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2020.06.16

後鳥羽上皇の骨壺を持って旅するイケメン僧侶・西蓮。元寵童・伊王丸の都市伝説!

この記事を書いた人

愛する人といつまでも一緒にいたいと願うことは今も昔も変わりません。

例え相手が死んでしまっても、その骨と一緒に……と書くとゾッとする反面、なんだかとてもゴシックで耽美な世界を感じる人も少なくないでしょう。

愛する人の骨壺を首から下げて日本全国を巡り、寺を創建する美貌の僧侶。そんな都市伝説が鎌倉時代にありました。

彼の名前は「西蓮(さいれん)」、僧になる前の名を藤原能茂(ふじわらの よしもち)という、実在する人物です。

後鳥羽上皇の寵童、伊王丸

能茂は幼名を伊王丸といいます。後鳥羽上皇が我が子同然……それ以上に可愛がって面倒を見ていた少年です。

元服前から後鳥羽上皇の側に仕えていて、後鳥羽上皇から荘園をもらったり、蹴鞠会に参加している様子が、公家たちの日記からも見て取れます。

元服し、藤原能茂と名乗ると、北面武士として後鳥羽上皇の常にそばにいました。

治天の君だった後鳥羽上皇が、ここまでそばに置きたがるのですから、見た目も相当良かったのだろうという事が想像に難くありません。

鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、能茂の娘が出て来るのですが、「比べる者がいない絶世の美女」と評されています。女の子は父親に似るとよく言われますので、能茂はやはりかなりのイケメンだったのではと想像できますね!

「他に何もいらないから、能茂と一緒にいさせてくれ」

承久の乱が終結し、後鳥羽上皇は乱の首謀者として裁かれ、隠岐島へ流罪となりました。

その事を伝えると、後鳥羽上皇はしくしく泣きながら「能茂と会わせてくれ」「一緒にいさせてくれ」と繰り返すばかり。

その様子は「あの治天の君が……」と皆がショックを受けるほど。哀れに思った幕府は、能茂には出家を命じた上で、要求通りに会う事を許可しました。

後鳥羽上皇は、髪を剃り「西蓮」と名乗った能茂の姿を見て、「お前が出家したのなら、麻呂も出家しよう」と言って出家します。

そして隠岐島に着いた時、心細くなった後鳥羽上皇は泣きながら歌を詠みます。

「都より 吹きくる風も なきものを 沖うつ波ぞ 常に問いける」

都から吹いてくる風(便り)はないのに、沖(隠岐)に打ち寄せる波の音が常に聞こえているよ。

そこに能茂が返歌しました。

「すず鴨の 身とも我こそ 成らぬらめ 波の上にて 世を過ごすかな」

ならば私はこの身をスズガモに変えましょう。波の上に漂って、残りの生を過ごします。


上皇が能茂を特別に目を掛けていたのは当時の史料のはしばしから見て取れますが、能茂もまた上皇を心から慕っていたのだろうという事が、よくわかる歌ですね。

骨壺と共に戻って来た西蓮

西蓮(能茂)は何度か隠岐島と都を行き来し、後鳥羽上皇の様子を報告していました。

そして延応元(1239)年2月20日、後鳥羽上皇は隠岐島で崩御します。遺体は西蓮によって火葬され、遺骨の一部が京に戻ってきました。この時、骨壺を手にしていたのが西蓮です。

西蓮は後鳥羽上皇のお気に入りだった離宮、水無瀬離宮(現・水無瀬神宮)の隣に西連寺(現・天長寺)を建てて住み、後鳥羽上皇を供養したとされています。

そして一説によるとある日、西蓮は後鳥羽上皇の冥福を祈るため諸国行脚の旅に出ました。そのまま消息を絶ち、行方不明となっています。

記録としての西蓮の人生はここで終わりますが……伝説はここで終わりません。

後鳥羽上皇の遺骨を納めた骨壺を首から下げた西蓮がやってきて、創設したと伝わる寺が鎌倉時代後期~南北朝時代にかけて各地に現れたらしいのです!

突撃! 噂の真相!

しかし、現在はそのような縁起を掲げている寺はありません。そもそも後鳥羽上皇の遺骨は、きちんと京都の大原にある後鳥羽上皇の御陵に納められています。

なぜこのような噂が広がったのか……。根拠となりそうなのは南北朝時代に編纂された『後鳥羽院御霊託記』という不思議な文書です。

後鳥羽上皇が崩御した後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の怨霊を恐れ度々供養を行っていました。それは鎌倉幕府の後に新しく作られた室町幕府の将軍たちにも引き継がれます。

室町幕府は後鳥羽上皇の霊を篤く敬い、後鳥羽上皇を守護神として祀りました。
『後鳥羽院御霊託記』には、後鳥羽上皇の霊にまつわる数々出来事が記録されています。

その中に、西蓮が後鳥羽上皇からもらった言葉を自ら書き残したとされている記事があります。

恐怖! 骨の入った観音菩薩

隠岐島にいる間、都が恋しい余りに自分で作った十一面観音像に、自分の歯と小指を2本ずつ入れた。これを都に安置してくれ。深く重い願いがあるのだ。

仏像の中は空洞となっていて、その中に自分の髪や歯を入れて願掛けする事はよくありました。けれどいくらなんでも小指を切り落として入れるのは、鎌倉しぐさに慣れているとはいえ、私だって現代人なのでちょっと怖いです!

ちなみこの言葉は後鳥羽上皇の死の3年前のものですが、死の直前に押された手形には小指があります。

『後鳥羽天皇宸翰御手印置文』

原文ではニュアンス的に「自ら取った私の歯」ですが、小指に関しては「私が切った小指」なので……誰の……誰の小指を切って入れたのですか、上皇陛下!?(そもそもこの十一面観音像自体、実在しているのか怪しいので、史実じゃないと良いなって思いますね!)

そこまでして叶えたい願いとは何か。それはもしも後鳥羽上皇の子孫が「賢王」として天皇になる事があれば、この十一面観音を祀る寺を建てて欲しい、ということです。

西蓮が創設したという寺の噂が出始めたのは鎌倉時代後期頃から……というと、鎌倉幕府の国力が弱まり、不満を持つ人々も増えて来たころでしょう。

後鳥羽上皇の血統が再び天皇となったのは鎌倉時代中期頃です。もしかしたら後鳥羽上皇の子孫たる「賢王」の代が来たから、鎌倉幕府は危機に陥るぞ! という都市伝説の形を借りた警鐘なのかもしれないですね。

西蓮が建てた寺、実は……

公的な記録によると、西蓮は隠岐島から帰って来て水無瀬でいったん後鳥羽上皇を弔い、大原へ納骨した後、しばらく水無瀬に住んでいました。そして後鳥羽上皇の菩提を弔う旅に出て、行方知れずとなります。

後鳥羽上皇の怨霊と、その菩提を弔うために旅に出て消息を絶ってしまった美貌の僧……これだけでかなりの「エモ」を感じます。さらに骨壺を持って全国行脚……というのは、隠岐島から帰った時に実際に西蓮が後鳥羽上皇の骨壺を持っていたという事実からでしょう。

そして「西蓮が創建した」という噂がある寺については、やはり『後鳥羽院御霊託記』にあります。

暦応2(1339)年、水無瀬の巫女の口を借りて、後鳥羽上皇の霊が語りました。

「私は今地獄の責め苦に遭っている。だから永仁2(1294)年に、水無瀬の地に由良上人を開山とした大興禅寺を建てよ、と託宣したのに、その約束が果たされていないよ! はやく建ててって桐院公賢(とういん きんかた)さんに伝えて!」

この由良上人という人物は、紀州(和歌山県)の由良港に西蓮が立ち寄って、西方寺を後鳥羽上皇の菩提寺とした。そこに住み着いたのが由良上人である、と永仁2(1294)年の託宣の時に語られました。

ちなみに由良の西方寺は実在する寺で、現在の興国寺(和歌山県)です。

実は由良は後鳥羽上皇の后が管理する荘園で、西蓮がまだ能茂と名乗っていた頃、代理として赴任したことがあります。

そして僧になってからもこの地に訪れました。由良の記録によると、文応元(1260)年に西蓮が後鳥羽上皇の后の代わりに訪れて、西方寺に荘園の土地を寄進し、後鳥羽上皇の菩提寺となってくれとお願いしたようです。

鎌倉幕府が滅亡した直後の南北朝時代、興国寺に住み着いた僧侶に寺を建てさせろ……と、後鳥羽の霊が言う。
しかも後鳥羽の霊が名指しした桐院公賢は北朝の大臣ですが、当時南朝で即位したばかりの後村上天皇の祖父に当たる人物です。

その年には、後村上天皇から水無瀬神宮内に寺を建てようとする発願文も書かれました。けれどそれが果たされることはなかったようです。後鳥羽上皇、2回もお願いしに来たのに……。

紙本墨書 後村上天皇宸翰御願文

それから水無瀬神宮を管理していた水無瀬家は明治時代まで続く歴とした名門貴族です。

霊的なものは抜きにして考えると、ちょっと政治的な匂いを感じますね!

それはそれとして

噂の真相を深堀りすると「案外そんなもんだよね」という事は多々あります。

でも、「トイレの花子さん」や「口裂け女」のように、全国に広まった都市伝説って、怖い反面、不思議な魅力を感じますよね。

「愛し合った人の骨壺を持って帰って来たイケメン僧侶」という事実に「あはれさ=エモさ」を感じた人が数多くいたのでしょう。

愛する人から「いつか私を祀る寺を建ててくれ」と頼まれ、ある日全国行脚の旅に出て行方不明となる……なんかこう、心の中の中学2年生が刺激されますね!

「消息不明ってことは、いつどこに行ったのかって事も不明でしょ? だったら……うちの近所にも実は来ていたって事にならないかしら……」

伝承というものは、案外こんな感じに作られているのかもしれませんね。

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書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。