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2020.06.02

戦経験ゼロで総大将にされちゃった藤原秀康!超エリートのしくじりから学ぶこととは

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「賢者は歴史から学ぶ」って言葉、けっこう誤解されていると思うのですよね。
本屋に行くと「家康に学ぶ~」とか「〇〇に学ぶリーダーシップ」など、歴史上の成功者の成功例を紹介するビジネス書が溢れています。

でも、成功例を真似て成功するのってすごく難しくないでしょうか?

家康が成功して天下を取った方法でも、周りにいる人間がまず違いますし、戦国時代と現代では法律だって違います。

第二次世界大戦の時も、日本軍が奇襲を多用したのは義経の奇襲作戦から学んだと言われていますが、誰も「馬と戦闘機じゃ足の数も違う」ってツッコまなかったのでしょうか……。

「歴史に学べ」というのは、19世紀のドイツ帝国初代宰相ビスマルクの言葉で、本来は「歴史の失敗から学んで自分の人生に活かすのだ」という意味です。

周り人物や環境、条件が少しでも違うと歴史上の成功例を再現するのは非常に難しい。けれど失敗例を戒めとして、自分が繰り返さないことはできるはず!

というわけで、今回紹介するのは鎌倉時代を代表する大失敗をやらかしたエリート武士「藤原秀康(ふじわらの ひでやす)」です。

才能にも運にも恵まれた稀代のエリート

藤原秀康の半生は、本当に恵まれていて、出世街道をとんとん拍子に駆け上がってきます。

グラフで表すとこんな感じです。下の数字はだいたいの年齢です。


彼は「秀郷流藤原氏」という軍事貴族出身です。先祖は平将門を討伐した藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)で、母方の先祖は酒呑童子を退治した源頼光という、わりと由緒がある血筋です。

生まれからしてそんじょそこらの武士とは違いますね!

あまりにも順調すぎる出世劇

ちょうど秀康が元服する15歳の頃、「建久七年の政変」歴史に残る政権交代が起きます。

以前の「後鳥羽上皇の手相占い」の記事でも紹介したように、後鳥羽上皇(当時は天皇)の後ろ盾となる権力者がガラッと変わる……まさに与党と野党が入れ替わるぐらいの大改革でした。

今までの役職者が全員リストラされ、新たな人物が採用されます。その中で内舎人(うちどねり)と呼ばれる天皇の身辺警護役に藤原秀康の名前があります。

政変の後、後鳥羽天皇は息子に譲位して上皇となり、名実共に日本最高の権力者となりました。

それと同時に藤原秀康も「左兵衛権少尉(さひょうえの ごんの しょうい)」、翌年には「左衛門少尉(さえもんの しょうい)」に任じられています。

現代で例えるなら、士官学校の優秀者から選ばれた上皇親衛隊の中でも精鋭部隊、か~ら~の警察の警部! という感じの経歴です。

さらに、23歳の頃に官位が1段階上がり、ある重要な仕事を任されます。

鎌倉幕府3代目将軍、源実朝の妻となる坊門信子(ぼうもん のぶこ)という貴族の少女を鎌倉まで送る護衛部隊です。

これに選ばれるということは、それなりの武芸の実力があり、ある程度はグッドルッキングガイだったんじゃないでしょうか。

さらに翌年には下野守(しもずけの かみ)に任じられています。現代でいうところの栃木県知事ですが……当時は国の中でも格上格下があり、下野国は「上国」と呼ばれる格上の国でした。

そしてその翌年には、さらに格上の「大国」である河内守(かわちの かみ)にも任じられます!

この頃には後鳥羽院のお気に入りの側近としてブイブイ言わせていて、秀康の娘も天皇の后に仕える侍女として宮中へ勤め始めます。

ここまで挫折知らずの出世街道を突き進んでいて、私は全く共感できませんが……ついに初めてのピンチが訪れます!

人生初のピンチ! 裁判沙汰になったけど……

29歳の頃、秀康は大国の上総介(かずさの すけ)となります。

「守」が知事なら「介」は副知事になりますが、上総守になれるのは、親王……つまり天皇の息子のみなので、実質的に介が守の役目をします。

しかし、秀康は上総国に前からいた役人に「横暴した」と訴えられてしまいました。

上総国は現在の千葉県南部にあたり、位置的に鎌倉幕府の支配圏です。

役人は鎌倉幕府に訴えましたが、幕府は「いや、でもこの人、後鳥羽院の側近だし……。さすがにうちで裁判はできないから、朝廷に訴えて」と退けました。

しかし朝廷に訴えたところで、秀康は後鳥羽院のお気に入りです。
秀康の圧勝だったのか、特に処罰を受けた様子もありませんでした。

そして秀康が32歳の頃、京都中の寺を修繕する事業がありました。
秀康はこれに多額の寄付をして賞を貰い、圧倒的な財力を示します。

誰か……誰かこの男を倒せる奴はいないのか……。

まだまだ止まらない! 秀康株もストップ高!

秀康の名声を不動のものにしたのは、35歳の頃。
京都を脅かす盗賊団を、弟の秀澄と共に一網打尽にしました!

しかも盗品は1品の欠けもなく全て持ち主へ返還し、後鳥羽上皇の信頼のみならず京都のヒーローとしての地位を獲得しました!

そこで得た役職が「右馬権助(うめの ごんの すけ)」。

馬の世話係……というと下っ端の雑用感がありますが、当時の馬は戦車や戦闘機のような扱いです。つまり現在で言うなら防衛省の幹部クラスです。

その名声が留まる事を知らない藤原秀康。
しかし……その栄華もストップ高になったころ、鎌倉で大事件が起こります。

3代目将軍、実朝暗殺事件です! ついに秀康転落のカウントダウンが始まります!

挫折を知らぬまま承久の乱へ……

実朝暗殺事件の後、次期将軍を誰にするかで、朝廷と鎌倉でひと悶着がありました。

北条氏は天皇の息子の1人を将軍候補にと望みますが、後鳥羽上皇はこれを拒否し、代わりに大臣である西園寺公経(さいおんじ きんつね)の幼い孫を将軍候補として鎌倉に送りました。

同じ頃、宮中で大内裏(天皇が居住する屋敷)の護衛をしていた源頼茂(みなもとの よりもち)が、自分も将軍になれると企てたとして、後鳥羽上皇から兵を差し向けられます。

『皇城大内裏地圖』

頼茂は護衛の役目と兼業して、鎌倉幕府の御家人となり、朝廷と鎌倉の仲介者となっている1人でした。

ちなみにこの源頼茂さん、「源」さんではあるのですが、鎌倉将軍の源さんとは血縁関係は全くありません。300年ぐらい前の先祖が同じというだけの間柄です。

何よりも血筋が大事だったこの時代に、本当に将軍になろうとしたのか不思議な事件ですが、ともかく藤原秀康は頼茂襲撃の大将となり、頼茂は内裏に火を放って自害しました。

この事件をきっかけに、後鳥羽上皇は鎌倉幕府とつながりのある人物をどんどん排除していきます。

そしてついに承久3(1221)年5月15日、朝廷と鎌倉の仲介者の1人だった伊賀光李(いが みつすえ)を襲撃し、同時に西園寺公経を捕まえて監禁してしまいました。この時、西園寺公経を捕まえたのが藤原秀康です。

そして後鳥羽上皇は鎌倉の武士たちは全員朝廷の味方になるだろうと思い、「北条義時を討伐せよ」という院宣(いんぜん/上皇の命令書)を発行するのですが、ほぼ同時に伊賀光李も北条義時に危険を知らせる文を出していました。

院宣を鎌倉へ持っていけと命じられたのは、藤原秀康の部下である押松丸という人物です。

藤原秀康株、ストップ高!

ちなみにこの押松丸、京から目線で鎌倉をナメてるというか、人生そのものをナメているような、めちゃくちゃポジティブシンキングでお調子者なんですけれど、それはまた別の機会に語るとして……後鳥羽上皇を始めとした朝廷の幹部たちは「押松丸が義時の首を持って帰って来るに違いない」と思っていました。

藤原秀康株、ついに大暴落!

しかし、押松丸が持って来たのは、義時の首ではなく「鎌倉御家人19万人が京都へ攻めて来る」という知らせでした。

その瞬間の、藤原秀康の株価はこちら。

突き抜けたァー!

その場にいた公家たちは無言で俯きました。藤原秀康も同じように下を向いています。

そんな中、御簾の向こうにいた後鳥羽上皇が呆れた声で言いました。

「お前たちはそんなに臆病なのに、麻呂に鎌倉と戦しろなんて言ったのか」

鎌倉の武士たちが攻めて来るというのなら、迎え撃たなくてはなりません。
しかし源平合戦から40年経っています。大軍を指揮した事がある経験者は朝廷には誰も残っていません。

対して鎌倉幕府は内乱を含めて、多くの戦経験者がいます。

誰が総大将となるのか……困り果てた公家たちの視線の先には、盗賊退治した京都のヒーロー藤原秀康。

「お前しかできない。お前は優秀だし、なんでもできるだろ?」

秀康自身、指揮を執っていたのは都の警備の範囲で、戦として何千何万もの武士を束ねた経験などありません。

しかし誰も経験したことのない大役を「この人ならやれる」と任されるほど、信頼と実績を重ねて来たのは、他でもない藤原秀康自身でした。

あなたならどうする!? 秀康のしくじり

未経験の大役を任された時、あなたならどうしますか?

多くの人は「経験者に話を聞きに行く」と即答するでしょう。
けれど、周りにも経験者がいなかったら?

現代はネットやSNSが発達していて、経験者の声もすぐに集まるでしょう。
しかし当時はそんな事なんてできません。

けれど秀康が率いる軍の中には「鎌倉幕府や北条氏に反発する鎌倉御家人」も大勢いました。

彼らもまた戦経験が豊富なのですが……秀康が彼らの意見に耳を傾けることはなかったのです。

その理由は「身分が低い無教養の田舎侍」という、坂東武者に対する侮りがまだ根深い時代だったというのもあるでしょう。

その1.ただでさえ少ない兵を分散させた

京都方の兵は約1万人。対して鎌倉の軍勢は19万人だったと言われています。
もちろんこの数字は誇張されているとは思いますが、圧倒的な戦力差があったのは確かでしょう。

秀康は「京都を戦場にするわけにはいかない」と考えて、岐阜県と愛知県の境にある木曽川沿いに防衛ラインを築きます。

渡川の要所に陣営を張って待ち構えるのですが、ただでさえ少ない手勢を分散させてしまったので、その防衛力も薄いものだったと言わざるを得ません。

その2.恐怖のあまりなにもできなかった

川の上流から防衛ラインを崩されて、下流へ逃げて来る味方、それを追いかけて矢を放ち、切り伏せる鬼の形相の坂東武者。

藤原秀康は初めて「戦」を経験し、自分のちょっとした采配ミスで多くの味方を失う現実を目の当たりにしました。

その結果、秀康は恐怖にかられ、戦う事もせず、陣営を捨てて逃げることにしました。

この決断は、味方だった坂東武者たちを更にガッカリさせてしまいます。

秀康の陣営にいた鏡久綱(かがみ ひさつな)という滋賀県鏡山の武士は、「あんな臆病者に従っていられない。自分の死に場所は自分で決める」と言って陣営に留まり、味方が逃げるための時間稼ぎをしました。

その様子を鎌倉の武士たちも「敵ながら天晴」と称えましたが……。

総大将の藤原秀康は、戦が終わるまで、ただ逃げているだけです。
奮闘した武士の多くは、京都方についた坂東武者や下級武士でした。

その3.逃げて逃げて逃げまくり、ヘタレ総大将として歴史に残る

藤原秀康は逃げまくり、最後の最後に後鳥羽上皇の元へ助けを求めてやってきます。

しかし後鳥羽上皇は門を固く閉ざしたまま。
助けるどころか「お前らがここに来たら鎌倉軍が攻めてくるじゃん! どこか遠くへ行ってくれ!」という残念なものでした。

最後まで残った歴戦の武士たちは、最期の抵抗とばかりに数人の仲間と共に籠城し、戦って散って行きました。

しかし秀康は後鳥羽院が命じた通り「どこか遠くへ」逃げていきます。

そして4か月ほど経った承久3(1221)年10月ついに捕らえられ、処刑されました。

秀康に学べ、日本人!

藤原秀康の最大のしくじりは、経験がないのに経験者の声を無視してしまったこと。

それから、今まで大きな挫折が無かったために、初めての無力感に打ちのめされてしまったことです。

そして秀康は「敗軍の将」として、全ての責任を取らされ、初めての挫折から挽回する機会も得られずに処刑されてしまいました。

戦前の輝かしい功績は見る影もなく、「総大将に相応しくないヘタレっぷり」だけが歴史に残されていて、現在も笑い者となっています。

さて彼の死からちょうど799年、800回忌を迎える今年、日本は戦後75年迎えます。

「戦経験がない総大将」のヘタレっぷりを他人事のように笑い、「自分はこうはならないぞ」と言える日がいつまでも続くのなら、きっと彼も笑われ甲斐があるというものでしょうね。

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)