Culture

2026.07.10

明智光秀を「本能寺の変」に駆り立てた?近年注目されている「四国政策転換説」の全貌

「本能寺の変」は日本史上最大のミステリーとして関心を集めてきた。明智光秀の背後に、陰謀めいた何かが存在したのではないか、そう想像する人たちが少なくなかったからである。裏で羽柴秀吉が光秀を扇動した、いや、足利幕府15代将軍の義昭が操っていた、はたまた織田信長と長く敵対していた大坂本願寺こそ黒幕だ――など、語り出すと切りがない歴史ファンは多い。そんな中、近年話題になっているのが「四国政策転換説」である。いったいどんな見解なのかを詳しく紹介したい。
文・小林明

一次史料には「黒幕」など記されていない

天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀は京の寺院に宿泊中の織田信長を急襲しました。本能寺の変です。

事件が起きた6月2日前後を記録した主な一次史料(事件勃発時に記録された日記・書状など)には、次のようなものがあります。

・言継卿記(ときつぐきょうき)
公卿の山科言継(やましな・ときつぐ)の日記。天正10年6月1〜2日の条に「(嫡男・信忠は)妙覚寺ヲ出テ、下御所ヘ取籠之処ニ、同(光秀軍勢)押寄、後刻討死」等、信長と同日に京の下御所で討ち死にした長男・信孝の様子や、3日の条には「洛中騒動不斜(京都市中の騒ぎは尋常ではない)」などを記している。

・兼見卿記(かねみきょうき)
京都・吉田神社神主の吉田兼見(よしだ・かねみ)は光秀と交流が深く、本能寺の変の後に朝廷の勅使として実際に光秀と会見し、その様子を記した。

・多聞院日記(たもんいんにっき)
興福寺の僧侶の記録。京と離れた大和(奈良)の地で聞いた伝聞形式の情報を伝え残す。

・蓮成院記録(れんじょういんきろく)
興福寺子院・蓮成院の僧侶が記録したもので、6月2日条に惟任日向守光秀が西国の毛利攻めに向かうためと称して兵を集め、信長に出陣の挨拶をするため本能寺に向かい、未明に信長を倒したとある。

この他にも、前日に信長を訪問した公卿・観修寺晴豊(かじゅうじ・はるとよ)の日記『晴豊公記』や、信長の宿敵だった大坂本願寺の門主・顕如(けんにょ)の右筆(ゆうひつ/公式文書を代筆する文官)だった宇野主水(うの・もんど)の『宇野主水日記』にも、当時の状況などが詳しく書き残されています。

しかし、これらは本能寺の変前後の情勢を記しているのみで、なぜ光秀が謀反に及んだかについてまでは言及していません。つまり「光秀を背後から操った黒幕がいた」という話は、後の時代に流布した戦記物などを元にした憶測に過ぎないと考えられます。

黒幕として名があがったのは羽柴秀吉・徳川家康をはじめ、室町幕府15代将軍の足利義昭、敵対していた大坂本願寺、さらに宣教師を派遣していたイエズス会などが、「信長が死んで得したのは誰だ?」という視点から陰の首謀者と目されましたが、現時点ではいずれも“創作”と見られています。

「姫若子」と呼ばれた土佐の武将

そんな中、現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれる四国・土佐(高知県)の戦国武将が登場し、SNSが「おおっ!!」とざわめきました。長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)です。大柄な体躯に女物の装束を身にまとった個性派として描かれました。

近年、この長宗我部元親こそが、明智光秀を本能寺の変に駆り立てる原因となった「四国政策転換説」(以下、四国説)のキーマンではないかと、いわれています。

(左)『太平記英勇伝七十二 長曽我部宮内少輔元』/(右)『太平記英勇伝二十七 明智日向守光秀』/2点とも東京都立中央図書館特別文庫室

「姫若子」とは「女性のような身なり」という意味ではなく、

背が高く色白柔和で器量骨柄(きりょうこつがら/外見から受ける顔立ちや風采)は良いが、
人に会ってもにっこりと笑うだけで挨拶もなく、日夜深窓(家の奥)にいて姫若子と呼ばれた。

――という、長宗我部氏の興亡を描いた『土佐物語』からきています。つまり、引っ込み思案の若者だったということでしょう。それが、永禄3(1560)年の初陣では槍を振って果敢に敵と戦い、その姿を見た家臣たちを驚かせたと伝わっています。

長宗我部との関係破綻は信長の“親心”にあり?

『元親記』(長宗我部元親の一代記)によると天正3(1575)年頃(推定)、織田信長は元親に対し「四国は切り取り次第」、すなわち武力によって制圧した分は自分の所領として良いという、朱印状を発したといいます。

それが天正9(1581)年になると、両家のあいだに亀裂が生じはじめるのです。

天正9年3月/三好康長(みよし・やすなが)が阿波(徳島県)に入る
三好康長は信長と敵対していた三好三人衆の一門でしたが、天正3(1575)年に降伏します。それ以降、そもそも三好氏が阿波に強い影響力を持つ一族だったことから、信長は康長を重用します。康長を重んじることは、イコール長宗我部元親への朱印状を反故にすることを意味していました。

同年2月/信長が康長に四国出陣の命を発し、康長が阿波に渡る

同年5月/信長、三男の信孝を総大将とした四国遠征軍を編成
織田軍も長宗我部への攻撃を準備しはじめ、信長は三男・信孝に讃岐(香川県)を、康長には阿波を与える計画を立てます。『宇野主水日記』によれば、康長が信孝を養子とすることも決まっていたといいます。

『続英雄百人一首』の織田信孝。伊勢(三重県)の豪族・神戸(かんべ)氏の養子となっていたため「神戸信孝」とも呼ばれる。

この流れを見た限り、信長は自分の子である信孝に四国の一部を治めさせたかった――と、理解して良いでしょう。

四国政策の方針転換によって光秀が立場を失くしたワケ

信長のこのような方針転換が、なぜ、明智光秀を本能寺の変に走らせる動機となったのでしょうか?

実は光秀の配下に長宗我部の縁者がおり、そうであるがゆえ、信長は織田と長宗我部のあいだの取次役を光秀に任せていたのです。それを突然、蔑(ないがし)ろにされ、光秀は織田家中での立場も、長宗我部からの信頼も一挙に失くし、その結果、将来に不安を感じ信長を討つ決意をしたのではないか――これが四国説の骨子(こっし)です。

さらに岡山の林原美術館に四国説を裏付ける文書が所蔵されていたことがわかり、がぜん注目を集めるようになりました。一連の文書は『石谷家文書』(いしがいけもんじょ)と呼ばれています。

石谷家は室町幕府の奉行衆の家で、元親は石谷の当主・光政(みつまさ)の娘を妻としていました。このことから長宗我部と石谷が結びついたのは幕府との関係強化を目的だったと考えられるわけですが、室町幕府を滅ぼしたのは、他ならぬ信長でした。織田と長宗我部の関係は、悪化してもおかしくなかったはずです。

しかし、むしろ関係は強化されます。石谷家に明智光秀の家臣・斎藤利三(さいとう・としみつ)の兄が養子として入っていたからです。この兄が石谷頼辰(いしがい・よりとき)で、頼辰の義理の妹が元親の妻――。だからこそ光秀は、信長と元親の取次役に適任だったのです。

信長はその適任者・光秀の顔に、平然と泥を塗る事態を招いたのです。

『太平記英勇伝五十四 齋藤内蔵助利三』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

『石谷家文書』が語る利三の懸念と元親の苦悩

『石谷家文書』には、斎藤利三と長宗我部元親に関連した複数の書状が残っています。

【天正10年1月11日付け 斎藤利三書状】
利三が実兄の石谷頼辰の義父、光政(書状では出家後の名前「空然」となっている)に出した書状。
内容は信長が約束を反故にしたことに対し、元親が軽挙(信長との戦の準備を進めることなどを指すと考えられる)に及ばぬよう抑えてほしいと依頼するものでした。
この時点では元親は信長の心変わりを承知せず、対立する姿勢を示していたことがうかがえます。

【同年10年5月21日付け、長宗我部元親書状】
元親が斎藤利三に宛てた書状で、1月とはうって変わって信長の変心に「従う」と書いています。その証しとしてすでに阿波の一部の城からは撤退しているが、土佐の門(入り口)にあたる2カ所の城だけは所有したい、そう信長に取り次いでほしいと、斎藤利三に伝えています。

1〜5月の間に信長に逆らっても勝てないと悟ったのか、戦いを回避しようと必死だったとわかります。

ところが運命の悪戯か、5月21日付け書状の直後の6月2日未明――光秀の襲撃を受けて信長は没し、元親は絶体絶命の危機を脱するのです。

書状を出した後に、元親と斎藤利三の間でどのようなやりとりがあったかは不明です。何しろ利三は中国から大返ししてきた秀吉と光秀が激突した山崎の戦い(6月13日)に敗れ、同18日に処刑されるのですから。

そもそも信長が利三→光秀を経由して書状に目を通したかも、わかりません。信長は元親の恭順の意を知らずに死んだ可能性すらあります。

元親が光秀の謀反を支援、もしくは結託して謀反を起こした形跡も、見当たりません。つまり、四国説は光秀の“動機”として一定の信ぴょう性を有している可能性を示唆してはいるものの、彼の胸中を十分に語っているとも、胸の内を通じて本能寺の変の謎が解決されたともいえず、そこが四国説の弱点でもあるのです。

本能寺の変は未解決のまま日本史最大のミステリーとして私たちを虜にし、今なお魅了し続けています。

アイキャッチ画像:『本能寺焼討之図』。障子から顔を覗かせているのが信長。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

参考資料:
平井上総『長宗我部元親・盛親』平井上総/ミネルヴァ書房
河内将芳『図説 豊臣秀長』/戎光祥出版
藤田達生『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』小学館
渡邊大門『歴史道Vol.36「本能寺の変」黒幕説の真偽に迫る!』朝日新聞出版

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小林明

東京の下町生まれ。ジャズやらヌードやらの雑誌編集に闇雲に関わったのち、フリーランスの編集者兼物書きへ。独立後は何だかよくわからないうちに、歴史および文化風俗史の駄文を書き散らし、気づけば60歳を超えて頚椎症に悩んでいる。憧れの人は蔦屋重三郎とボブ・ディラン。
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