鎌倉幕府を作ったのは……そう、源頼朝です。
当時隆盛を誇っていた平家に反旗を翻し、坂東武者を率いて源平合戦に勝利し、その後の戦国時代・江戸時代につながる「武士による政治」の基盤を作りました。
鎌倉時代の歴史書である「吾妻鑑(あずまかがみ)」には頼朝のさまざまな逸話が残されていますが、なかなかスキャンダラスな話も書かれています。
頼朝の妻は「北条政子」ですが、実は他にもお気に入りの美女「亀の前」がいたのです!
猛アタックを受け、政子と結婚
まず、頼朝の妻である政子とのなれそめを軽く紹介しましょう。
平治元(1159)年、頼朝が13歳の頃、父と一緒に京都で戦をします。これは結託していた平清盛と有力政治家たちに、対立者たちが戦をしかけたもので「平治の乱」といいます。
結果として、清盛側の勝利となり、首謀者の1人だった頼朝の父は討ち取られ、頼朝は伊豆へと流罪となりました。初めは伊豆半島で最も勢力のある、伊東氏の元にいたのですが、監視役の伊東氏の娘に手を出してしまい、伊豆半島の中央にある韮山へと移されます。
その韮山での監視役が政子の家、北条氏でした。シティーボーイである頼朝にメロメロになったカントリーガールの政子は禁断の恋に落ちていくのです。
やがて時は流れて京都でも「打倒平氏」の機運が高まります。治承4(1180)年、頼朝はそれに呼応して立ち上がり、関東地方の武士たちを集めて源平合戦が始まりました。
出会ってしまった…心も見た目も美しい女性「亀の前」
亀の前が歴史に登場するのは治承6(1182)年のことです。まだ源平合戦をしている時期ですが、頼朝は鎌倉で政治の基盤となる都市づくりをしています。
そんな中、政子が妊娠しました。めでたい空気に包まれている中、頼朝がなにやら怪しい動きを見せます。
妊娠中の浮気!?
政子が臨月を迎えて、安心・安全に出産できるように他の家へ出産準備に行きました。その時、頼朝はとある美女と密会をします。それが亀の前です。
亀の前は、実は伊豆にいた頃から頼朝に仕えていた女性です。見た目が美しいだけでなく、穏やかな性格をしていて、頼朝はとても可愛がっていました。
この1年前から密かに会っていたようですが、政子の目が離れたことで、鎌倉の近く(現在の逗子市)に呼び寄せて会うようになったのです。
浮気がついに発覚!
政子は無事、元気な男の子を出産します。この子がのちの2代目将軍頼家となります。
しかし出産の後、鎌倉へ戻って来た時、実父の後添いである継母、牧の方からこの浮気を告げ口されました。当然政子は怒り心頭です。
政子は継母の父である牧宗親(まき むねちか)に命じて、なんと亀の前の住んでいた家を破壊してしまいます。亀の前は家の主である伏見広綱(ふしみ ひろつな)につれられて三浦半島(現在の葉山)へと逃げて行きました。
事件のその後
頼朝は、三浦に逃げた広綱の元にやってきて、家を破壊した宗親を呼び出します。宗親は平謝りしますが頼朝は許さずに宗親のちょんまげを切り落としてしまいました。
鎌倉時代は、ちょんまげを人前に晒す事は恥とされていて、ましてやそれを切り落とすのはとんでもない屈辱でした。
亀の前は再び伏見広綱の家に戻るのですが、この事件がきっかけで頼朝は更に可愛がるようになります。
そして事件から1か月経ったある日、突然広綱は鎌倉を追い出されてしまいました。理由は「政子の怒りのため」です。亀の前のその後は記録に残っていません。
「一夫多妻制」の時代に政子が怒り狂った理由
家を破壊することはともかく、政子が怒り狂うのももっともな話で、なぜ頼朝はなにも制裁を受けないのか! 宗親はちょんまげを切られるし、広綱は家を貸してただけなのに、家を壊されて追放されるなんてかわいそう……。と思う人も多いでしょう。私もそう思います。
現在では週刊誌を賑わすような大スキャンダルですが、これは現代の話ではなく、鎌倉時代の話であることがポイントです。
当時の夫婦は「一夫多妻制」で、一人の夫に複数の妻がいることが当たり前でした。ではなぜ政子は相手の家を壊すほどの嫉妬を見せたのでしょうか。
実は単なる嫉妬ではないのです。
「男は外に出て稼ぎ、女は家を守る」の意味
正室の役目は「家」を仕切る事です。この家というのは現代の一般的ないち家族とそのマイホームというわけではなく、本家・分家・側室たちの家・家来たちの家にも及びます。もはや会社のようなもので、例えるなら夫がCEO、正室はCOOみたいなものです。
「家」において正室の権限はとても強く、分家や側室たちの家々にとっては、日々の業務で窓口をしている正室が主人といっても過言ではありません。夫が早く亡くなれば嫡子が当主として認められるまで、CEOの役割もこなします。
なので私はこの時代の「男は外に出て、女は家を守る」というのは、現代的な男女平等とまではいかずとも、必ずしも女性が軽んじられていたわけではない、と思っています。
正室になるには身分が重要
鎌倉時代の夫婦関係は、戦国時代以降と少し違って、「正室の子が嫡男になる」のではなく、「嫡男を産んだ妻が正室になる」でした。
鎌倉時代の少し前の坂東では「長男が嫡男になる」パターンもありましたが、鎌倉時代に入ると京都風の「母の身分がより高い男子が嫡男になる」パターンが増えてきます。
さて、ここで政子の実家である北条を見てみましょう。実は、北条は鎌倉幕府の執権となるまではそこまで強い家ではありませんでした。出自の怪しい田舎豪族の1つです。「政子が頼朝の妻である」という点が、唯一の拠り所でした。
なのでもし、頼朝が少しでも家柄の良い妻を迎えて男児が産まれたら、その妻が政子に代わって正室となります。頼朝の「浮気」は、政子や北条氏にとってはまさに死活問題だったのです。
亀の前の身分は?
その事を踏まえて、亀の前がどんな女性だったかを見てみましょう。
この事件の詳細が書かれている「吾妻鑑(あずまかがみ)」には、伊豆の流人時代から仕えていた、としか書かれていません。なので私個人の推測になりますが、このような感じです。
亀の前に家を貸していた伏見広綱は、現在の静岡県掛川あたりにいた豪族ですが、「朝廷事情に詳しい人」と推薦され、頼朝の秘書の1人として抜擢されています。朝廷に詳しい=朝廷に勤務経験があるということで、京都では下級でも、鎌倉ではエリートとなるでしょう。
そんなエリートに保護されている亀の前も、それなりの身分があったのではないのでしょうか。
加えて、家を壊された亀の前が逃げ込んだ先は、当時三浦半島一帯を治めていた三浦一族の領域です。三浦一族の当主の正室は、頼朝が北条に来る前に手を出していた伊東の娘の姉でもあります。
この事から、亀の前も伊豆半島の大豪族「伊東氏」に繋がるとも考えられます。もしかしたら政子の前に付き合っていたあの女性……の可能性だってあります。
なんにせよ政子よりも身分の高い女性でしょう。
なので政子が激怒したのは「不倫したから」というだけでなく、「自分の地位や、自分の家が脅かされる存在が現れたから」という感情も含まれているのではないでしょうか。
亀の前事件は、「政子VS亀の前」の「女の戦い」と、「北条VS伏見」の「家の戦い」が絡み合った事件です。
もし亀の前との間に男児が生まれたら、亀の前が正室です。そして彼女の後ろ盾となっていた伏見広綱が北条氏に代わって大きな発言力を持つようになり、歴史も大きく変わっていたのかもしれません。
……でもやっぱり、宗親がちょんまげを切られたのは、とばっちりな気もします。
事件後、頼朝が行っていた「椿を見る会」の真相は……?
亀の前は三浦に逃げ込んだという記述以降、吾妻鑑には登場せず、歴史の表舞台からは消えてしまいました。
しかし三浦半島には、この続きの伝承が残っています。
現在マグロの町で有名な三崎港には頼朝の別荘が3つありました。「桜の御所」「桃の御所」「椿の御所」と呼ばれ、それぞれの花の季節になると中庭に溢れんばかりに咲くので、花見をしに来ていました。
実は、亀の前はこの椿の御所に匿われていました。頼朝は政子に「三浦に花見に行く」と言っては、恋人に会いに来ていたのです。
頼朝の死後、亀の前は尼となり、椿の御所に「大椿寺」という寺を開きました。
3つの別荘はその後鎌倉の歴代将軍に引き継がれ、三浦での花見会場として使用されるのですが、頼朝と政子の息子である、2代目将軍頼家と3代目将軍実朝は、とても気まずかったでしょうね。
「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)