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Culture
2020.04.20

ドSか!猿を調教してニヤリ!伊達政宗のドヤ顔に秀吉が笑った理由

この記事を書いた人

「ドヤ顔」ほど、出オチなものはない。
だから、あまり人に好印象を持たれないのだろう。だって、言葉よりも先に、顔が「どうだ?ほら?」と訴えていたら、ウザイったらない。ないない。

しかし、そんなこと百も承知だけれど、人は「ドヤ顔」を止められない。表情筋をコントロールしようにも、内から溢れんばかりの「どうだー?すごいだろー?ほらほら」という承認欲求オーラがにじみ出るのだから。

特に、私。
先から、ないないと言ってるこの私。恥ずかしながら、無意識「ドヤ顔」の名人なのです。ちょっと、待って。ここは「無意識」だというところを強調に強調を重ねたい(既にこの時点でウザさが…)。

毎日玄関先で「お帰り」と出迎えるのだが、この時点でどうやら「ドヤ顔」らしいのだ。あっ、間違えた。「無意識ドヤ顔」らしいのだ。私が話す前に、「なんか、いいことあった?」と聞かれ、さあ、話すぞっと息を吸ったところで「ドヤ顔、ヤバくない?」と笑われる。そして、残念なことに、驚異的な的中率で私の自慢話を当てられる。

なんだか、切なくなってきたので、話を進めよう。
日本史を学んでいて、様々な事実や逸話を聞くと、きっと史上最強の「ドヤ顔」をしたのだろうという場面に出くわす。

そこで、今回は歴史上のとっておき「ドヤ顔」名場面をご紹介しよう。シリアスな場面で「ドヤ顔」をやりすぎたお方から、愛すべき「ドヤ顔」まで。それでは、早速、ご紹介し…。あああああああ、この時点で、私の顔が「ドヤ顔」。ホント、ユーチューバーじゃなくてよかった。

やりすぎた?マジドン引きの黒田孝高の一言

まずは、あの豊臣秀吉をフリーズさせた人物から。

天才軍師とうたわれた男。「軍師官兵衛」として、NHK大河ドラマでも大人気だったのは記憶に新しいだろう。剃髪後は「如水(じょすい)」と名乗り、キリスト教信者の一面をも併せ持つ、黒田孝高(くろだよしたか)である。

黒田孝高が一時期、城主となっていた姫路城

主君であった小寺政職(こでらまさもと)に織田信長への臣従を勧め、最終的には本人自らが信長の家臣に。その才能を認めたのは信長だけではない。豊臣秀吉に至っては、天下取りの一因として黒田孝高の存在が挙げられることも。さらに、徳川家康の天下取りにも貢献。関ヶ原の戦いでは、嫡男・黒田長政の活躍もあり、戦後の報償では家康から52万石を与えられている。本人は、隠居先の九州で大忙しだったようだが。

それにしても、信長、秀吉、家康と三英傑が惚れた男。天才軍師の名を欲しいままになどといわれてはいるが、そこは少々疑問が残るところ。というのも、これまでの彼の苦難を考えれば、いささか本人に「人を見る目」がなさすぎるからだ。黒田孝高は至って義を重んじるタイプ。しかし、策士としての評判があまりにも高過ぎて、相手は孝高の真意が計れない。そのため、残念ながら、誰もが彼の心を疑ってしまうことに。

こうして彼への誤解は、時に悲劇さえ生む。例えば、荒木村重が信長に対して起こした謀反。自分なら説得できると、黒田孝高は有岡城へ乗り込むが、まさかの事態に。なんと、1年もの間、村重に幽閉されてしまうのだ。孝高の人を見る目が甘いのか、それとも、何もなくても相手から裏があると思われてしまうのか。

さらに、これには続きがある。説得に乗り込んだものの、一向に帰ってこない黒田孝高に対して、今度は信長が激怒。孝高も寝返ったと考え、人質であった嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を命じることに。半兵衛こと竹中重治の機転で命は救われるが、信長もこの時点で、やはり孝高を疑っている。才があるばかりに、周囲の人間は疑心暗鬼となってしまうのだ。

しかし、こればかりは周囲だけを責められない。
当の本人である黒田孝高に原因があることも。それが、今回ご紹介する「ドヤ顔」名場面の一つとなる「中国大返し」である。

中国大返しを成功させる豊臣秀吉の像

時は天正10(1582)年6月。日本史上、最大のミステリーとなる本能寺の変。織田信長が家臣の明智光秀の謀反にあい、京都の本能寺にて自刃。天下目前のあっけない最期であった。信長の他の家臣はというと、任された地域で織田軍として戦いを行っている最中の出来事で、どうすることもできず。越中(富山県)の魚津城ではまさしく、柴田勝家や佐々成政、前田利家らが上杉軍と対峙。一方、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)も、備中(岡山県)高松城を水攻めでなんとか落城させようと奮戦している途中であった。

長引いた水攻めも、備中高松城の城主・清水宗治の切腹と引き換えにようやく毛利側との講和条約が整い、祝賀ムードに。そんな矢先のこと。なんと、信長自刃の知らせが、秀吉陣営に届くのである。青天の霹靂とは、まさにこのような事態をいうのだろう。

このとき、秀吉は、信長の死を受け止めきれず。大層嘆き、深い悲しみにくれたという。猿やらネズミやらと扱いは雑であっても、秀吉からすれば、自分をここまで引き上げたのは、あの織田信長公、ただ一人。信長なしに、今の自分はありえなかったと自覚していたのだ。あまりの衝撃に、一説には言葉が出なかっただの、号泣しただのといわれている。とにかく、心の底から魂を揺さぶられたのだろう。

一方、黒田孝高はというと、真意は正直分からない。ただ、状況としては、苦心してようやくここまできた毛利側との講和が、宙ぶらりんとなる可能性があったといえる。というのも、織田信長自身が、これから備中へと向かうことになっていたからだ。毛利側もその情報を掴んでいたため、勝算がないと踏んで講和に同意をしたのだ。信長自刃の事実が伝われば、毛利側は徹底抗戦に方針を変えるかもしれない。

そこまでは、先を読めただろう。いや、黒田孝高なら、さらに5手先、10手先を見据えていたのかもしれない。ただ、残念ながら、孝高の本心までは分からない。まずは、指揮官である秀吉を落ち着かさなければならないと思ったのか。そのため、共感という手順を飛び越えて、敢えて励ましたのか。それとも、真意などなかったのかも。ただ単純に、秀吉が天下を取るチャンスだと喜びたかったのか。それは誰も分からない。

にしても、確実なことが一つ。
絶対に、黒田孝高は「ドヤ顔」をしたはずだ。

信長の死を知って茫然自失の秀吉にさっと近づき、ゆっくりと顔を近づけた。
「殿、ご武運が開けましたな。天下取りのまたとない絶好の機会ですぞ、うまくなさいませ」

ニヤリ。超笑顔。破顔一笑。

孝高よ。是非とも物申したい。
まあ、やりすぎたわな。人の死を使うって、それ、ホントにあかんこと。特に秀吉は、コンプレックスを抱え、臆病な一面も持ち合わせる人物。孝高からすれば、「殿にご注進申し上げただけやん。俺って、めっちゃいい家臣」と、さぞ自画自賛したことだろう。しかし、そんな思いも一切報われず。なんと非情な男なのかと。秀吉は、この一件で黒田孝高をマークすることに。確かに、今は忠実な家臣であっても、いつその非情さが自分に向かってくるか分からない。そんな恐怖が、秀吉を満たした瞬間であった。

さて、その後の歴史は知っての通り。豊臣秀吉は中国大返しを成功させ、明智光秀の弔い合戦に勝つ。結果的に天下人となった秀吉。しかし、黒田孝高に対しては、警戒を緩めることはなかった。事実、武功を上げる孝高に対して、秀吉の与える禄は少なかったという。

「ドヤ顔」は、使い方を間違えると悲惨なことになる。そんな教訓にもなる黒田孝高であった。

だから許してしまうんだな、スマートな伊達政宗の意趣返し

一方で、この「ドヤ顔」は仕方ないと思える方も。それがコチラ。伊達政宗である。

伊達政宗像

伊達政宗という人物は、非常に個性的。その一言に尽きる。今さらという思いもあるが、よくいえば少年の心を忘れない、悪くいえば精神年齢が低い。そんな感じだろうか。なにせ、いたずら好きで、人を驚かせたいというサプライズ精神に溢れたお方。まあ、端的にいえば根っからのパフォーマーなのだ。

そういう意味では秀吉も同系列だろう。そんな親子ほどの年の差の二人が、互いに化かし合いをする逸話が『名称言行録』に残っている。それが、今回ご紹介する「ドヤ顔」の名場面の一つである。

じつは、豊臣秀吉は非常に獰猛な性質の大きな猿を飼っていた。これは大名の中では有名な話。というのも、秀吉はその猿を城に置いていたからだ。それも大名が登城する際に、猿をわざわざけしかけたのだとか。大名が通るたびに、猿は歯をむき出して「ギャー」と大いに威嚇する。それに驚き慌てふためく大名の様子を、秀吉は大いに楽しんでいたという。なんとも悪趣味な暇つぶしである。

そんな噂を聞きつけたのが、いたずら好きの伊達政宗。
政宗は何を思ったのか、猿引(さるひき)にその猿を鑑賞用として借り受けたという。どうして、そんな可愛気のない猿を借りたのか。ただ単に観るだけなら、他のペットの方が癒されるだろう。しかし、これは、政宗なりの考えがあってのこと。サプライズ好きの政宗には、ある計画があったのだ。

こうして、無事に政宗のところにきた獰猛な猿。
政宗に対しても威嚇ばかりしている様子。そんな猿に対して、政宗は予想外の行動に出る。

何をしたのか?
打ちに打ったのである。

えっ?打つ?
もちろん「ムチで」。

そう、猿もびっくりである。かわいそうに。秀吉様に言いつけるぞ!と言いたかっただろうに…

あろうことか、あの太閤秀吉のペット様を、政宗は毎日ムチで打ちまくったのだ。動物愛護団体のデモが起こりそうな話なのだが。そんなことお構いなしに、ただひたすらムチで打ち、ひそかに秀吉の猿を調教したのである。

無事に猿を調教し終えた政宗は、意気揚々と秀吉の元へ返したのであった。返ってきた猿だが、すっかり調教されたことなど忘れたかのように、やはり通る大名に対して、相も変わらず威嚇する日々。これを見て、秀吉は大いに楽しんでいたという。

そんなある日、政宗が登城することに。秀吉は、猿に威嚇されて狼狽する政宗を見ることができると、ウキウキ。考えただけでも笑みがこぼれるとは、本当に悪趣味である。しばし待つこと数時間。そこへ、政宗登場である。

「さあ、猿よ、威嚇せい」とばかりに、期待を込めて秀吉はけしかけるが、なんと、猿は政宗の姿を見た途端、ぶるぶる震えて怯えたのである。

そこで、政宗。無言の「ドヤ顔」
ニヤリ。

コトの真相を知った秀吉。
「くせ者めが。また先回りしおってからに」と、大いに笑ったという。政宗のことを大した器だと感心もしたのだとか。なんとも、2回目の政宗の「ドヤ顔」が目に浮かびそうである。

それにしても、黒田孝高も伊達政宗も、同じ人物に「ドヤ顔」とは。一番、大変なのはそんな彼らの上に立つ豊臣秀吉だろう。「ドヤ顔」さえも受け止める器量。「人たらし」といわれる所以が、ここにある。

一方で、秀吉は恩を忘れず、意外に一途なところも。
だからこそ、信長の死に対して放った黒田孝高の一言が、どうしても忘れられなかったのかもしれない。

文禄5(慶長元年、1596)年に起きた京都・伏見の慶長大地震。慌てて秀吉のもとへと駆けつけたのは、あの黒田孝高。そんな孝高に対して、秀吉の放った言葉が全てを物語る。

「どうした?わしはまだ死んでおらぬが?」
振り向きざまにニヤリ。

同じ穴のムジナ。
やっぱり、秀吉も「ドヤ顔」をしたに違いない。

参考文献
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』小池徹郎編 学習研究社 2009年6月
『戦国武将の大誤解』 丸茂潤吉著 彩図社 2016年9月
『伊達政宗』 小林清治著 吉川弘文館 1959年7月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。