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2020.03.11

俺、北条早雲なんて名乗ったことないんだけど!?戦国の火ぶたをきって落とした伊勢新九郎宗瑞の人生

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戦国時代の始まりはどこからだろうか。多くの人が思い浮かべるのが「北条早雲」のことだろう。しかし、北条早雲にはもうひとつ名前がある。それが「伊勢新九郎」だ。一体何者なのだろうか。その生涯に迫ってみよう。

実は岡山県生まれだった北条早雲

北条早雲は備中の国荏原荘(現在の岡山県井原市)の領主であった伊勢盛定の子として生まれた。生まれた年は諸説あり、正確にはわかっていない。12歳ごろに元服し、伊勢新九郎盛時と名乗る。その後、京都の伊勢本家に異動し、当時の将軍・足利義政の弟である足利義視(よしみ)に仕えるようになった。

それからしばらくして、1467年に「応仁・文明の乱」が勃発。京都の町のあちこちに火の手があがり、戦乱の世となった。義視は伊勢に逃げ、早雲もそれに従ったという説があるが、真偽のほどは不明である。同じころ、京都にやって来たのが駿河の守護大名・今川義忠だった。義忠は新九郎の姉妹を見初め、結婚することに。以後、姉妹は北川殿と呼ばれたが、北川殿が新九郎の姉であるのか妹であるのかは、現存の史料からは不明である。

先を読む力にたけていた新九郎

応仁・文明の乱において身の処しかたに迷っていた新九郎は、北川殿を頼って駿河に赴き、義忠の家臣となった。新九郎にはなんらかの思惑があったのかもしれないし、ただきょうだい仲がよかっただけなのかもしれない。平安時代、藤原道長の姉の詮子(せんし)が息子の一条天皇に頼み込んで、出世の見込みのなかった道長を内覧にした例もある。きょうだいというのはいつの時代も頼りになる存在なのだ。

しかし、不幸が起こった。義忠が戦から帰る途中で不意に現れた族に討たれたのだ。甲冑は重いので、合戦や人に見られる市中など、必要な時以外では身に着けていないことが多い。その隙をねらわれてはひとたまりもない。武芸に秀でた義忠は帰らぬ人となった。

残された義忠の息子・龍王丸(たつおうまる)はまだ6歳であったので、今川家では跡目争いが起こることとなる。すなわち龍王丸を担ぐ人々と、今川一族の小鹿範満(おしか・のりみつ)を担ぐ人々の対立である。これはなんとしても防がねばならない。争いを治めねば今川家は分裂してしまうと新九郎は案じた。これはなんとしても防がねばならない。新九郎はひとまず範満を当主とし、龍王丸が成人したらその座を譲るということにして、この危機を乗り切ることに成功した。

新九郎は今川家が当面落ち着いたことに安堵し、一旦京都に戻ると、大徳寺や建仁寺などの寺院で勉学に励んだ。武芸にも勉学にも深く興味を持ち、真摯に取り組む人柄だったのである。また、小笠原氏から妻をめとり、長男・氏綱が生まれた。先に述べたように年齢が不詳の新九郎であるが、この時すでに50歳前後だったと考えられる。

チャンスを見計らっていた新九郎 混乱に乗じて伊豆に領土を拡大

さて、1487年に新九郎は駿府に戻った。範満が約束を破り、当主の座を退かなかったからである。新九郎は夜討ちをかけ、範満を打ち取った。そして、龍王丸は今川家の当主となり、今川氏親(うじちか)と名乗った。この功績により、新九郎は現在の静岡県沼津市にあった興国寺城とその付近の領地(富士下方十二郷)を与えられた。

小田原城天守閣

同じころ、興国寺城とさほど離れていない伊豆・韮山の堀越に将軍・足利義政の弟である政知(まさとも)が派遣されてきた。政知は地名をとって「堀越公方」と呼ばれた。室町幕府では東国を治めるための機関を設けており、「古河公方」「鎌倉公方」などがいた。堀越公方もそのひとつである。政知はしばらくして亡くなり、跡を継いだのが茶々丸であった(元服後の名前はわかっていない)。しかし、茶々丸は跡を継いだといってもすべての人に歓迎されていたわけではなく、堀越公方をめぐっては混乱が生じていた。

この混乱は、新九郎にとっては好機であった。あくまで物語上のエピソードであるが、伊豆の修禅寺に湯治客を装って訪れ、様子をうかがっていたという。やがて、新九郎は堀越御所を襲い、伊豆を領土とすることに成功した。

伊勢新九郎については歴史史料が少なく、物語で語られることが多い。その一つがネズミと虎の夢である。ある時、新九郎はネズミの夢を見たという。ネズミは2本の杉の大木を齧っていた。とても倒せそうもない杉の木をネズミは執念で齧り倒すと、ネズミから虎になった。当時関東を支配していた「2本の大木」といえば「扇谷(おうぎがやつ)上杉氏」「山内上杉氏」。新九郎は自分が虎に化けるべく、両上杉氏を倒すことを誓ったといわれる。両上杉氏は新九郎をはじめとした諸勢力によって滅ぼされた。

その後も躍進!相模国全体を領土におさめ戦国大名のさきがけに

1495年ごろ、新九郎は神奈川県西部を支配していた大森氏を討った。この折、「鹿狩りをしていたら鹿が逃げ込んだ」ことを口実に大森氏の館に入り込んだというエピソードが有名だが、これは事実ではないようだ。しかし、いずれにせよ、この土地を手に入れることに成功した。以後、小田原が新九郎の拠点となる。

北条早雲の騎馬像

新九郎は手に入れた土地をしっかりとおさめ、領民から慕われる人柄のよい領主であった。領地の検地をおこなうなどし、適正な税の取り立てにつとめた。それまでの荘園的な領土支配からの脱却である。また、北条家分国法を定め、文武両道から日常生活の心得まで指導したことも、人心を集めるのに役立ったようだ。

1516年、新九郎は三浦半島の新井城を海陸両面から攻略、相模国全体を領土にした。しかし、わずか3年後にその生涯を終えた。88歳だったという説が濃厚である。墓は箱根湯本の早雲山にある。小田原北条氏は新九郎から数えて5代続いた。

戦国時代は「群雄割拠」「下剋上」「弱肉強食」の世の中であるといわれる。応仁の乱以後、それまでには見られなかった「足軽」が登場するなど、戦い方が変わってきた。さまざまな社会変化のなかで大きな変化を見せたのが伊勢新九郎盛時=北条早雲だったのである。そうした意味では、「戦国時代」は特別な時代ではなく、室町時代と地続きなのだといえよう。

あの名前、自分で名乗ったことはない!?

なお、北条早雲は自分で「北条」と名乗ったことはない。「伊勢新九郎」と名乗り、出家後は「早雲庵宗瑞」と名乗っていた。「北条」を名乗り始めたのは二代目の氏綱の時とされる。「伊勢」は西の地名でなじみがない一方、伊豆の韮山には「北条」という地名があり、そちらの方が浸透すると思われたのだ。「北条」は鎌倉幕府の執権である北条氏の出身地である。北条早雲の北条氏は、鎌倉時代の北条氏との混同を避けるために「後北条氏」と呼ばれてきたが、現在では「小田原北条氏」が一般的な呼称となっている。

前半生が謎とされていた北条早雲が伊勢新九郎、あるいは伊勢宗瑞であるということは、近年では常識となってきた。その理由は近年、呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)などで、室町幕府とその周辺に興味が注がれるようになったことが大きな理由である。

力の強いものが正義であるともいえる戦国時代は、新九郎の伊豆と小田原の侵攻から始まったのである。それまで関東はその土地の武士どうしが勢力争いをしていたが、新九郎のようなもとは関東とは縁がなかった武士が勢力を伸ばせるようになった時代。それこそが戦国時代であり、伊勢新九郎宗瑞はその先駆けとなった人物だったのだ。

もっと楽しみたい人に 漫画やお城も

伊勢新九郎の話をもっと知りたいと思ったかたにおすすめしたいのが、小学館『月刊スピリッツ』で連載中の漫画、『新九郎、奔る!』である。「機動警察パトレイバー」などでおなじみのゆうきまさみ先生による物語は、しっかりとした史料に基づいて書かれており、細かな部分の解説もふんだんに盛り込まれているので、勉強になる。パトレイバーファンで歴史ファンのわたしにはたまらない作品だ。

ゆうみまさみ『新九郎、奔る!』(小学館、現在3巻まで発売中)

さらに、小田原城は駅からも近く、多くの人が訪れている。戦国の世を開いた北条早雲こと伊勢新九郎。天守閣から城下を眺めて、彼と思いを同じくしてみてはいかがだろうか。

小田原城

入場料:天守閣…510円(子ども200円)、常盤木門SAMURAI館…200円(60円)、NINJA館(歴史見聞館)…310円(子ども100円) 
アクセス:小田原駅から徒歩10分
https://odawaracastle.com/