2023年大河ドラマ『どうする家康』は、主人公の徳川家康をはじめ周囲の人物が、従来のイメージとは違っているのが印象的です。特に野村萬斎演じる今川義元は、公家かぶれの軟弱者ではなく、教養と品格を兼ね備えた優れた大名といった描き方。
この偉大な父を持つ今川氏真(いまがわうじざね)は、そのコンプレックスもあって、父に目を掛けられる家康に嫉妬心を持っています。敵対関係になると、ゾッとするような狂気の顔を見せる闇落ちキャラと化した氏真。演じているのは、大河ドラマ初出演の溝端淳平です。そんな、ちょっと気になる今川氏真の人生を追ってみたいと思います。
名門・今川家の跡取りとして誕生
氏真は義元の嫡男として天文7(1538)年に生まれました。家康よりも5歳上になります。母は武田信虎の娘で、武田信玄の姉の定恵院(じょうけいいん)。エリート一族に誕生した、期待の跡取りとして育てられます。少年期から青年期にかけては、人質※として今川家に預けられた家康と共に、勉学や剣術に切磋琢磨したことでしょう。
北条家の姫と政略結婚
義元が一族を率いていた時代は、駿河(するが 静岡県中部)の今川氏、甲斐(山梨県)の武田氏、相模(神奈川県)の北条氏の3勢力が、緊張状態にありました。そのため、天文23(1554)年に北条氏康(ほうじょううじやす)の娘・早川殿と氏真は結婚します。氏真は16歳、早川殿は17歳でした。(諸説あり)
この結婚に先立って、氏康の嫡男・氏政は武田信玄の娘と、信玄の嫡男・義信は氏真の妹と結婚しています。3組とも3家の娘と嫡子との組み合わせで、同盟を結ぶことが目的の政略結婚だった訳です。こうして3国では甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれ、緊張状態は一時緩和されたのでした。
運命を分けた桶狭間の戦い
ところが穏やかな生活は、突然の悲劇によって打ち砕かれます。義元が西に勢力を伸ばそうと、尾張(愛知県)の織田家の侵攻を思いついたことが、きっかけでした。当時織田信長は、父である信秀の死によって家督を継いだばかり。信長は、まだ名も無き武将だったことから、義元はたやすく勝利をおさめられると考えたのです。こうして義元率いる2万5千もの大軍と、信長率いる4千ばかりの軍との戦いが始まります。
しかし、兵力で圧倒していたにも関わらず、信長の攻撃を受けると、義元はあえなく討ち死に。これが歴史的な合戦として知られている桶狭間の戦いです。氏真は心の準備もないまま、今川家を継ぎます。22歳の時でした。
▼桶狭間の戦いについて詳しく知りたい方は、こちらをお読み下さい。
奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか
裏切った家康への葛藤
義元が戦死し、重臣も多数失うなど、桶狭間の戦いで氏真は信長に大敗します。敗戦がきっかけで、大きく動揺する今川家。なかでも家臣として戦っていた家康が岡崎城に入り、今川家から離反したことは衝撃でした。あろうことか、父を死においやった信長と同盟を結ぶとは! 人質とはいえ、将来、武将として今川家を支えることを期待していただけに、この裏切りは、氏真にとって許せなかったのではないでしょうか。父が、あれほど目を掛けていたのにと……。
家康は家臣と共に岡崎城へ入りましたが、妻の瀬名と子ども2人は、駿府城下に残されたままでした。家康が頼んでも、妻子を渡さない氏真。裏切りものの家族なのだからと、すぐに処刑しないところに、氏真の複雑な気持ちがにじみ出ているようです。しびれを切らした家康は、氏真の従兄弟の城を攻めて子ども2人を捕虜とし、この2人と妻子の交換を求めてきます。仲介役となった家康側の家臣・石川数正の決死の訴えもあって、氏真は瀬名と子どもたちの交換に応じます。
大河ドラマでは、向こう岸で待つ家康の元へと、川を渡って行く瀬名と子どもたちが描かれました。その後ろ姿を、じっと見つめる氏真。家康に嫉妬と憎悪を募らせながらも、切ない心情を感じる名場面だったと思います。
掛川城で、家康と最後の対決
氏真が当主となった今川家は、家康だけでなく支配下にあるはずの東三河や遠江(とおとうみ 静岡県)でも、配下の領主の離反が相次ぎ、勢力を失っていきます。それでも義父である北条氏康の力を借りながら、氏真は何とか今川家を守り続けました。
永禄8(1565)年、上杉家との戦いが落ち着いた武田信玄が、氏真の妹が嫁いだ嫡男・義信を廃嫡(はいちゃく)という暴挙に出ます。このため信玄との関係は悪化。そして永禄11(1568)年、家康と信玄が今川の領国に攻め込んで来ます。信玄に本拠である今川館を奪われた氏真は、重臣の朝比奈康朝(あさひなやすとも)の掛川城へと、妻の早川殿と共に逃れます。この時、乗り物を用意することができず、早川殿は、徒歩で避難せざるをえませんでした。
掛川城を家康に包囲された氏真は、家臣たちの助命を条件に、城を明け渡すことに同意します。永禄12(1569)年に開城。氏真は31歳で戦国大名の地位を奪われ、早川殿と北条のもとへと移っていきました。戦国大名としての今川家の幕引きを、家康によって導かれたのも、運命だったのかもしれません。
穏やかに過ごした後半生
国を失った氏真でしたが、後の人生は穏やかだったと伝えられています。妻の実家である北条家を頼った後は、家康の庇護下に入りました。その後出家して相誾(そうぎん)と名乗り、早川殿と共に京都に移り住みます。歌や蹴鞠(けまり)を楽しみ、晩年には大御所となった家康とも交流を深めたそうです。慶長19(1614)年に77歳で死去。
政略結婚で結ばれた早川殿との関係は、最後まで円満でした。一度は闇キャラとなりながらも、愛妻の支えで、長く穏やかに暮らした氏真。辞世の句は、「なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身のとがにして」。もはや世も人も恨みはしない。時代に合わなかった私の罪なのだから。和歌に秀でていた氏真は、時代が違っていたら、また別の人生だったのかもしれません。
関連人物
・今川義元
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参考書籍
『徳川家康』仁木謙一著(ちくま新書)
『徳川家康のすべて』北島正元著(新人物往来社)
『なるほど徳川家康』河合敦監修(永岡書店)
アイキャッチ画像:15世紀後半〜16世紀初頭 防具・腹巻 メトロポリタン美術館より