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この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)

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2021.08.12

大名と同格で天皇に謁見!名もなき象の数奇な物語がせつな悲しい!

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動物だって旅をする。お伊勢参りが流行した江戸時代には、犬までが伊勢神宮への旅路を歩いたと伝えられる。飼い主に連れられてではない。病気などで旅ができない飼い主に代わって、犬が単独で参拝に訪れていたというから、後年の忠犬ハチ公もびっくりだ。このような犬は「おかげ犬」と呼ばれ、伊勢から飼い主の元に無事帰還した犬をたたえる像や記念碑が全国各地に残っている。おかげ犬の姿は、歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれているぐらいだから、当時の人々にとっては格別珍しいものでもなかったかもしれない。

東海道と伊勢街道の分かれ道に、おかげ犬らしい犬がいる(歌川広重「東海道五十三次 四日市 日永村追分 参宮道」メトロポリタン美術館蔵)

だが、そんな江戸時代の旅人たちも、巨大な象が東海道をのしのしと歩いていくのを見たときは、さぞかし仰天したことだろう。

象は室町時代以降、何度か来日した記録が残っているが、1728(享保13)年にベトナムからやってきた象は日本中にブームを巻き起こした。なにしろこの象は、長崎から江戸まで約1400キロもの道のりを歩いて旅したのだ。行く先々は珍獣を一目見ようとする見物人であふれかえり、「象志」「馴象論」といった象の解説本がベストセラーに。さまざまな象グッズなどの便乗商法まで登場した。

象をかたどった宝飾品(宝仙寺蔵)

ベストセラーとなった「象志」(中野区立歴史民俗資料館蔵)
結構ミーハーなんだ(笑)!

■和樂web編集長セバスチャン高木はこの記事をどう捉えたのか?音声解説はこちら

元は八代将軍・徳川吉宗のひと言から!?日本に象がやってきた理由

享保年間に日本にやってきた象(「享保十四年渡来象之図」国立国会図書館蔵)

なぜはるばる江戸まで旅したかというと、この象が八代将軍・徳川吉宗への献上品だったからだ。吉宗が「象を一目見てみたい」と言っているのを聞きつけた中国の商人からプレゼントされたのだ。8歳(7歳とも)のオスと6歳(5歳とも)のメスの2頭が長崎に上陸。メスはその後3ヵ月ほどで死んでしまったが、残ったオスの象は長崎で冬を越してから、翌1729(享保14)年3月、長崎奉行配下の役人やベトナム人の象遣いに伴われて旅立ち、大坂、京、名古屋を経由して東海道を江戸へ向かった。途中、京では中御門天皇に謁見し、宮中参内に当たっては従四位という大名並みの官位まで授けられている。

今までと異なる環境で大変だったろうなぁ

宮中で催された象をお題とした歌会で、中御門天皇や貴族らがよんだ和歌(中野区立歴史民俗資料館蔵)

象が通る道筋の諸藩には、前もって幕府から、象が驚かないよう見物人を騒がせないこと、犬や猫はつないでおくことといった注意が出され、宿場では幕府の指示に従い、えさと頑丈な馬小屋が用意された。橋も象の体重に耐えるよう補強されるなど、東京五輪なみに万全の態勢が敷かれた。

それでも象の旅は多難だった。急な峠道では立ち往生。静岡県・三ヶ日の引佐峠には、象が音を上げたという「象鳴き坂」の地名が今も残っている。「天下の険」と呼ばれた箱根では、象はついにダウンし、数日間寝込んでしまった。

ど、どうなっちゃうの…?

やっと着いたと思ったら、まさかの厄介者扱い!

付き添いの役人の介抱でようやく回復した象が、予定より遅れて江戸にたどり着いたのが、5月25日。長崎を出てから74日間の旅だった。ところが、将軍吉宗は象を数回見ただけで、それっきり関心を失ってしまったらしい。江戸到着から1年もたたない1730(享保15)年3月には、幕府は象の引き取り手を募集している。吉宗に会うためはるばるベトナムから苦難の旅を続けてきた象を、厄介払いしようとしたのだ。無責任な飼い主に見捨てられた動物の不幸は今に始まったことではない。

幕府にも事情はあった。大量のえさを食べる象の飼育費用は年額200両にも上り、緊縮財政を進める中で大きな負担となっていた。また、万一この巨大怪獣が逃げ出しでもしたら、市中で暴れて大江戸大パニックとなることも懸念された。

しかし、このときは引き取り手が現れず、結局、象は10年あまりにわたって浜御殿(現在の浜離宮)で飼われることとなる。

象のふんで怪しい薬 大岡越前が発売許可

そんな中、象人気に便乗したニュービジネスが登場する。当時の流行病だった天然痘やはしかに効くと称する「象洞」なる薬が発売されたのだ。原料は象のふん。1732(享保17)年3月には町奉行と勘定奉行が連名で、「象洞」の販売許可について幕府上層部にお伺いを立てている。この町奉行というのが大岡越前守忠相。講談や時代劇で知られる名奉行が、インチキ薬の発売に手を貸していた。

イメージと違う。それとも当時の人は本気だったのか…?

幕府は同年、両国で開かれた「象洞」の販売イベントの客寄せに象を出動させており、この怪しげな薬を公認するだけでなく、積極的に販売を手助けしていたことがうかがわれる。「象洞」は江戸から京、大坂、駿府(静岡)などへ販路を広げていった。

「象洞」を売っていたのは、中野村(現・東京都中野区)の源助、その隣村である柏木村(現・東京都新宿区)の弥兵衛、そして押立村(現・東京都府中市)の平右衛門という、江戸近郊の3人の農民たち。このうち平右衛門は、のちに大岡越前に見込まれて、農民出身でありながら幕府の役人となり、武蔵野新田などの開発に携わって人々をききんから救うことになる郷土の偉人・川崎平右衛門定孝として知られる人物だ。中野村の源助も幕臣の家の出入り農民で、幕府とは太いパイプがあった。

コネクションって昔も今もビジネス要素の一部だったんだね

ついに江戸を追われ、中野村で見せ物に

象は成長するに従って気性が荒くなり、暴れて飼育担当者を殺してしまう事件まで起こしたため、幕府も手を焼いていた。そんな中で1740(元文5)年、柏木村の弥兵衛が、象を浜御殿の外に連れ出して見せ物にしたいと願い出たが、不許可に。すると今度は象を自分が引き取りたいと幕府に申し出た。こうした弥兵衛の独走にクレームを付けたのが、同じく「象洞」ビジネスをしていた中野村の源助。結局、象は弥兵衛と源助の両名に下げ渡されることになった。

飼育にかかるお金はどうするんだろう

象小屋は幕府の援助により、中野村にある源助の所有地に建設された。小屋の周りには象が逃げ出さないよう堀が巡らされた。こうして1741(寛保元)年4月、象は中野にやってきた。象小屋があったのは、現在の地下鉄中野坂上駅に近い中野区本町の朝日が丘公園付近。「象小屋(象廐)の跡」という説明板だけが痕跡をとどめている。

東京都中野区の朝日が丘公園前に立つ「象小屋(象廐)の跡」の説明板

下げ渡しに当たっては、幕府からえさ代として年額125両、そのほか水油、まきが3年間支給されることとなった。だがこれだけでは飼育費はまかなえない。源助と弥兵衛は中野村にやってきた象を見せ物にした。再び人々の前に姿を現した象は、たちまち人気者となり、江戸から多くの見物客が押し寄せた。集まった見物客相手に源助は三色まんじゅうを売っていたと伝えられる。

薬だけでなくまんじゅうまで!今でいう多角化経営?

中野村で見せ物となった象。なぜか悲しい目をしているようにも見える(「武蔵名勝図会」国立公文書館蔵)

脱走騒ぎと突然の死 骨までさらし物に

象は中野に来た翌年の1742(寛保2)年7月には脱走騒ぎを起こしている。脚を縛っていた綱を引きちぎり、象小屋を蹴破って外へ飛び出した。よほどストレスがたまっていたのだろうか。慌てた源助と弥兵衛はどうすることもできず、幕府へ急報。駆けつけた役人によって、脱走から3日目にようやく象を取り押さえることができた。

そんな脱走未遂事件から5ヵ月後の同年12月、象は突然病気になり、21歳の若さで死んでしまった。中野にやってきてからわずか1年半あまり。詳しい死因は分からないが、象の寿命が60~70年といわれることからすると、あまりに早すぎる死だった。源助がえさ代をけちったために衰弱したとの説もあるが、それを裏付ける史料は残っていない。

象の皮は幕府に召し上げられ、源助と弥兵衛には骨が残されたが、弥兵衛はその後病死したため、遺骨は源助のものになった。源助は今度は象の頭骨や牙を見せ物にし、「象洞」の販売も続けた。象は死んでからも商売の道具にされ続けたのだ。死後四半世紀を経た1768(明和5)年にも、象の頭骨と牙が「象洞」販促のため上野、信濃、越後、下総などで見せ物にされる計画があったことが記録に残っている。まだ象のふんの在庫があったことにも驚かされるが、この頃の「象洞」の販売はあまりうまくいっていなかったようで、源助は借金に窮していたと伝えられる。

死んでからも見せ物になった象の頭骨と牙。その後、宝仙寺に売却された(「武蔵名勝図会」国立公文書館蔵)

有名なのに名前のなかった象

象には名前がなかった。京で天皇に謁見する際には「広南従四位白象」の称号が与えられたといわれるが、その後、幕府の浜御殿で飼われていたときも、中野村で見せ物にされていたときも、名前を付けられた形跡がなく、単に「象」としか記録されていない。この象について解説してくれた中野区立歴史民俗資料館の担当学芸員も「考えてみると不思議ですね」と首をひねる。中野の源助も浜御殿で世話をした飼育員も、象に愛着が湧かなかったのだろうか。

象の頭骨と牙は、1779(安永8)年、生活に困った源助の息子・伊左衛門から地元の宝仙寺に17両で売却されている。宝仙寺ではこれらを寺宝としていたが、第2次世界大戦時の空襲で焼けてしまった。焼け跡から掘り起こされた燃え残りは、現在、誰の目にも触れることなく、宝仙寺にひっそりと安置されている。「死んでからも見せ物にされていたこともあり、炭みたいになったものを公開するのはしのびない」と寺の担当者。あまりにもふびんな象への、せめてもの供養なのだろう。

和樂web編集長セバスチャン高木による解説はこちら

安らかに眠って欲しいです

昭和の時代のかわいそうなぞうはこちら(´;ω;`)↓↓↓


かわいそうなぞう

書いた人

北九州市生まれで小学生の頃は工場萌え。中学3年から東京・多摩地区で育ち、向上心を持たず日々をのんべんだらりとすごす気風に染まる。通信社の文化部記者を経て、主に文化・芸能関連を取材。神戸のビフカツと卵焼きを挟んだ関西風卵サンドが好物。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『アートラジオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。