秀吉の大坂城築城は、ビッグプロジェクトだった!
大阪城といえば豊臣秀吉の印象が強いですが、実はその以前から城はありました。清洲会議の後、摂津を領した池田恒興(つねおき)が大阪城の城主でした。その前は、織田信長を苦しめた顕如(けんにょ)の石山本願寺の場所。恒興が本格的な築城工事を行った資料はなく、石山本願寺は硬固な戦いに備えた城のつくりをしていたため、そのまま利用していたとも考えられます。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を討った秀吉は、その論功行賞に名を借り、恒興を美濃に移し、以前から手に入れたかった大坂の地を手中にします。そして、天正11(1583)年9月1日に、壮大な大阪城を構築することを始めます。天下普請ということで、三十数か国から、最初のうちは2、3万人、そのうち5万人の人夫が動員されて、工事は進められました。膨大な人数を動員していましたが、短期間で完成したわけではなく、かなり長期にわたっています。通常は一期と二期で完成するところが、第四期まで実に16年の歳月が費やされたそうです。
秀吉の目的とは?
大坂城築城は、天下普請で取り組んだところに特徴があります。手伝い普請とも呼ばれ、諸大名が手伝いに動員されて工事を進めたのです。つまり信長が生きていた時代は、同僚だった武将たちに、石垣の大改造など普請を手伝わせることで、秀吉と諸大名の関係を絶対的な主従関係に持っていくことを成功させたわけです。そこに秀吉が巨大な城を築いたねらいのひとつがあります。

もうひとつのねらいは、大坂城を大きく、豪華に築くことによって、信長時代の同僚や敵対していた武将たちに、秀吉の力を見せつけることでした。築城が戦争の防止になると考えていたのでしょう。
秀吉亡き後の大坂城
栄華を極めた大坂城も、大阪夏の陣で徳川家康に攻められ、豊臣秀頼と淀殿が自害して豊臣家は滅亡。秀吉の夢がつまった城は灰燼(かいじん)に帰しました。江戸幕府は豊臣時代の石垣や建物の跡を大量の盛り土で埋め尽くし、その上に徳川の大坂城を再建しました。
徳川時代の天守も落雷で焼失して以来は長らく再建されませんでしたが、昭和時代に入り、市民の寄付によって復興天守を再建。当時、豊臣時代の大天守の資料が乏しく、「大阪夏の陣図屏風」を拠り所に、各地の古建築物の資料を集めるなど苦労があったそうです。先の大戦の戦禍や台風の被害などもありましたが、戦後から今日まで修復事業が継続されています。平成の大改修では、最新工法と技術を駆使して黄金の輝く復興天守がよみがえりました。都心の広大な史跡公園として、梅や桜の時期には多くの人が訪れる人気スポットとなっています。
参考書籍:『秀吉の天下統一戦争』小和田哲男著 吉川弘文館、『豊臣大坂城』笠谷和比古・黒田慶一著 新潮社、『世界大百科』平凡社、『日本大百科全集』小学館
アイキャッチ:写真提供(公財)大阪観光局

