槍の三左と呼ばれた父・森可成とは
森蘭丸は歴史上実在した織田家家臣で、当時の史料には『森乱』『乱法師』などと記されていました。「蘭丸」は後世の軍記物や伝承で用いられた呼称で、正しくは、『森乱成利(なりとし)』とされています。こちらの記事では、『豊臣兄弟!』の役名通りに「森乱」で表記したいと思います。
森乱の一族は、信長などを支えた有能な武士でしたが、一般には詳しく知られていません。森乱の父・森三左衛門可成(よしなり)は、初めは美濃の斎藤氏に仕えていたといわれています。その後弘治(こうじ)元年(1555)ごろから織田信長に従い、信長の尾張統一に、貢献をしました。
可成には、ある伝承が残っています。永禄3(1560)年に「桶狭間(おけはざま)の戦い」※1で、信長が徒歩で本陣に近づこうとしたのを可成が止めたというもの。可成の進言で、乗馬のまま奇襲をしかけたことから、この作戦は成功を収めたと伝わりますが、真偽はわかりません。けれども、可成は数々の戦功を残し、美濃金山城(かなやまじょう 岐阜県金山町)の城主に抜擢されていますので、優秀な武士だったのは間違いないでしょう。
元亀元年(1570)、信長の命で可成が築いた宇佐山城(うさやまじょう 滋賀県大津市南滋賀町)を守っていたところ、浅井・朝倉軍が京へ入ろうとして、猛攻を仕掛けます。森可成は激しく戦い、死守しましたが、あえなく討死となってしまいました。
小姓として信長を支えた森乱
父が戦死した後、三男の森乱は信長に仕えることになります。小姓として主君への取り次ぎ、文書の伝達など秘書的な役割をこなしました。若くして信長に重用されていた森乱は、小姓としては異例の五百石もの領地を与えられます。いかに信長からの信頼が厚かったのかが、窺えるエピソードです。気難しい信長に気に入られるだけの、気働きと才覚があったからのことでしょう。
明智光秀の謀反に気づいていた?
本能寺の変の前から、森乱は明智光秀の反逆心に気づいていたとされる伝承があります。
ある日のこと、光秀が命令を素直に受け入れないことに逆上した信長は、頭を殴りつけます。「左様なことをされましても反逆心はおきませんが」と光秀は言いましたが、この時森乱は嫌な予感を抱きます。後日信長に、「反逆心は持ちませんが」というのは、実は謀反の気持ちがあるからではないかと、提言します。けれども信長は、このアドバイスを活かすことはしませんでした。
これは実話なのか……?信憑性は低いとされていますが、こんなこともあっただろうという、期待感から生まれた物語なのかもしれません。
信長をかばって応戦するも、弟と共に死す
天正10(1562)年6月2日早朝、明智光秀が京都本能寺に滞在中の信長を襲撃。戦国時代で最も注目度が高い事件と言っても過言ではない、「本能寺の変」が勃発(ぼっぱつ)したのです。この時に、森乱が信長をかばって勇ましく戦ったという伝承が残っています。
森乱は光秀の軍を相手に弓矢や十文字槍を手にして戦いますが、あまりに大勢の敵が相手で、次第に追い詰められていきます。そして光秀の家臣・安田国継(やすだくにつぐ)によって、信長は負傷してしまいます。森乱はただちに槍で立ち向かいますが、敵のすさまじい反撃で反対に槍で突かれて絶命します。享年18。共に信長に仕えていた弟の坊丸と力丸も、討死しました。圧倒的な兵力差に観念した信長は、寺に火を放って自害。
この華々しい活躍と壮絶な最期は、後世の創作の可能性が高いとされています。有能な若者の死を、人々は物語のなかで昇華したのでしょうか。

森乱亡き後、活躍した兄も討死
森乱には、長可(ながよし)という兄がいました。長兄の可隆(よしたか)が戦死した後、わずか13歳で美濃国金山城を相続して城主になります。そして信長より一字拝領し、「森勝蔵長可」を名乗りました。「鬼武蔵」の異名を持つ猛将で、数々の戦功を成し遂げます。
そして信長の死後、天正12(1584)年に「小牧・長久手(こまきながくて)の戦い」※2で秀吉軍の一員として出陣し、長久手で徳川勢と戦います。善戦するも、鉄砲攻撃を受けて壮烈な最期を迎えてしまいます。夫人は池田恒興(つねおき)の娘ですが、この妻や家族へ宛てた遺言状が残っています。戦国武将が戦へ行く前に、遺言状を書き記すのは、あまり例がないようです。
「森家の金山城は、大切な土地にある城なので、秀吉様の人選で城主を決めてもらえ。弟の千丸は私の跡を継いで城主にはなるな。千丸は今まで通り、秀吉様のおそばに仕えよ」。金山城が最前線である以上、城主が戦場に出ることは避けられません。大きなリスクよりも、家の存続が重要との思いが受け取れます。また、このように考えたのには訳がありました。父と長兄はすでに亡く、蘭丸と坊丸と力丸も本能寺の変で亡くなりました。今、自分が亡くなれば、後は弟の千丸だけになってしまう。これ以上、母を悲しませないためにも、なんとかこの弟だけは生き延びて欲しいという痛切な願いだったのでしょう。
その後、結局千丸は森長重(のち忠政)として金山城主となりました。秀吉としては、命をかけて戦ってくれた部下の領地を奪うことは、さすがにできなかったようです。兄が心配した末っ子は、その後徳川の世になっても生き抜き、美作(みまさか)津山藩18万石の大名となって生涯を終えたそうです。
参考書籍:『残念な死に方事典』小和田哲男監修 株式会社ワニブックス、『続・戦国おもしろばなし 百話』青木繁男 株式会社ユニプラン、『世界大百科』平凡社、『日本大百科全集』小学館
アイキャッチ:『新形三十六怪撰 蘭丸蘇鉄之怪ヲ見ル図 (新形三十六怪撰) 』月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクション

