怪談話、浮世絵、甘味、伊勢参り。江戸時代に流行したものは数多かれど、そのなかには、あまり流行って欲しくないようなものもある。たとえば、心中である。
どうして心中(情死)なんかが流行ってしまったのか。
背景にはいろんな理由が考えられる。そもそも心中は、元禄以前にはほとんどなかったと言われている。それがまずは大阪、京都、やがて江戸へと伝播していった。この非常事態に江戸幕府は厳しい規制を設けなくてはならなかったほどである。それほど当時の江戸では心中事件が続発したのだ。
甘くない恋の結末
貞享1(1684)年に井原西鶴(いはらさいかく)によって書かれた『好色二代男』の巻八「流れは何の因果経」に、つぎのような一節がある。
「我がふる里のみしりし女郎計、詠めける久代屋の紅井、紙屋の雲井、京屋の初之丞、天王寺屋の高松、和泉屋の喜内、伏見屋の久米之介、住吉屋の初世、小倉屋の右京、拍屋の左保野、大和屋の市之丞、新屋の靫負、丹波屋の瀬川、野間屋の春弥、新町ばかりも是なれば、外は貌も見知らず、名も覚えず。」
「久代屋の紅井」に「紙屋の雲井」いったいどこの誰かと思えば、これ全部、当時の大阪新町遊郭で心中沙汰を引き起こした遊女の名前なのである。
新町だけでこれだけの遊女が亡くなっているのだから、上方と江戸における心中の流行(というのも不吉な表現だけれど)の人数を合わせたら、いったいどれだけの男女が死を選んだのだろう。
こうした流行の最中に、大坂竹本座で近松門左衛門作『曾根崎心中』が初演となったのは興味深い。
心中を選んだ背景はそれぞれあるだろうけれど、きっかけの一端となったのが「心中物」だった。じっさいの事件をもとに創作された男女の人生悲劇は、人形浄瑠璃や歌舞伎狂言となって、町の若者たちの心を掴んだのである。興業物としての「心中物」が表現するのは恋愛主義の謳歌だ。大袈裟ないいかたをすれば、庶民はみんな恋愛に夢中になっていたのである。
大阪の心中事件『曾根崎心中』
『曾根崎心中』は、大阪は曾根崎天神の森でじっさいに起こった心中事件を劇化した作品。それはこんなあらすじである。
男は商家の手代で女は遊女。この二人、すでに行先が決まっていた。
男は店の主人から持参金付きの縁談が持ち上がっていたし、女には身請け話があった。主人と使用人の関係が主従関係にあった時代である。だから男のほうも、主人が持ってきてくれた話を断るわけにはいかない。そのうえ、男の継母はすでに持参金を受け取っていた。
縁談が頓挫したことに腹をたてた主人が返済を迫るも、男は継母から取り戻した金を友人に貸しており、しかもなかなか返済されないので困っていた。そこで友人を問い詰めると、詐欺の濡れ衣を着せられてしまう始末。商人としての面目は地に落ちた。
男の身を案じた遊女は心中の覚悟を問いかける。
二人には、どう転んでも共に生きる未来はなかった。それならば、と一緒にいられる策はたった一つ。共に死ぬことだ。
後に男の無実が明らかになるも、時すでに遅く、二人は街を離れて、曽根崎の森を分け入っていった。
八百屋夫婦の心中事件『心中宵庚申』
近松門左衛門最後の世話物『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』は、八百屋夫婦の心中事件をモデルとした物語。ここでは愛し合う男女が、すでに結婚しているにも関わらず、義母との関係から心中を決意する。
半兵衛は八百屋の養子である。
実父の法要のために、今は故郷の浜松に出かけていて家を留守にしている。
妻のお千世は3度目の縁組みだから、すこし肩身が狭い。そんなお千世の身の上が気にくわなかったのだろうか。義母(姑)は半兵衛の留守中に、懐妊中のお千世を実家へ帰してしまう。
そこへ半兵衛が帰ってくる。お千世と添い遂げる覚悟でいた半兵衛は妻を連れて帰るが、義母は親不孝者と息子を責める。
お千世を愛している。けれど、このままでは義母が嫁を勝手に離縁したという不名誉な噂がたつかもしれない。これまでの恩もあったのだろう。半兵衛がもとは武士の息子であったことも関係あるかもしれない。
そこで半兵衛は改めて自分から離縁を言い渡し、夫婦2人は家を去り、心中を遂げるのだった。
八百屋お七事件『心中万年草』
『心中万年草』は、江戸は本郷の八百屋お七事件をもとに、高野山伝説と心中というテーマを盛りこんで作られた悲劇。もとネタである心中事件が起こったのは宝永4(1707)年頃というのがどうやら通説らしい。
大高野山南谷吉祥院の寺小姓である男は、かつて犯した罪から逃れるために僧院に引きとられている。そんな身の上でありながら、町娘と恋に落ち、破戒の罪が明らかになったことで、高野山から追われてしまう。
一方、娘のほうも親の定めた縁談に頭を抱えていた。男を一心に慕っていた娘は、男が山を下りてきたのを見つけると、一緒に家を抜け出してしまう。二人は死に場所を求めて不動坂の女人堂へと上って行く。
まだまだある心中物語
恋愛が自分たちの力の及ばない問題に直面したとき、恋人たちは心中という自棄的でありながら甘美な死へ自らを投じる。そんな心中物の作品を数多く残したのが、元禄時代最大の悲劇作者、近松門左衛門だ。
もうタイトルが内容を語っているが『生玉心中(いくたましんじゅう)』も恋人たちの心中物だ。父親の連れてきた許嫁に口先だけは従っている息子だが、彼には想い人がいた。相手はもちろん、遊女である。しかもこの息子、借金の催促から逃げていた。ようやく手にしたお金も友人に奪い取られ、もはや生きてはいけないと遊女とともに果てるのだった。
あらぬ罪を押しつけられて父親に勘当された男が、思い人の遊女と命を絶つ『心中二枚絵草紙』。馴染みの遊女のためにお金を借りた男が、妻と遊女のあいだに立って思案に暮れた末、兄夫婦に引き留められながらも結局は心中に至る『心中重井筒(しんじゅうかさねいづつ)』。
『心中天網島』では、大阪天満の紙屋の主人が妻子のある身ながら遊女と深い仲になる。恋敵は遊女を身請けしようとするが、紙屋の男にはお金がない。二人は心中を約束する。
こうも不幸がつづくと、こちらとしても物申したくなってくる。
いったい、どうしてこうも悪いことばかり起きるのか。どうして恋人たちはこれほど不幸で、これほど救いがないのだろう。
恋人たちはどうして心中を選ぶのか?
なんだか暗い話ばかりで書いていてうんざりするのだけど、恋人たちだってべつに死にたくて死んだわけではない。できるなら生きたかったし、生きて二人で幸せな人生を送りたかったにちがいないのだ。ただ、そうは社会が許さなかった。そしてもう一つ、恋人たちを悩ませていたのが、お金である。
社会制度の問題
たとえば『心中宵庚申』は心中物の中でもすこし珍しい、夫婦の心中という物語だ。義理の母親と息子との不和というのは現代でも耳にするような家族の問題だけれど、物語の核となるのは、半兵衛(息子)がもとは武士の出身であったということ。
武家ならではの家族のありよう、言い換えるなら時代の道徳や社会制度に縛られた息苦しさが、夫婦共に死ぬことを余儀なくさせているように思える。
ところですこし話はずれるのだけど、題名にある「庚申」とは、干支のひとつで「かのえさる」のこと。「去る」と「申」をかけているのだろうけれど、じつにセンスのよいネーミングだと思いませんか。
お金の問題
もう一つ、恋人たちが抱えていたのがお金の問題である。
いつの時代も色恋沙汰の裏には、金銭がからむのらしい。『心中天網島』も『心中重井筒』も『生玉心中』でも、男はいつも金に困り、金で揉め、そのためにかどうかは分からないけれど、不幸な事件に巻き込まれてしまう。『心中二枚絵草紙』でも、男が父親に勘当された理由はお金だった。
じっさい、借りたことも忘れてのらりくらりと暮らしていけるほど安い金額ではなかったのだ。たとえば『曾根崎心中』で継母が受けとったとされる持参金は(結局のところ友人に持っていかれてしまったけれど)今の金額にすると320万円くらいとの説もある。
日本人の恋愛観
身分違いの恋、叶わぬ恋はどこの国でも恋愛小説のロマンチックな題材だ。とはいえ、いつの時代も恋愛は幸福なことばかりではない。そのうえお相手が遊女ときては、一般人としての幸せを手に入れるのはそう簡単ではなかっただろう。
日本には近代以前には情痴小説はあったが恋愛小説は存在しなかった、という指摘がある。詳しい議論は専門家に任せることにして、もしそうなら、かつての日本人は、私たちが想像するような男女の純真な(いつもそうとは限らないけれど)恋愛観というものをもっていなかった、あるいは知らなかったのかもしれない。
近代になって形成された恋愛観は、「好色」を人生の理想とする『源氏物語』の恋愛観や「情痴」を人生の目的にする『好色一代男』とは、やはり趣が異なっている。
「憂き世」は「浮世」
恋人たちを心中へと駆り立てる理由はたくさんあるが、物語が描かれた当時の宗教観、つまり仏教観も死ぬ決意を促した理由のひとつと考えられるかもしれない。
心中物のなかには、来世を期待するような場面もおおい。「憂き世」という言葉から「浮世」という言葉がうまれたくらいである。これは私の勝手な想像にすぎないのだけど、現世では叶わぬ恋に苦しんだ恋人たちが、来世に期待したとしても不思議はない。
もちろん、自らの命を絶つことは罪深い行いだった。
それでも、二人の幸福のためなら、観音様も力を貸して罪を許してくれるかもしれない。そんな淡い期待が二人の胸をよぎったのではなかったか。とはいえ、こんな恋の結末は、やっぱり悲しい。
【参考文献】
「近松門左衛門『心中宵庚申』」文化デジタルライブラリー、2018年 https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/
『近松門左衛門集2』小学館、1998年
『日本古典にみる性と愛』中村真一郎、新潮社、1975年