「三方ヶ原の戦い」は、元亀3(1572)年12月、徳川家康が満40歳の頃に、領内に武田信玄が侵略してきた戦いです。家康の居城・浜松城の目前まで迫り、おびき出されて大敗を喫したこの戦には、多くの逸話も残っています。
家康がこの屈辱を忘れないように絵師にその姿を描かせた……といわれている「しかみ像」こと「徳川家康三方ヶ原戦役画像(とくがわいえやす みかたがはら せんえき がぞう)」はあまりにも有名です。
では、実際はどのような戦だったのか、背景を辿りながら探っていきましょう!
三方ヶ原ってどこ?
三方ヶ原の戦いがあった場所は、現在の静岡県浜松市中央区。ウナギの養殖で有名な浜名湖の近くにある台地で、現在も「三方原」という地名で残っています。

古戦場を示す石碑も建っていて、周辺には墓地や航空自衛隊の基地もあり、戦国時代も見晴らしの良い広大な土地だったことが窺えます。
三方ヶ原の戦い~背景
事の始まりは、三方ヶ原の戦い勃発の5年前、永禄11(1568)年に遡ります。甲斐国(かいのくに)の武田信玄が、今川(いまがわ)氏の領国である駿河国(するがのくに)へ侵攻しました。
武田と今川、そして相模国の北条(ほうじょう)とは、永禄3(1560)年の桶狭間(おけはざま)の戦い以前から「甲相駿三国同盟(こう そう すん さんごくどうめい)」が組まれていました。なぜ武田信玄は同盟を破ったのでしょうか。
今川氏は桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元(いまがわ よしもと)に代わり、息子の氏真(うじざね)が当主となっていました。父の代の家臣たちは相次いで離反していましたが、関東の北条(ほうじょう)氏と連携をとり上手く政治をしていたようです。
しかし、永禄8(1565)年に武田信玄は織田信長の養女(姪)を4男勝頼(かつより)の正室に迎えたため、同盟関係にヒビが入ります。
そして永禄10(1567)年に、信玄の嫡男・義信(よしのぶ)の側近らによる、信玄への謀反が計画され、氏真も武田氏のライバルである越後国(えちごのくに)の上杉謙信(うえすぎ けんしん)とコッソリ同盟を結ぼうとします。
しかしこの謀反計画は失敗し、義信は捕えられて幽閉先で病死してしまいました。義信には氏真の妹が嫁いでいましたが、氏真は信玄にその妹を自分の元に返すように言います。しかし信玄は同盟関係が崩れるのを懸念してそれに応じません。どうにか北条が間に入り、無事に妹を呼び戻すことができたようです。
しかし、氏真は義信が亡くなったので信玄が攻めてくるのでは……という不安が消せず、信玄のライバル・越後国の上杉謙信と密かに同盟を結ぼうと話を進めました。その同盟はほぼ合意に達しましたが……実は信玄にバレてました。そうして永禄11年に武田信玄は駿河国へと侵攻を開始します。

侵攻……というと武力で攻め込むというイメージですが、実際はもっと内部から侵略するスタイルだったようです。信玄は、今川から独立して三河国を平定した徳川家康と同盟を締結、大井川を境に西の遠江国は徳川が、東の駿河国は武田が領有することを取り決めます。氏真の家臣たちは次々と武田信玄へと内応し、信玄が駿河国へ攻め込んだ時はほとんど戦わずして、今川氏の本拠地である駿府へ入りました。
氏真は間一髪で難を逃れて遠江国へと逃げました。もう一人の同盟相手の北条氏は、相模国を守るため、あらゆる手段を使って武田信玄が駿河国を支配することを阻止します。こうして「甲相駿三国同盟」は決裂し、関東・東海地方の勢力関係が混沌としてきました。
遠江国の徳川家康
武田信玄は北条氏政の妨害を受けつつもそれを抑え、なんとか翌年に駿河国を手中に収めることに成功しました。
一方、遠江国の掛川城に逃れた今川氏真は、今度は徳川家康に攻め込まれてしまいました。氏真は負けを認め、北条氏の元に去りますが、最終的にはかつての家臣だった徳川家康の庇護を受け江戸時代まで天寿を全うすることとなります。
こうして遠江国を支配下に置いた徳川家康と、駿河国を手に入れた武田信玄。初めは同盟を結んでいたのですが、家康が北条と和睦したため、両者は緊張状態となりました。

一方、織田信長は京都の足利将軍を擁立し、敵対勢力と戦いながら畿内を押さえていました。しかしそれでもなお、強大な武田軍との衝突を避け、武田信玄とも徳川家康とも同盟を保ったままです。
その状況の中、元亀3(1572)年に武田と北条間の同盟も復活し、武田信玄は本格的に遠江・三河への侵攻を開始しました。
この時代の関係は一概に「敵」「味方」の関係がずっと続くわけではないので……とてもややこしいですね!
武田信玄、動く
武田信玄は元亀3年10月に、西に向かって進軍しました。そうすると当然徳川家康の領地である遠江国・三河国を通ることとなります。
武田信玄は部隊を三つに分け、美濃・三河・遠江を同時に攻めました。12月13日、別働隊の1つが、只来(ただらい)城を攻略します。そこは遠江の防衛拠点である二俣(ふたまた)城のすぐ近くの城です。しかも、武田信玄が自ら本隊を率いて、遠江国へ入ってきました。
まさに風の如き進軍速度に徳川家康は大いに慌て、二俣城防衛のために急いで出陣します。本多忠勝を偵察に向かわせましたが、武田信玄にバレてしまい、「一言坂(ひとことざか)」で交戦することとなってしまいました。(一言坂の戦い)

武田軍といえば武具を赤で統一している「赤備え(あかぞなえ)」の精鋭部隊で有名ですが、攻める時はまさしく火のように見えたことでしょう。家康は撤退を余儀なくされ、浜松城まで戻りました。徳川軍を追い払った武田信玄は12月19日に二俣城を落とし、再び西へと進軍します。それと同時に、家康の元には織田信長からの援軍がやって来ました。
武田信玄の罠
武田信玄がゆっくりゆっくりと浜松城へ近づいてくるので、徳川家康は籠城戦を覚悟していました。ところが12月22日、武田軍は突然進路を北西に変えます。
家康は罠だとは思っていましたが、領主として自分の領国が蹂躙されているのを横目に「あーよかった、通り過ぎてくれた……」なんてやり過ごすことはできません。家康は全軍で武田軍を追いかけました。
そして武田軍は徳川軍が浜松城から十分遠ざかったことを確認して、ふたたび方向転換して徳川軍と向き合い、戦が始まりました。その場所が三方ヶ原です。

戦いが始まったのは夕暮れ時、そこから日没までの2時間ほどの戦闘でした。結果は素人でも予想がつく通り武田信玄側の圧勝です。この赤備え軍団、恐怖サンタすぎる!!
家康は命からがら浜松城にたどり着きました。ここで門を閉ざして引きこもる……と思いきや、家康の家臣・大久保忠世(おおくぼ ただよ)は「大敗したからといって意気消沈しては、敵を勢いづかせるだけです。部隊をあつめてください。私が夜襲を仕掛けてきます」と進言しました。
家康はこれを採用して部隊を集めようとしましたが、なかなか集まりません。どうにか集まった100挺ほどの鉄砲隊で大久保は夜討ちを仕掛けました。
一方、仕掛けられた武田信玄はおおいに驚きました。どうせビビって閉じこもっていると思っていたので、「家康は良い家臣を持っている。油断してはならない」と判断し、野営場所を後にしました。
もし大久保が夜討ちを申し出なかったら……、それを家康が採用しなかったら、もしかしたら信玄はトドメとばかりに浜松城を攻めたかもしれません。最後の最後に選択肢を誤らなかった、家康の英断といえます。
三方ヶ原の戦い~その後
再び西へと向かった武田軍ですが、その後進軍速度が急激に落ち、年を越えた2月に三河国の野田(のだ)城を落とした後、信濃国へと戻ってしまいました。武田信玄が病に倒れたからです。そして4月12日に信濃国で武田信玄は亡くなりました。
圧倒的な軍事力を以てしても、病には勝てません。もし武田軍が織田信長の喉元にたどり着いていたら……きっと信長も家康もただではすまなかったでしょうし、歴史が大きく変わっていたでしょう。こうした偶然の重なりも、歴史の一部なのですね。
アイキャッチ画像:
『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』 出典:浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
参考文献:
小和田哲男監修『[図解]戦国名合戦 時々刻々』(メディアファクトリー新書)
大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版新書)
平山優『武田三代』(PHP新書)

