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2021.03.11

明智光秀は天守閣に立ち何を考えたのか?斬新な福知山城の謎に迫る!

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「明智光秀丹波をひろめ、ひろめ丹波の福知山」。これは、夏の風物詩『福知山音頭』の歌詞です。合間に入る「ドッコイセ」の囃子ことばが印象的ですが、明智光秀が福知山城を築いた時に誕生した歌なんだとか。領民たちが石材や木材を運ぶときに、「ドッコイセ、ドッコイセ」というかけ声と共に作業したのが始まりと伝えられています。

400年以上の歴史があるんですね!

毎年、8月中頃のお盆の時期には、福知山の市街地で「福知山ドッコイセまつり」が開催され、市民が音頭に合わせて踊ります。

JR福知山駅の駅舎は、曲線が描かれた印象的なデザインです。「福知山踊り」で女性がかぶる笠をイメージしていることから、福知山市を代表するお祭りだと感じさせられます。

どの場所から見ても美しい!福知山城

駅からタクシーで4、5分ほどで福知山城へ到着。

私も取材に同行しました!

小高い丘の上に立つ姿が優美で、とても美しい城です。4月上旬から中頃の桜の時期にはソメイヨシノが咲き誇り、城を背景にした花見が楽しめます。

取材日は2月上旬。辺りにうっすらと雪が残っていて、より美しく見えました!

本丸へと向かうのに堀にかかったアーチ型の昇龍橋を渡りますが、この橋から見上げる城の景色は格別です。登城口から坂道を登り本丸にたどり着くと、橋から見た印象とは違った趣があり、多面的な魅力を感じました。

福知山市は高層ビルがなく美しい景観が保たれています。そのお蔭で、市内のどの場所からも福知山城を眺めることができ、町のシンボルとして愛されています。

北近畿唯一の天守なんですって!

間近に見る福知山城は、迫力満点。『麒麟がくる』の世界へと誘ってくれます。

ドッコイセと運んだ!特徴のある石垣

福知山城は、天正7(1579)年頃、光秀が信長の命を受けて丹波を平定した後に築きました。この創建当時の石垣を、今も見ることができます。野面積み(のづらづみ)の石垣は、400年以上の年月を耐えてこの地にあることを思うと、感慨深い気持ちになります。五輪塔など多くの転用石が使われているのも特徴です。

天正時代の石垣が良好な状態で現存するのはここだけなんですって。

案内して下さった市役所担当者は、「転用石には様々な説がありますが、急いで築城するために使ったのではと考えられます。西側石垣にくっきりと線が浮かび上がっているのが見られますが、これは後に増築した時の境目です」。城の正面向かって右側が光秀が築城した当時の石垣で、左側が江戸時代の初め頃までに積んだ石垣と想像できます。とても面白いので、福知山城へ来られたら是非チェックして下さい。

光秀はどんな思いでこの石垣を築いたのだろう。想像がふくらみます!

光秀は間違いなくこの場所にいたと感じられる、光秀ファンにとって外せないスポットですね。

城の歴史を語る番所や城門

明治6(1873)年の廃城令により、天守周辺の石垣や番所、城門を残し、福知山城はその大半が失われました。福知山城の現存建造物である「銅門番所(あかがねもんばんしょ)」は、二ノ丸の登城口にあったものです。大正年間に天守台に移築されましたが、福知山城の再建時に再び本丸跡に移転されました。

市内には数か所、城門が移築されて現存しています。「廃城令の後に、移築されたようですね」と、市役所担当者。

福知山市内のあちこちに福知山城の一部が残されているんですね。

地形を生かした斬新な城だった!

城作りの才能があったと伝えられている光秀ですが、福知山城は当時最先端の城だったようです。丹波の山々に囲まれた福知山盆地の中央に位置した城は、周囲を流れる由良川(ゆらがわ)や、法川(ほうがわ)を利用して堀としていたのです。また丘陵を巧みに使った設計は、景観の美しさと合理性を兼ね備えた知性を感じさせます。

由良川の前面に植林されたと伝わる「明智藪」
川を使った自然の要塞ですね!

福知山城の内部は展示室として公開されていますが、『麒麟がくる』に合わせてリニューアルされ、1階に明智光秀に関する資料が展示されています。

築城の全体像を知るためのジオラマも見られます。

ジオラマでは、由良川の氾濫をおさえるために築いた土塁も再現。(写真は東側から天守をのぞむ)

光秀の人柄がしのばれる『家中軍法』

光秀は本能寺の変の1年前に当たる天正9(1581)年6月2日、将兵をまとめるための『明智光秀家中軍法』を定めました。御霊神社に所蔵されていますが、複製の展示を見ることができます。これは光秀の軍事政策や人柄を知る貴重な資料と言えます。

光秀によるマネジメントの書、といったかんじでしょうか。

『家中軍法』は十八か条からなり、戦場で足軽らに雑談や大声を慎んで先頭部隊の指示に従えなど具体的に記載されています。また、軍役負担について細かく指示を出していて、合理的な性格と感じられます。最後には信長への感謝の気持ちの文面が付け加えられています。

誠実でクレバーな性格故に、自身を追い込んで、謀反へと突き進んだのでしょうか? 何度考えても解けない謎です。

これぞ戦国ミステリー!!

注目したい!城代だった娘婿の明智秀満

大河ドラマ『麒麟がくる』では、間宮祥太郎演じる重臣・明智左馬助の光秀を支える姿が印象的でした。「ドラマでは左馬助と呼ばれていましたが、明智秀満(あけちひでみつ)という名前で、光秀が福知山城を築城してから城代(※1)を務めていました」。荒木村次(※2)と結婚していた光秀の娘の岸(きし)と再婚し、明智姓を名乗るようになったそうです。秀満が贈答品のお礼や、由良川での鮭漁に対しての指示が示された書状が展示されています。

※1 城主の代わりに城を守り、政務を代行するもの
※2 父の荒木村重と共に織田信長にそむいて敗れる。光秀の娘の岸と結婚していたが離縁。

一英斎芳艶『瓢軍談五十四場 三十八 右馬之助馬をもつて湖水を渡す』国立国会図書館デジタルコレクションより

秀満は、伝説として伝わる「左馬助の湖水渡り」でも知られる勇敢な武将です。

「左馬助の湖水渡り」は浮世絵にも描かれています!

山崎の合戦で光秀敗北の知らせを受けると、安土城から坂本城へ急行。その時に敵の追っ手を避けるために、乗馬したまま湖へ飛び込み、馬で湖と浜辺の陸地を走り抜けたというのです。なんともドラマチックですね。

「本能寺の変」の計画を事前に知らされた4人の重臣の1人と言われています。光秀にとって、頼もしい存在だったことが想像できます。

秀満の伝説が生まれた琵琶湖

初代明智光秀から続く、ユニークな城主たち

2階スペースでは、光秀の死後に城主を務めた20人を紹介する展示パネルや、古文書などの資料を見ることができます。

光秀が討たれてからは、一時的に豊臣秀吉の弟の秀長が管理しますが、その後次々に城主が変わります。「関ヶ原の戦い」の後、慶長5(1600)年に有馬豊氏(ありまとようじ)が入り、城主となりました。

「光秀が城下町の基礎を作り、豊氏時代に整備を進めたと考えられます。6万石の豊かな城主だったことで知られていますね」と市役所担当者。

光秀が去った後の歴史のほうが長いのに、福知山城のその後を知らなかった!

豊氏の転封(てんぽう・大名の配置換え)後は、2人の大名を経て、慶安2(1649)年に松平忠房(まつだいらただふさ)が入城します。在城20年の後、「島原の乱」の混乱が残る肥前国島原へ転封。島原で見つかった福知山城絵図には、堀や川や道が色分けされていて、当時賑わった船着き場などが細かく描かれています。複製が展示されているので、歴史の移り変わりがうかがい知れました。

松平時代の福知山城下絵図(島原市本光寺所蔵)

忠房の後には、常陸国土浦から朽木稙昌(くつきたねまさ)が福知山城に入って以降は、13代約200年にわたり、朽木氏が福知山藩主を務めました。なお福知山城で販売されている御城印は、稙昌が受け取った福知山藩の領地目録の文字から作られています。

丹波国福智山城付郷村高帳(朽木家文書)

朽木氏は代々幕府の要職を歴任し、書画文芸に優れた者が多く、オランダ商館長チチングとの交流など蘭学研究に通じた8代昌綱(まさつな)などユニークな城主だったようです。「領民とも良い交流をしていたようで、最後の藩主となった13代の為綱(もりつな)は、廃藩置県(はいはんちけん)※で免官となり東京に移りますが、領民の慕う声に応えるように福知山に一時戻ってるんですよ」。光秀から続く温かい関係性が育まれる土地柄なのでしょう。

※明治4(1871)年明治政府はそれまでの藩を廃止して、府と県に一元化した。知藩事とされていた大名は東京への移住が強制された
文化的な光秀イズムを継承していたのかな? 朽木氏のこと、もっと知りたくなりました。

絵心のある6代綱貞が描いたトドの絵

市民の力を結集させた天守閣から見る眺め

明治時代に入ると福知山城は廃城となり、石垣と一部の遺構を除いた大部分が取り壊されてしまいます。昭和61(1986)年、「市民の瓦一枚運動」など市民の復活させたい機運が高まり、往年の絵図をもとに天守閣が復元されました。以来、市のシンボルとして町を見守っています。

天守閣からは、城下町と由良川が一望できます。光秀は、元は何もなかった地域に城下町を築きました。遠くの山々の景色を眺めながら、物思いにふけったりしたのでしょうか? 様々な想像が膨らみます。

「天守閣外観は有馬豊氏から松平忠房の頃の絵図を参考にして復元されました。昨年に明治時代に福知山城を撮影した写真が発見されまして、江戸時代の天守と、今の再建天守閣はほぼ間違いがなかったと検証されています」と担当者。『麒麟がくる』によって巻き起こったブームと共に、あきらかになった世紀の大発見! これは、実際に見たくなりますよね? 福知山城を堪能した後は、是非ゆかりの場所や、城下町も巡ってください。

福知山城基本情報

開館時間:9時~17時(入館は16時半まで)
休館日:火曜日(2021年4月から)/年末年始
入館料:一般 330円 こども 110円
住所:福知山市字内記5番地
公式Web:https://www.fukuchiyamacastle.jp

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。

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我の名は、ミステリアス鳩仮面である。1988年4月生まれ、埼玉出身。叔父は鳩界で一世を風靡したピジョン・ザ・グレート。憧れの存在はイトーヨーカドーの鳩。