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2021.12.03

発端がしょうもない「後三年の役」をわかりやすく解説

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今回は「前九年の役(ぜんくねんのえき)」の第2ラウンド! 「後三年の役(ごさんねんの えき)」!!

ドラマで取り上げられる時代より前に、どんな歴史があったのか。それを知らないで見るのと知って見るのじゃ全然違うはず!

この戦は、奥州藤原氏(おうしゅう ふじわらし)だけでなく、河内源氏や坂東武者にとっても重要な戦だ!

鎌倉時代より前の武士たちのことって勉強した記憶がないな〜何があったんだろ

背景

前九年の役が終わり、源頼義(みなもとの よりよし)公も京へと戻って行った。東北地方は清原氏が治めることとなったのだが……まぁ、家の勢力が拡大するとイザコザも起こりやすくなるわけで……。

後三年の役(ごさんねんの えき)については、いくつかの和樂webの過去記事でも紹介しているが……。
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一応、文献に残っている発端は、マジで親戚同士の喧嘩って感じでさ。

え!4年もかかった戦いの発端が親戚同士のいざこざなの!?

マジでそれが原因なの!?

ある日清原氏の長、真衡(さねひら)の養子・成衡(なりひら)が結婚をした。そこに真衡の叔父の吉彦秀武(よしひこ ひでたけ)が祝いの品を持ってやってきた。だけど真衡は碁に夢中になって秀武に気づかない。無視されたと思った秀武は祝いの品をぶちまけて帰ってしまった。

真衡は叔父がいきなりやってきて祝いの品をぶちまけた事を、結婚へのあてつけだと思ったのだろうか。すぐに兵を集めて戦を始めようとした。秀武は秀武で、元々真衡と仲が悪かった清原家衡(いえひら)と清衡(きよひら)に通じて反撃体制を整えた。

弟に話しかけられたときイヤホンしてて気づかなくて喧嘩になったことあったな〜。日本の歴史上重要な戦いとされている「後三年の役」の原因がこんなしょうもないことだったなんて(小声)

清衡は、武貞の養子。実の父は将門公を討ち取った藤原秀郷の子孫。母は安倍氏の娘。

そこに陸奥守としてやってきたのが、頼義公の息子の源義家(みなもと よしいえ)公! 真衡は義家公を接待して味方につけて、家衡・清衡を撃退! ついに降伏した! しかし勝利の余韻もつかの間、真衡は病で急死してしまったのだ。

今度はそっちで仲間割れかい!

衝撃的な真衡のまさかの死後、義家公が間に入って家衡と清衡に土地を分配したんだ。しかしこの分配に不満をもった家衡が清衡の家に攻めて来た。清衡は妻子を殺されてしまうが、どうにか逃げ延びて義家公の元へ助けを求めた。

今度は兄弟喧嘩!?いや〜土地の分配は現代でも揉めますもんね。それにしても兄弟喧嘩で妻子が殺されてしまうなんて残酷……

だがこの時は冬だったので、清衡・義家公軍は負けてしまってなぁ、家衡たちは勢力を拡大しつつ金沢柵(かねざわさく)に陣を張った。

ちなみに「柵」というのは古代日本の城の呼び方だ。古代の大和朝廷が東北地方へ蝦夷討伐に遠征した際、拠点となる城を築いた。軍事拠点と住民の住居を兼ね備えていて、ぐるりと柵で囲まれている。金沢柵は前九年の役の時に頼義公たちが築いたものだ。

以降は過去記事にも書かれている通り、作戦を城攻めから兵糧攻めに切り替えて、義家公と清衡が勝利した。

冬の兵糧攻め。想像しただけでゾッとしますね。

源氏バンザイ!

後三年の役の最終勝者である清原清衡は、先祖の藤原姓を名乗るようになり、奥州藤原氏(おうしゅう ふじわらし)が始まる……というのは藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)殿の記事で紹介したな。
奥州藤原氏って一体何?田中泯演じる藤原秀衡は、黄金の都の王だった!【鎌倉殿の13人予習シリーズ】

義家公はこの戦の顛末を、朝廷に報告した。しかし「前九年の時は、安倍氏の懲罰という朝廷からの命令があったけど、この戦はただ単に親戚同士の喧嘩に義家が勝手に関与しただけでしょ」って言われてしまい、朝廷から恩賞は出なかった。

とは言っても、義家公は坂東武者も数多く動員してしまった。恩賞ゼロだと坂東武者からの不満が出てくるだろう。そこで義家公は坂東武者たちの恩賞をポケットマネーから出すことにした!! この出費で義家公はちょっと困窮しちゃったらしいが……。

自分の身を削ってまで恩賞を出してくれた義家公に感激し、恩義を感じた坂東武者は源氏の家人となったのだ。その代表格がオレんち、三浦一族だ!

か、かっこいい!そんな上司の姿をみたら「一生付いていきます!!!」ってなりますね。上司の鑑だぁ。

『続群書類従』を参考にしているが、坂東武者の家系図には諸説ありまくるので、三浦と鎌倉の関係は参考程度に

それからの坂東

それから50年ほど経った。坂東に颯爽と現れた義家公の子孫、頼朝様の父上である源義朝(みなもと よしとも)様である! というわけで、次回に続く!

アイキャッチ画像:『後三年軍記』東京国立博物館蔵 (「ColBase」をもとに作成)

NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 鎌倉殿の13人: 北条義時とその時代 (NHKシリーズ NHK大河ドラマ歴史ハンドブック)

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「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。