近年、発掘調査の黄金期と言えるほど、各地で遺構や遺物が見つかり、世間を賑わせています。2018年に「小牧山城山頂で織田信長の居住跡が発見」されたり、2019年には「徳川家康ゆかりの城である駿府城から、豊臣秀吉が造らせたとされる天守台の石垣や金箔瓦などが出土」するなど、今までの史実を塗り替える発表が続いているのです。
さらに2020年1月19日からスタートするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の美濃編で、舞台の中心となる岐阜城においても、またまた史実が変わるかも?というニュースが飛び込んできました。
1月7日に「岐阜城の山上部で、織田信長が築いた天守の土台(天守台)となる石垣が初めて見つかった」との記者発表があったのです。信長が築いた天守は、安土城が最古と言われていましたが、今回の発掘で、岐阜城にも天守に相当する高層建築物が実在したことが裏付けられたというのです。
もともと岐阜市は、昭和59(1984)年からの発掘調査で、織田信長が築いた数々の遺跡を発掘し、彼の城造りや町造りを明らかにしてきました。岐阜城で山麓の居館部分に金瓦を使用した建物や7カ所の庭園、茶の座敷などが造られていたことは、近代城郭のスタートとされていた豪華絢爛な安土城以前に、岐阜城で造られていたことが証明されているのです。「もはや発掘調査から目が離せない!」と思えるほど、大河ドラマと同じぐらいの熱いテンションで旋風を巻き起こしているのが、現在の岐阜城の発掘調査と言えます。
そこで、戦国時代の転換点ともなる歴史的戦いが幾度も起こったこの岐阜城の2019年の発掘調査を振り返りながら、「今、再び史実は変わるのか?」を岐阜市教育委員会事務局で歴史遺産活用推進審議監を務める内堀信雄さんに伺ってきました。さらに大河ドラマの見所となるポイントも押さえてきましたよ!
岐阜城の発掘調査がアツい! 次々に出土する石垣や遺構
― 2019年は当たり年ともいえるほど、発掘調査で新たな史実が見つかっています。今回の信長の天守台の石垣に加え、2019年4月に発表された山上部の広範囲に道三期の石垣が発見されたことも非常に大きな成果だと思うのですが、歴史上どんな意味を持つのでしょうか?
内堀氏:岐阜城の前身は稲葉山城といって、伝承によれば鎌倉時代以来の歴史を持つ山城です。美濃国の守護であった土岐頼芸を下剋上で知られる斎藤道三は追放、稲葉山城の整備を始めました。今までは本格的な城造りは、織田信長が稲葉山城を落城させ、名前を岐阜城と改め、大改修を行った1567(永禄10)年以降とされてきました。今回発表した「信長期に遡る可能性がある天守台石垣」は、安土城で完成したとされる天守の起源を考える上で極めて重要な発見だと考えています。このように、今まで織田信長の改修が強調されてきた山上部分ですが、分布調査の積み重ねから、斎藤時代(斎藤道三・義龍・龍興)に基本構造が完成したことがわかってきました。2019年4月の発表とそれ以後の調査によって、山上部の広範囲に斎藤時代の石垣が分布していること、信長時代と考えられてきた一ノ門の巨石石垣は斎藤時代の可能性が高いことがわかりました。今回の発見のように、信長はやはりすごいことをしているのですが、石垣の城造りは、信長の独創だけではなく、斎藤時代の城造りから影響を受けた部分もある、と考えています。
城郭の歴史において、織田信長以前と以降では、城造りの概念が違うとされてきました。戦国時代中期までは、城は戦いのための砦であったのですが、今回の発掘調査や分布調査によって、「織田信長が城造りを変えた」という史実が、変わる可能性が出てきたということなのです。
信長は、道三から城造りの基本を学んだのか
― そうなると、信長の義父であり、信頼を置いていた道三から、城造りを学んでいたということになるのでしょうか。
内堀氏:そうですね。信長が築いた小牧山城は、それが全てではありませんが、道三の稲葉山城をお手本にしたと考えられます。小牧山城は、石垣造りの山頂に城主の御殿、山麓に居館を作るという二重構造が見られますが、道三の稲葉山城時点ですでに、山麓の居館に加えて、山頂部に、石垣で護岸し、御殿を作って住んでいたことがわかってきました。江戸時代の伝承では、道三が城造りを始めたのは、1539年頃とされていますので、信長の小牧山城(1564年築城)の四半世紀も前に、石垣の城を築いたことになります。
内堀氏:また、道三は、城下町造りにおいても、信長に影響を与えていると考えています。道三の稲葉山(井口)城下町はかなり大規模で、稲葉山山麓に城主の居館を置き、その西側の2本の東西道路に沿って町人地を作り、町の周囲には総構えを巡らし、その内外に神社や寺を配置しました。信長が造った小牧山城下町も、道三の城下町を参考にして造った可能性は高い、と考えています。
― では、道三はどうやって石垣の城造りを学んだのでしょうか。
内堀氏:実は、守護であった土岐氏の居城・大桑城(おおがじょう)にも、岐阜城(稲葉山城)山上部の一ノ門とそっくりな巨石石垣が残されています。朝倉氏の居城・福井県一乗谷城にも巨石石垣の門がある。能登や越中にもある。巨石石垣はこの時代、中部地方守護大名の城造りのトレンドだったようです。道三か義龍かはわかりませんが、斎藤氏は守護の城の格式を示すため、他の城をまねて、稲葉山城に巨石石垣の一ノ門を築いた、と私は見ています。
岐阜城を舞台に描かれる「麒麟がくる」美濃編の見どころ
「麒麟がくる」の主人公、明智光秀は織田信長に仕える前、斎藤道三に仕えていましたし、斎藤道三の娘・帰蝶は、織田信長の正室・濃姫です。大河ドラマでは、帰蝶(濃姫)は、明智光秀のいとこでもあったとされていることから(諸説あり)、この岐阜城(稲葉山城)を中心に、いくつもの数奇な運命が重なり合いながら、壮大なスケールの歴史ドラマを生み出していきそうな予感がします。
明智光秀が斎藤道三の家臣時代には、もちろん織田信長との接点はないのですが、この岐阜城ですれ違っているという可能性はなきにしもあらず。そのあたりを大河ドラマはどう描いていくのかも気になるところです。
こうしてみると、今回の大河ドラマは、謎の多い明智光秀をクローズアップさせたと言われていますが、それは斎藤道三しかり、道三と信長の関係しかり。まるでミステリードラマを見るかのような、もはや誰が主役かわからなくなるような群像劇が観られるのかもしれません。
発掘調査から、歴史上の人物像を想像する楽しさ
私たちは後世に伝えられた軍記物や小説などで、斎藤道三には、「時世に長け、要領よく立ち回り、下剋上で成り上がったという少しズル賢い人物像」をイメージしたり、織田信長には、「カリスマ性のある独裁者で、無慈悲で冷徹、エキセントリックな人物像」を抱きがちです。けれど、このような発掘調査の記録を追うにつれ、戦国時代という荒々しい時代を生きながら、時に城造りにおいて、子弟関係を育んだり、伝統文化や教養を受け継いだりしてきてのだと思うと、また違った視点から、歴史上の人物たちの素顔に触れることができる気がします。
明智光秀が築いた城、坂本城や亀山城は信長の近世城郭を受け継いだとされていますが、もしかすると、織田信長や明智光秀に、城造りや町造りの原型を教えたのは道三だったのでは?という想像も掻き立てられ、叡智に富み、リーダーシップを発揮している道三像が浮かび上がってきたりもするのです。
私がこんなにも発掘調査に魅せられてしまうのは、出土品や遺構などから、遥か昔の歴史上の人物の人格や思考までをも想像させ、時空を超えて彼らの心にそっと寄り添うことができるからなのかもしれません。
さて、いよいよ初回放送が明日に迫った今、この複雑な関係性を大河ドラマはどのように描いているのか。斎藤道三を本木雅弘が演じるということからも、かなりのキーパーソンになっていくのではと勝手な妄想が膨らんでいきます。岐阜城の存在感は大きく、激動の歴史を刻み、錚々たる戦国武将たちがこの城を起点に大波乱を巻き起こしたことを想像するだけで、胸が高鳴ります!
今回の大河ドラマ「麒麟がくる」を観る前に、ぜひ、岐阜城へ足を運び、熱風のように盛り上がる空気を体感してみてください。
写真提供:岐阜市教育委員会