まずは実在の椀久さんをCheck!
『二人椀久』の椀久は、江戸時代大坂に実在した豪商がモデルとなっています。実在の椀久は「椀屋久右衛門」といいました。椀久は陶器を扱う裕福な商家に生まれ、青年になっても遊里に足を運ぶことのない、純朴な性格だったのだとか。友人たちはそんな椀久を揚屋(あげや・上級遊女を招いて遊興させる店)へ連れていき、からかう計画を立てました。これを知った母親は、新町で全盛を誇る遊君松山に、息子が恥をかかないよう託す手紙を書きます。母の思いに応え、松山は椀久をもてなします。これが縁となり椀久は松山と深く馴染みますが、椀久の豪遊放蕩は次第に行き過ぎたものに。一説によれば、夏の中元の頃に、お正月さながら遊郭に門松を立てさせ、椀久本人は節分の年男の装いで豆まきのように座敷に小粒金をまいたとか。
親類縁者は「椀久は気がふれてしまった」と考え、屋敷の一室に隔離します。松山と引き離された椀久は心を病み、ついに屋敷を脱走。その後は京都五條坂の別宅で療養したとも、狂乱の末に川に落ちて落命したとも伝えられています。
お騒がせセレブのゴシップニュースは当時話題となり、様々に脚色され、井原西鶴の小説をはじめ、椀久物(わんきゅうもの)と呼ばれる数々の歌舞伎や浄瑠璃などを生みました。しかし今日私たちが舞台で目にする長唄舞踊『二人椀久』には、その通俗的なゴシップとはかけ離れた趣があります。
夢とうつつ、幻想的な魅力の長唄舞踊
富十郎の椀久、雀右衛門の松山の『二人椀久』について、鷹之資さんは「何とも言えない幻想的な雰囲気があり、あのふたりにしか出せない空気があります。音楽も本当に素晴らしい作品」だと話します。
「椀屋久兵衛は恋しい松山太夫に会えない。それでも会いたくて着の身着のまま飛び出してきたところから、この作品は始まります。花道の途中で自分の姿に気がついて、パッと恥ずかしがる素振りもみせます。それほどに会いたい一心で駆け出してきた。たどり着いた海辺に1本の松があり、それが松山の姿に見えてきます。すでに半分は正気を失っているのでしょうね。椀久は、夢と現(うつつ)の狭間にいます」
長唄の歌詞で「物狂い」と表現される状態です。踊る上でも、むずかしいところの一つなのだそう。
「ここまでが現実でここからが幻、といった決まりはありません。明確に分けられるものでもありません。稽古でも、ふと我に返り正気が残っているところもあれば、完全に松山の幻に心がいってしまっているところもあります。流派や踊られる方によって、幻と現実の程度やバランスは変わってくると思います。松山との思い出に浸り、幻の松山と本当に楽しくバーっと華やかに踊るところもあり、最後は現実に戻り悲しみに暮れます」
振付は初代尾上菊之丞、初代吾妻徳穂とともに
『二人椀久』の初演は、1734(享保19)年。江戸市村座で劇中劇として上演されました。その後も新たな演出で上演されますが、『二人椀久』はいつしか上演が途絶えていました。1950年代半ばに復活上演されたきっかけは、初代吾妻徳穂(あずまとくほ)を中心とした、日本舞踊の欧米ツアー公演でした。
「父の椀久は、尾上流の振りです。尾上流の『二人椀久』は、初代菊之丞先生が振付をされました。初世菊之丞先生の椀久と、僕の祖母・初世吾妻徳穂の松山で踊られたのが今の形のはじまりです」
一行はブロードウェイのプロデューサーにより「The Azuma Kabuki Dancers and Musicians」と紹介されました。通称、アヅマカブキです。
「海外のお客さんに向け、古典舞踊をスピーディーな演出にするなど工夫して、少しモダンな雰囲気もある作品になりました。翌年のアヅマカブキは、菊之丞先生のご参加がむずかしく、代わりに椀久をつとめたのが僕の父である富十郎でした」
パリ公演ではジャン・コクトーが公演パンフレットに序文をよせ、レオナール・フジタや舞の神と呼ばれたダンサーのセルジュ・リファールらが観劇。ツアーは成功をおさめました。
「帰国後の基調講演では椀久を父が、そして松山を祖母に代わり雀右衛門のおじさまがつとめました。これが歌舞伎の本興行に繋がったそうです」
以降、富十郎と雀右衛門の『二人椀久』は人気を博し、昭和から平成にかけて360回以上、ともにこの作品に取り組むことになります。本興行の記録で確認できる限り、富十郎も雀右衛門も、1公演をのぞいて他の俳優とは『二人椀久』を踊りませんでした。
「父にとって特別な作品の1つだったと思います。少しでも勉強になればと思い、ふたりで『二人椀久』についてインタビューを受ける映像を見たところ、雀右衛門のおじさまが『私があれでフッとなると天王寺屋(富十郎)さんがスッと入ってくださって』とおっしゃると、父が『やっぱり私がどっか行っちゃうとね、京屋(雀右衛門)さんがフッとね。そのなんとも言われぬあれがいいんですよね』と続くんです。あれとかこれとか……ふたりだけが分かる言葉で話されるので、ほとんど参考になりませんでした(笑)。それでもふたりの中では、たしかに成立しているんですよね。舞台映像を見返すと、その時々で少しずつ違うんです。工夫して試しているところもあれば、間違えてしまったところもあると思います。それでもどんな時も、ふたりの醸し出すもので椀久と松山の空気が成り立っていると感じます」
1997年12月に歌舞伎のフランス公演があり、パリで『二人椀久』が披露されました。当時フランス人にとって、“70歳を過ぎたふたりによる、若い男女の恋のダンス”は、やや想像しがたいものだったようです。公演を3か月後に控えた現地の新聞『ル・モンド』では、歌舞伎俳優が生涯現役で舞台に立ち、年齢を越えて役を演じるものであると、あえて説明がありました。そして公演後の同紙には「歌舞伎の永遠の神さまたち」との見出しで絶賛の劇評が載りました。
「本当にね、僕も生で見たかったです」と悔しがる鷹之資さんの言葉に、尊敬と憧れの思いが滲みます。
今では歌舞伎でも日本舞踊でも、演者や流派それぞれの工夫による『二人椀久』を見ることができます。
「色々な『二人椀久』があり、踊る方にもご覧になる方にも、それぞれお好きな『二人椀久』がおありかと思います。それでも歌舞伎や踊りが好きな方でしたら、『二人椀久』と聞けば、まずは父の椀久と京屋さんの松山を思い浮かべてくださるはずだと思っています。金字塔といえる、今でも語り継がれる『二人椀久』です」
父を偲び、次に繋がる椀久を
鷹之資さんは10月の公演に向けて稽古中です。松山をつとめるのは妹の渡邊愛子さん、教えるのは三代目尾上菊之丞さんです。
「菊之丞先生は、まず基本を教えてくださった上で、父のやり方で採り入れたいものは好きに試してみるようとおっしゃってくださっていました。準備を進めていく中で、大道具さんや職人さんたちからは『旦那(富十郎)はうるさかったよ』と聞いています(笑)」
「父は衣裳にも鬘にも、強いこだわりがありました。それに付き合ってくださった方々は、付き合わされた分だけ強い思いをもって、僕にたくさんのことを教えてくださいます。杖にもこだわりがあり、背景の月は、色や形、位置や明るさなど、会場を移動するごとに微調整を欠かさなかったり。色々試したのでしょうね、頭巾は何十枚もあります。うるさい人だと言われながらも、皆さんがプライドをもって舞台を支えてくださり、時にはぶつかりながら作品を研磨して来たのだと思います。稽古を始めて気がつくのは、父のこだわりの理由です。ここにそんな効果があるのか。ならば、ここは譲れない。ここはこだわらなくて良さそうだ、など見えてくるんです」
十三回忌の富十郎さんを偲び、妹の愛子さんと踊ります。
「父が、雀右衛門のおじさまと作り上げたように、僕にとっての松山をつとめてくださるお相手があってこその作品です。父は最初の1回を母親の松山と踊りました。僕も今回は妹とやらせていただきますが、この先はすべて巡り合わせ。次に繋がる公演になればと思います。父と雀右衛門のおじさまの魅力があってこその作品ですから、あれを超えることはできないという意識です。自分なりの椀久を高めていくしかありません。僕も愛子もあの『二人椀久』に憧れてきました。菊之丞先生もとても熱心にお稽古をしてくださいます。今回、長唄、お笛、鳴物さん、そしてスタッフの方々の中には、あのパリ公演に参加された方々が入ってくださっています。皆様の思いとお力をいただき精一杯つとめることで、皆様にどこかで父と雀右衛門のおじさまのエッセンスを感じていただけたらうれしいです」
関連情報
中村鷹之資勉強会「第八回 翔之會」
日程:2023年10月6日(金)12:00開演/18:00開演
会場:浅草公会堂
関連サイト:天王寺屋友の会公式サイト(https://www.tennoujiya.com/)