Culture
2023.03.24

『どうする家康』闇落ちキャラ!?今川氏真が辿った人生とは

この記事を書いた人
この記事に合いの手する人

この記事に合いの手する人

2023年大河ドラマ『どうする家康』は、主人公の徳川家康をはじめ周囲の人物が、従来のイメージとは違っているのが印象的です。特に野村萬斎演じる今川義元は、公家かぶれの軟弱者ではなく、教養と品格を兼ね備えた優れた大名といった描き方。

この偉大な父を持つ今川氏真(いまがわうじざね)は、そのコンプレックスもあって、父に目を掛けられる家康に嫉妬心を持っています。敵対関係になると、ゾッとするような狂気の顔を見せる闇落ちキャラと化した氏真。演じているのは、大河ドラマ初出演の溝端淳平です。そんな、ちょっと気になる今川氏真の人生を追ってみたいと思います。

今までと違う描かれ方をしている登場人物たち、実像はどうだったんだろう?

名門・今川家の跡取りとして誕生

氏真は義元の嫡男として天文7(1538)年に生まれました。家康よりも5歳上になります。母は武田信虎の娘で、武田信玄の姉の定恵院(じょうけいいん)。エリート一族に誕生した、期待の跡取りとして育てられます。少年期から青年期にかけては、人質※として今川家に預けられた家康と共に、勉学や剣術に切磋琢磨したことでしょう。

※家康は6歳から2年間織田家で捕らわれの身となった後、8歳から19歳まで今川家の人質として駿府(すんぷ 今の静岡市)で過ごした。

北条家の姫と政略結婚

義元が一族を率いていた時代は、駿河(するが 静岡県中部)の今川氏、甲斐(山梨県)の武田氏、相模(神奈川県)の北条氏の3勢力が、緊張状態にありました。そのため、天文23(1554)年に北条氏康(ほうじょううじやす)の娘・早川殿と氏真は結婚します。氏真は16歳、早川殿は17歳でした。(諸説あり)

この結婚に先立って、氏康の嫡男・氏政は武田信玄の娘と、信玄の嫡男・義信は氏真の妹と結婚しています。3組とも3家の娘と嫡子との組み合わせで、同盟を結ぶことが目的の政略結婚だった訳です。こうして3国では甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれ、緊張状態は一時緩和されたのでした。

今川と北条、北条と武田、武田と今川。これで丸く収まるといいのですが……。

運命を分けた桶狭間の戦い

ところが穏やかな生活は、突然の悲劇によって打ち砕かれます。義元が西に勢力を伸ばそうと、尾張(愛知県)の織田家の侵攻を思いついたことが、きっかけでした。当時織田信長は、父である信秀の死によって家督を継いだばかり。信長は、まだ名も無き武将だったことから、義元はたやすく勝利をおさめられると考えたのです。こうして義元率いる2万5千もの大軍と、信長率いる4千ばかりの軍との戦いが始まります。

しかし、兵力で圧倒していたにも関わらず、信長の攻撃を受けると、義元はあえなく討ち死に。これが歴史的な合戦として知られている桶狭間の戦いです。氏真は心の準備もないまま、今川家を継ぎます。22歳の時でした。

▼桶狭間の戦いについて詳しく知りたい方は、こちらをお読み下さい。
奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか

裏切った家康への葛藤

義元が戦死し、重臣も多数失うなど、桶狭間の戦いで氏真は信長に大敗します。敗戦がきっかけで、大きく動揺する今川家。なかでも家臣として戦っていた家康が岡崎城に入り、今川家から離反したことは衝撃でした。あろうことか、父を死においやった信長と同盟を結ぶとは! 人質とはいえ、将来、武将として今川家を支えることを期待していただけに、この裏切りは、氏真にとって許せなかったのではないでしょうか。父が、あれほど目を掛けていたのにと……。

現代の感覚で考える「人質」とはだいぶ事情が違いそうですね。

家康は家臣と共に岡崎城へ入りましたが、妻の瀬名と子ども2人は、駿府城下に残されたままでした。家康が頼んでも、妻子を渡さない氏真。裏切りものの家族なのだからと、すぐに処刑しないところに、氏真の複雑な気持ちがにじみ出ているようです。しびれを切らした家康は、氏真の従兄弟の城を攻めて子ども2人を捕虜とし、この2人と妻子の交換を求めてきます。仲介役となった家康側の家臣・石川数正の決死の訴えもあって、氏真は瀬名と子どもたちの交換に応じます。

大河ドラマでは、向こう岸で待つ家康の元へと、川を渡って行く瀬名と子どもたちが描かれました。その後ろ姿を、じっと見つめる氏真。家康に嫉妬と憎悪を募らせながらも、切ない心情を感じる名場面だったと思います。

掛川城で、家康と最後の対決

氏真が当主となった今川家は、家康だけでなく支配下にあるはずの東三河や遠江(とおとうみ 静岡県)でも、配下の領主の離反が相次ぎ、勢力を失っていきます。それでも義父である北条氏康の力を借りながら、氏真は何とか今川家を守り続けました。

永禄8(1565)年、上杉家との戦いが落ち着いた武田信玄が、氏真の妹が嫁いだ嫡男・義信を廃嫡(はいちゃく)という暴挙に出ます。このため信玄との関係は悪化。そして永禄11(1568)年、家康と信玄が今川の領国に攻め込んで来ます。信玄に本拠である今川館を奪われた氏真は、重臣の朝比奈康朝(あさひなやすとも)の掛川城へと、妻の早川殿と共に逃れます。この時、乗り物を用意することができず、早川殿は、徒歩で避難せざるをえませんでした。

采配 ColBase

掛川城を家康に包囲された氏真は、家臣たちの助命を条件に、城を明け渡すことに同意します。永禄12(1569)年に開城。氏真は31歳で戦国大名の地位を奪われ、早川殿と北条のもとへと移っていきました。戦国大名としての今川家の幕引きを、家康によって導かれたのも、運命だったのかもしれません。

戦国時代は、きっとあちこちでこうした複雑な人間模様が繰り広げられていたのでしょう。

穏やかに過ごした後半生

国を失った氏真でしたが、後の人生は穏やかだったと伝えられています。妻の実家である北条家を頼った後は、家康の庇護下に入りました。その後出家して相誾(そうぎん)と名乗り、早川殿と共に京都に移り住みます。歌や蹴鞠(けまり)を楽しみ、晩年には大御所となった家康とも交流を深めたそうです。慶長19(1614)年に77歳で死去。

政略結婚で結ばれた早川殿との関係は、最後まで円満でした。一度は闇キャラとなりながらも、愛妻の支えで、長く穏やかに暮らした氏真。辞世の句は、「なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身のとがにして」。もはや世も人も恨みはしない。時代に合わなかった私の罪なのだから。和歌に秀でていた氏真は、時代が違っていたら、また別の人生だったのかもしれません。

関連人物

・今川義元
今川義元のまろメイクは憧れの象徴?強力な武器にもなった戦国大名の貴族趣味
・武田信玄
武田信玄は何をした人?徳川家康との関係から戦い、死因まで3分で解説
・徳川家康
徳川家康は何をした人?人質時代から死因まで波乱の生涯を3分で解説

参考書籍

『徳川家康』仁木謙一著(ちくま新書)
『徳川家康のすべて』北島正元著(新人物往来社)
『なるほど徳川家康』河合敦監修(永岡書店)

アイキャッチ画像:15世紀後半〜16世紀初頭 防具・腹巻 メトロポリタン美術館より

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。