば、大きな石がゴロゴロ出てくるような状態でした。その中でも特に大きな石があり、発掘作業に邪魔になるので、移動させることになったんです。ロープをかけて、ゴロゴロと重い石を引っ張りながら動かしているうちに泥が取れ、さらに雨が降って、石の表面が出ていたんですね。当時発掘調査の中心にいた学芸員の小野友紀子さんが、たまたま墨書で書かれた「佐久間」の文字を発見したんです。当時家臣たちは、自分が担当する石に名前を書いて区別していたのですが、まさか信長の重臣の佐久間の名前が出てくるとは思いもよらず。あの時の驚きは今も忘れられません」

石に書いた字が500年近く残ってたって、奇跡じゃないですか?


現在、佐久間石は、小牧山にあるれきしるこまきで展示されている(画像提供:小牧市教育委員会)

―信長期の城造りの史実が決定的となった瞬間だと思うのですが、そういうことはよくあるのですか。

「佐久間石が出てからは、石垣を支える裏込石も漬物大の大きさのものは、全部抜き出して仕分けするようになりました。大型トラックに10杯以上の量があったと思うんですが、土をブラシでさっと取り、水洗いして、四方全部見て、墨書がないか確認という作業が続きました。しかし、それ以降は見つからなかったんです。改めて、墨書が残った石が出たのは、すごいことだったんだと思いました」

発掘調査に使われる道具たち。発掘作業は土木工事といわれるほど、根気のいる地道な作業(画像提供:小牧市教育委員会)

建築のプロが語る信長の城造りの凄さ

―その他、平手さんにとって印象深い、発掘はありますか。

「居館部分があったと言われている所に、礎石といって柱を建てるための土台の石が見つかっているんです。その礎石が一間(いっけん)間隔で置かれていて、その横には、玉石が並べて敷かれていた。それらを考えると、茶室のように使われていた場所があったのではないかと推測できるんです。実際、主郭からは、天目茶碗なども出土しています。発掘調査で現代の生活と似たような居住部分が見つかるのはとても興味深いです」

(画像提供:小牧市教育委員会)

―平手さんは、一級建築士であり、数多くの現場を見ているからこそ、発掘調査でも見る視点が違いますよね。そういう部分は学芸員の知識と発掘調査員の知識がプラスの要素を生み出している気がします。小牧山城の縄張り図や模型も平手さんが造られたんですよね。

「建築関係の仕事をしていたので、基礎工事の部分を見ると、そこに建てられていたものをイメージしやすいんです。小牧山の縄張り図は、現地の発掘調査で出てきた遺構を元に図面に書いて、学芸員の方にアドバイスをいただきながら作成しました」

(画像提供:小牧市教育委員会)

「発掘調査で出てきた遺構は、確認した後は元の状態に戻してしまうんです。それで住民の方から『せっかく掘り出したものが見えないのは残念』という声があがっていて。それならその部分を模型にして見てもらったら、市民の方の理解も広がるんじゃないかと思ったんです」

発掘調査の現場は、土木作業さながらのハードな仕事(画像提供:小牧市教育委員会)

平手さんは武者人形も当時の大人の平均的身長の(150㎝)の50分の1サイズで作り、そこから石垣の高さを想像できるよう工夫して造りました。石垣の部分も取り外しできるようにしてあり、いつ発掘されたものかなども記しています。一般の方が見学に来て、この模型で実際の石垣の様子を知り、体感できるのは貴重です。

模型で見るとよくわかりますね! いやあ、模型っていいなあ!!(プラモデル好き)


(画像提供:小牧市教育委員会)

2014(平成26)年、北西調査区で見つかった石枡状遺構は、石垣が崩れないために考えられた水の処理方法です。石垣前面に流 れる雨水などの水を一箇所に集めて地中に流して処理する、一種の「浸透枡」のような機能を果たしてい た可能性があるのだとか。平手さんによれば、これらは現在でも同様の工法が行われているそうで、信長時代の築城技術の高さを知る手がかりにもなっています。

城造りは戦国武将からのメッセージ? 発掘調査はだから面白い!

小牧山城は、山麓から大手道をまっすぐ登り、中腹からつづら折りが始まっています。大手道の両脇には家臣の屋敷地が並んでいましたが、これは安土城でも見られる形式です。また安土城にも、雨水排水枡があることを考えると、安土城築城より10年前の小牧山城築城の際に、これらの技術を信長がすでに行っていたことになります。

織田信長は惜しくも、1582(天正10)年の本能寺の変で亡くなりますが、信長が描いた城造りは、豊臣秀吉をはじめとする、多くの戦国大名に受け継がれ、加藤清正や黒田官兵衛、藤堂高虎といった築城の名手を生み出すことにも繋がっていきました。権威の象徴としてそびえる石垣とその上に築かれた天守は、当時の最高建築として、今も私たちを楽しませてくれています。また、来年の大河ドラマ「どうする家康」では、城と共に運命を開いた徳川家康の人生が「城をキーワード」としても描かれるのでは!と思ってしまいます。発掘調査の続く小牧山城でも、まだまだ多くのドラマが生まれる可能性があります。

織田信長以降、城造りは戦うための城だけでなく、城下町を含めた一帯を総構えと呼び、経済基盤にもなっていきました。町の歴史に大きく関わる城造りは、戦国武将からのメッセージが込められているようにも思います。あなたの町にもあるお宝を発掘調査でぜひ見つけてみてはいかがでしょうか!

参考資料:『日本の城郭辞典』(ナツメ社)/千田嘉博著 
     『天下人の城 信長から秀吉・家康へ』(風媒社)/千田嘉博著 

小牧市歴史館

住所:愛知県小牧市堀の内1-1
開館時間:9:00~16:30、入館は16時15分まで
入場料:一般 100円、団体(30人以上)60円(中学生以下無料)
※小牧市歴史館の入場料で麓のれきしるこまきへも入場できます。
小牧市歴史館ホームページ

れきしるこまき(小牧山城史跡情報館常設展示室)

住所:愛知県小牧市堀の内1-1
開館時間:9:00~17:00(常設展示室への入場は16時30分まで)
入場料:一般 100円、 団体(30人以上)60円(中学生以下無料)
※小牧山城史跡情報館常設展示室の入場料で山頂の小牧市歴史館へも入場できます。
れきしるこまきホームページ

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