令和4(2022)年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、鎌倉時代より前の歴史を学ぼうのコーナー! 今回は鎌倉幕府初代将軍、征夷大将軍でもあった源頼朝(よりとも)様の父、義朝(よしとも)様が坂東にやってきた頃の話!!
……と、言ってもいつどうやって坂東にやってきたのかは、実はハッキリとはわかっていないんだ。相当若い……元服前にはやってきたんだろうって事はわかるんだが……。
義朝様とその父為義殿の仲がメチャクチャ悪くて、勘当同然に京から追い出されて坂東にやってきた、なんて言われてるんだが、それなりに親子間のコミュニケーションは取れていたのではないかともされている。
我らの裁定者、源氏の御曹司
坂東にやってきた義朝様は、平忠常(たいらの ただつね)の乱の時に、乱を鎮めた裁定者・源頼信(みなもとの よりのぶ)公のように、坂東南部の裁定者としての役割を期待されていた。
前回、京で河内源氏のお家事情が血なまぐさいことになっていた事は紹介したが、坂東は坂東で領地争いが酷くってなぁ。現代なら土地争いは裁判所で争うわけだが、当時は裁判所は京にしかなく、しかも京の人は坂東民をめっちゃ侮っていたから、公平なものでもなくてなぁ。
法律が守ってくれないから、自分で自分を守らなくてはいけない。これがいわゆる「ナメられたら殺す」の「自力救済(じりききゅうさい)」ってやつだ。
まあ、それはさておき。
義朝様は「源氏の血筋」と「京へのコネクション」を持って、坂東の領土問題に切り込んだ! その1つが、大庭景親(おおば かげちか)の記事で紹介した大庭御厨(おおば みくりや)だな。
他にも坂東北部……下野国に所領を持っていた大叔父・源義国(よしくに)殿の子、義康(よしやす)殿の勢力との緊張状態が起こった時は、同盟を組んで戦闘を回避している。
義朝様と子どもたち
とまぁ、坂東南部の所領問題に介入しながら、各地の有力者の娘や妹と結婚し、子どもを作った。
長男は三浦氏の娘との子、義平(よしひら)殿。次男は波多野氏の妹との子、朝長(ともなが)殿。朝長殿については、和樂webの過去記事でも取り上げられている!
平治の乱で父に殺された源朝長。肉親同士の悲劇の連鎖はなぜ起こったのか?
そして、熱田神宮の大宮司の娘、由良(ゆら)御前との間に我らが将軍、3男の頼朝様! そして4男義門(よしかど)殿、5男希義(まれよし)殿。女子の坊門(ぼうもん)姫。
6男は、遠江国の池田宿の遊女との間に範頼(のりより)殿。そして宮仕えの女房、常盤(ときわ)御前との間の7男阿野全成(あの ぜんせい)殿、8男義円(ぎえん)殿、9男義経殿だ!!
……まぁ、義朝様の妻の分布を見ると分かるように、ずっと坂東にいたワケじゃない。長男の義平殿が元服した頃、義朝殿は坂東を義平殿に任せて、京へと戻っている。義朝様の正妻である由良御前の実家のコネで、当時の権力者である鳥羽上皇や関白の藤原忠通(ふじわらの ただみち)卿に接近する事ができたんだ。
だから仁平3(1153)年には31歳で下野守(しもつけの かみ)となっている。河内源氏が受領(ずりょう=〇〇守になること)したのは、義家(よしいえ)公以来の50年ぶり! つまり、父・為義殿の立場を完全に超えてしまったわけだ。
為義殿からしたら、息子に超えられる事はあまり喜ばしいことではなかったのかもしれんな。武蔵国にいた次男の義賢(よしたか)殿に命じて、勢力を南下させたんだ。
京にいながらそれを知った義朝様は、相模国に残してきた義平殿に義賢殿を討ち取れと命じた。武蔵VS相模………埼玉vs神奈川の、大蔵(おおくら)合戦の始まりだぁ!! ということで次回に続く!!
▼前回までの記事はこちら!
「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)
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