Culture
2019.08.30

信長に仕えた黒人「弥助」とは何者だったのか。史料に見る実像とその後を探る

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弥助はなぜ最後まで戦い続けたのか

本能寺の変(歌川芳富「盆應寺夜討図」)

密命を帯びていた可能性

「これは謀叛か。いかなる者の企(くわだ)てぞ」。信長の問いに「明智の手勢と思われます」と応える森乱丸。「是非に及ばず」と口にした信長……。天正10(1582)年6月2日早朝に本能寺の変が起きた際、弥助も乱丸と同様に信長の側近くにいた。従って、信長と乱丸のこのやりとりも、弥助は耳にしていたかもしれない。

本能寺を直接襲った明智光秀の軍勢は一説に3,000(総勢は1万3,000)、片や信長の手勢はごく少数であり、ひとたまりもなかった。しかし小姓をはじめとする鍛え抜かれた家臣らは、即座に最善の防御態勢をとって明智勢を迎え撃ち、主君が炎の中で自刃する時間を稼ぎながら、そのほとんどが討死する。もちろん弥助も他の小姓たちとともに、ここで戦死してもおかしくはなかった。ところが彼は、明智勢に囲まれた本能寺から奇跡的に脱出することに成功するのである。

弥助が逃げるつもりであれば、本能寺のすぐ東にあるイエズス会の教会堂に駆け込めばよかった。しかし、彼は教会堂に目もくれず、北へと走る。目指したのは、信長の嫡男信忠(のぶただ)の宿所である妙覚寺(みょうかくじ)であった。『信長と弥助』のロックリー氏は伝承をもとに、弥助は信長から形見の刀を信忠に渡してほしいと託されたのではと推測しているが、確証はない。ただ、弥助が信長の密命を受けて脱出した可能性は高いだろう。本来、同僚らとともに、最後まで主君を守ることこそ、小姓である弥助の役目であるはずだった。しかし異国人の弥助であれば、脱出しても明智勢は手を出さないかもしれない。その可能性に賭けて、信長は密命を与えたのではないか。密命の内容とは、息子の信忠に「京都から脱出せよ」と伝えることであったろう。

織田家において信長の存在は絶対的であったが、信忠は誰もが認めるその後継者であり、たとえ信長が討たれても信忠が健在であれば、織田家は一丸となって巻き返しを図ることができた。それゆえ今は戦わず、血路を開いて速やかに京都を離れ、態勢を整えることを、信長は弥助を通じて息子に命じたのではないだろうか。

弥助を描いた来栖良夫『くろ助』

二条御所での奮戦、そして…

明智勢による本能寺襲撃の報せを受けた信忠は、信長を救援すべく妙覚寺を出た。しかし、すでに本能寺が焼け落ちたという続報が届き、救出を断念。近所の誠仁(さねひと)親王の二条御所を借りて、敵と一戦交えることを決する。弥助が信忠のもとに駆けつけたのは、その頃だったろう。弥助は信長の言葉を伝えるが、信忠が首を縦に振ることはなかった。「あの明智が、京の出口を固めていないはずがない。ぶざまに逃げたうえで討たれるのは無念である」と判断したのだ。実際はまだ脱出できる可能性があったのだが、信忠は気が早すぎた。信忠の手勢は信長よりは多かったものの、明智勢に攻められれば、万に一つの勝ち目もない。しかし信長が討たれ、後継者の信忠が二条御所で最後の戦いを挑むと言う以上、弥助もまた、ともに戦う覚悟を決める。それが織田家の侍としての、弥助の選択であった。

ほどなく明智の手勢が二条御所をとり囲み、迎え撃つ信忠の手勢との激闘が始まる。「つぎつぎと討って出て、切り殺し切り殺されしながら負けじ劣らじと」「刀の切っ先から火花を散らして」戦ったと『信長公記』は記す。その中に、弥助の姿もあった。信忠の忠臣たちは、劣勢をものともせず見事な戦いぶりを示しながら、みな倒れていった。やがて明智の手勢は隣接する屋敷の屋根上から鉄砲を撃ちかけ、御所にも火がかかる。頃合いを見て、信忠は、自分の首を敵に渡さぬよう命じ、自刃して果てた。小姓たちも信忠の盾となり、ほとんどが討死して、戦いは収束へと向かう。時刻は午前8時頃であったという。

この時、弥助は庭でまだ戦っていた。満身創痍となりながらも、刀を振るっていたのである。弥助の腕力を知る明智方は、接近戦で斬り合うことを敬遠したのかもしれない。しかし味方は全滅し、弥助は敵に取り囲まれた。やがて明智の将が恐れることなく弥助に近づき、刀を差し出せと言うと、彼はこれに従ったという。弥助の処分について明智光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず。聖堂に置け(イエズス会の教会堂に引き渡せ)」と命じた。弥助は教会堂に引き取られ、傷の手当てを受ける。ここに弥助の本能寺の変は幕を閉じるとともに、彼の消息を伝える記録も途絶えるのである。

弥助はまぎれもないサムライだった

弥助が命を落とさなかったことを感謝する文章を、ルイス・フロイスが本能寺の変の5ヵ月後に記しているので、重傷の弥助が死ななかったことは確かである。ただし、その後の彼の行方はわからない。

実は本能寺の変から2年後、弥助かもしれない人物が九州の戦場に現れる。天正12年(1584)3月24日、肥前島原半島(現、長崎県)で起きた沖田畷(おきたなわて)の戦いである。勢力拡大を目指す龍造寺隆信は、2万5,000の大軍で島原の有馬晴信(ありまはるのぶ)を攻め、有馬は薩摩の島津家久(しまづいえひさ)の援軍を加えた6,000でこれを迎え撃った。この時、有馬が所有しながら日本人が扱えなかった大砲2門を操作し、龍造寺軍を攻撃した黒人がいたという。この黒人が弥助であったのか、確証はない。しかし信長や信忠の死後、弥助が勝手を知った九州に戻った可能性はあるだろう。なお、沖田畷の戦いは、劣勢の有馬・島津連合軍が龍造寺隆信を討ち取る殊勲を挙げ、九州の勢力図を一変させる結果となった。大砲を撃った黒人に関するその後の記録は、残っていない。

弥助はその後、どんな生涯を送ったのだろう。人知れず、日本のどこかに骨をうずめたのか。あるいは九州の港から船出し、新天地でそれまでとは全く別の人生を歩んだのか。現代の私たちは想像するより他ない。

ただ一ついえるのは、弥助が信長に仕えた期間は1年半にも満たぬ短い期間だったとはいえ、彼は正真正銘の織田家の侍だった、ということである。それも信長が小姓として認めた有能な人材だった。そして本能寺の変において、最後まで戦った弥助の姿は、武士の行動原理に基づいたものであり、彼が「サムライの心」を抱いていたことを雄弁に物語っている。彼は外国人でありながら、まさしく「日本のサムライ」であった。そんな人物が戦国時代に実在していたことを、私たち日本人は知っていてもよいだろう。そしてこれからハリウッドで製作される映画で、弥助がどんな姿で現代に甦るのか、楽しみに待ちたい。

参考文献:ロックリー・トーマス『信長と弥助』、太田牛一原著、榊原潤訳『信長公記(下)』、谷口克広『信長の親衛隊』 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。