Culture

2026.05.31

呪い?いいえ治療です。かつて人の隣にいた、いとしき化かし狐たち

あるときは妖怪。またあるときは神の使い。あるいは、ただのいたずら好きかもしれない。化けたり騙したりと古くから人間を翻弄してきた、狐。ずる賢くて意地悪、そんなイメージがあるのは狐のまわりで引き起こされる怪異のせいかもしれない。
とはいえ狐だって人間と同じで三者三様。良いのも悪いのも、変わった狐だっている。今回紹介するのは人の世と交わりたいと切望する、いじらしい狐たちの物語。

狐に体を貸した少年

不明
出典:The Art Institute of Chicago (https://www.artic.edu/artworks/36297/the-dancing-fox)

『宮川舎漫筆(みやがわのやまんぴつ)』という江戸末期に書かれた随筆がある。作者は宮川政運(まさやす)。文学と山水をこよなく愛し、江戸近辺の名所旧蹟を訪ねてはその地の見聞を書き留めた。
彼が実際に見聞した奇談をたっぷりと収めたこの本に、人と狐の交流を描いたちょっと不思議な物語がある。

ある日、宮川の父の親戚・長谷川源次郎に仕えていた十四才くらいの小侍が訪ねて来た。小侍は「清めよ清めよ」と言いながら玄関から座敷へ参り、床の間へ上がり、源次郎に会いたいと申し出た。源次郎は話を聞こうと袴を着て脇差を差して出迎えた。

小侍は礼を述べてから言った。
「私は上方に長いこと暮らしている狐です。用あってこちらへ出てきたのですが疲れてしまって、休ませていただきたいのです。そこで、この子の体を数日のあいだ借りたいのですが」

源次郎が小豆飯や油揚げを振る舞うと、狐は大好物だと言って喜び、たらふく食べた。そして自分の身の上を語り出した。

「私には犬に噛み殺されて以来、体がありません。空狐(くうこ)ってやつです。人の体に入り、その人をおかしくさせてしまうのは野狐(やこ)の仕業で、私などは善い狐でございますから人を悩ませるようなことは致しません」

狐の話によると世の中には、野狐と善狐がいるらしい。野狐に憑かれた者は体が不自由になったり不幸な目にあったりするが、善い狐は人を悩ませることを嫌うのだという。

狐はさらにこう言った。
「この子はいつも鼻水を垂らしていますね。いまはこれで済んでいますが、十六才になれば悪い病になりますよ。体を借りたお礼に抜きとって差し上げましょう。私が退散したら、この子の鼻水は治るはずです」

狐が小侍のもとを去ってからというもの、鼻水がでることはなかったという。

人の体を借りている時点ですでに怪しいが、自ら善狐と名乗るだけあって、この狐はきちんと身分を明かしただけでなく、体を借りている小侍の身の上まで心配している。ふるまいといい、発言といい、なんだか妙に人間らしいところがあるのも不思議。

ところで狐にかかれば病は、治すものではなく、抜きとるものらしい。

ありがたい狐はおもしろい狐でもあった

この話には、まだ続きがある。

狐が来ていると知ったのか、源次郎のもとへは親類をはじめ、近隣の人たちが昼夜問わずにやってきた。それを嫌がるどころかこの狐、なかなかサービス精神のある話し好きらしく、集まった人たちに昔語りをしてみせた。
人びとはさまざまな古い話を聞いたが、狐はなにを聞いても知らないということがなかった。源平の戦、屋島・壇ノ浦合戦の異説、関ヶ原の陣の話は、とくに面白かった。

狐は五日の間逗留した。そして六日目の朝に源次郎に厚く礼を述べ、床の間へ上がり、しばらく打ち伏し、終に狐は立ち去った。そして小侍は夢が覚めたみたいに、もとの小侍に戻った。

狐はこの度のお礼にと「天地(あめつち)を合わせて神の恵み哉 天日拝」と紙にしたためていった。天日とは、その狐の名前だという。

ありがたい狐はおもしろい狐でもあったけれど、神であったかどうかは分からない。なにせ、自分を神とも稲荷とも名乗らなかった。あくまで、自分は「狐」だと言っているだけだ。
そんな「ただの狐」が小豆飯や油揚げをお腹いっぱい食べて、集まった人たちに古い話を聞かせて、そのうえ体を借りた相手の持病を抜きとっていった。そんじょそこらの狐とはやはり、どこかちがう気がする。

狐の隣人、狐の修行僧

一筆斎文調「山下京之助のうしろ面」
出典:The Metropolitan Museum of Art(https://www.metmuseum.org/art/collection/search/57096)

小侍の体を借りて疲れを癒す狐がいるくらいだから人間が知らないだけで、きっといろんな狐がいるのだろう。たとえば天野信景の『塩尻』の老狐の話。

老狐の名は、梅庵。人の姿をしていた。三百余年も同じ土地に暮らしているから近隣の人たちとも仲が良かったが、ある日、忽然と姿を消してしまった。
あるとき、村の者が京にのぼった際にばったり梅庵と出くわした。
村の者は梅庵に尋ねた。
「どうして突然、村を去ったんだい?」
梅庵は答えた。
「事情があって京へ移らなくてはならなかったのです。そのことを伝えて皆を悲しませるよりは、と黙って去ったのです。それに自分は年老いて死も近いですから。皆さんに再会できないのが残念です」

老狐の想いを聞いた村人たちはこぞって泣いたという。

こんなことをさらりと口にする狐に、私は驚いてしまう。この会話以外にも、人の姿をした老狐の梅庵は涙をこぼし、別れ際には手を握りさえするのだが、言葉もふるまいもまるで人間そのものだ。

人間らしい狐の話はほかにもある。こちらは、いじらしい狐の話。

江戸小石川の学寮に沢蔵司(たくぞうず)という修行中の僧がいて、眠っているときにうっかり尾をだしてしまったせいで狐だと知られてしまった。
あるとき寺が火事になり、丸焼けになった。住職は大いに怒った。
「だいたい狐は火を防ぐ霊獣だというのに沢蔵司の奴め、なんの役にも立たないじゃないか!」
寺が取り壊しになる夜のこと。
住職の夢に申し訳なさそうにして沢蔵司が現れて、あの日の事情を語った。

「眷属(けんぞく)を遣うこともできず、ひとり走りまわったけれど火を消せなかったんです……」

その心根を哀れんだ住職は、最高位の神階を与えたという。ちなみにこの修行僧に化けていた狐は、蕎麦が大好物だったらしい。

なんとも人間らしい話である。

人の世と交わりたい狐たち

春川五七「鏡に映った九尾の狐」
出典:The Metropolitan Museum of Art(https://www.metmuseum.org/art/collection/search/55068)

動物である狐にも、人の姿となって世の交わりを結びたい心があったのだろうか。私が気づいていないだけで、スーパーマーケットですれちがうあの人も、近くの寺のあの人も、じつは狐だったりするのだろうか。
もし狐に人となって世と交わりたい心があったとして、でもこうした考えは今を生きる私たちには、すこし奇異に思える。そもそも、狐がものを言うということからして奇妙である。動物と心を交わすなんて荒唐無稽だ。
……ほんとうにそうだろうか?

化かし狐とか狸とか猫だとかが登場する昔話を読んでいると、彼らがあまりに「人間っぽい」ので、動物であることを忘れてしまいそうになる。
たしかに動物は人間とはちがう生きものだ。でも、こうした物語が書かれた時代には、人びとは自分たち(人間)が動物よりも賢いとか立派だとは思っていなかったのではないか、と私は思うのだ。

狐と人間が共に生きる物語のなかでは、狐は小豆飯でもてなされ、狐の周りには人間が集まり、狐の話に耳を傾ける大勢の人たちがいた。そこではどちらが上とか下とかいうのはなく、人と動物(狐)が交流し、心を交わす光景が当たり前に広がっている。それはおそらく、かつてあって、現代では(ほとんど)滅び去った、動物と人間が同居している世界だ。

おわりに

日本には昔から草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という言葉がある。
人間だけが特別ではなかった時代の物語を読むと、かつて人間も鳥や動物とおなじく生きとし生けるものの仲間だったのだと気づかされる。そして、私たちの生活と心に起きた変化の底深さを思い知らされる。
生きかたも命の長さもちがう存在と分かちがたく結びついていた時代の物語。それが化かし狐のお話なのである。

【参考文献】
宮川政運『宮川舎漫筆』「日本随筆大成」第1期 第16巻、吉川弘文館、1994年

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馬場紀衣

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。
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