皇族ならば、和歌は当然詠めるもの。そう思っておられる方は多いのではないだろうか。もちろん詠む。でも、そのように教育を受けているかと言えば、(少なくとも我が家は)違う。父は、子どもがやりたいと言うものをやらせるという方針の方だったので、お稽古事や勉強など、強制的にやらされたことはない。水泳や乗馬、英語などは習っていたけれど、当時の私のお稽古事の選択肢に和歌はもちろんなかった。今思えば大変浅はかだと思うけれど、和歌を将来勉強しなければいけないという発想すらなかったように思う。しかしである。成年皇族になった年に、突然上がってきたのだ。歌会始の詠進を求める書類が。
ことばに天使が舞い降りる「エンジェル・モーメント」
「歌会始…」と書類を見つめながら固まったことを覚えている。在学中は学業優先であり、1年間の留学中でもあったので、ご遠慮させていただくことになった。大学を卒業し、半年後にオックスフォード大学の大学院に行くことになったが、このまま学業優先を言い訳にして詠進しないのはよくないのではないだろうかという罪悪感にかられ、2005年、23歳で初めて詠進歌を提出することにした。
和歌の基本のキも知らないし、どのような言葉を使って、どのように詠めばよいのかも全くわからない。あれこれ頭を悩ませ、御用掛の和歌の先生にアドバイスと添削をしていただいて、初めて詠んだ和歌だったけれど、私は直接存じ上げない人に「稚拙な詠みぶり」と言われていたことを聞いてしまった。それはそうだろう。初めて作ったのだから。
悲しい気持ちになったのと同時に、あることに気付いた。歌会始で披講される和歌は、1万人以上が応募した中の優れた10首が選ばれているけれど、どんなに稚拙でも、今一つでも、情緒が感じられなくても、私が皇族であれば、その歌は世に出てしまうのだということに。それならば、きちんと和歌の勉強をして、少しでもいいと思っていただける和歌を作らなければ、入選された皆さんと一緒に同じ床の上に立つのは失礼ではあるまいか。
そう思ってから、私は源氏物語や伊勢物語などの古典作品をなるべく原文で読み、どのような場面で、どのような思いを込めて和歌を詠むのかを私なりに勉強した。あくまでも自己流なので、未だにどう詠んだら正解なのかはわからない。何首か詠んで、自分の中でこれかな?と思いながらお見せしても、先生には手すさびのように書き足しておいた歌を選ばれたりするので、相変わらず和歌に関しては、本当にわからないことだらけである。
「地図帳にあの日見つけし茶畑の不思議な点は茶の実のかたち」——手すさびのつもりが採用された一首
それに、普段はこういったエッセイを書くことが多いので、数千字の中に自分の言いたいことを表現するのに慣れている。たった三十一文字に自分の思いを閉じ込めるのは本当に難しいのである。それでも、自分の思い描いた情景や感情がかちりとはまって、三十一文字に表現できたときは、とても気持ちがいい。
論文の構成に悩んでいるとき、突然パズルのピースがぱたぱたぱたっとはまっていくように、すべての辻褄が合う文章の流れを思いつくときがある。天使が舞い降りてきて、啓示を与えられたようなひらめきなので、私はそれを「エンジェル・モーメント」と呼んでいる。その瞬間は、きっと大量の脳内麻薬が出ているのだと思うが、とてつもなく気持ちがよく、文章もすいすいと進む。この快感をまた味わいたくて、なぜこんなにしんどいことをしているのだろうと思いながら、私は毎回論文を書いているのだと思う。そのエンジェル・モーメントを歌作の時にも味わえるようになったということは、私も少しは成長しているということなのだろうか。
和歌の導く時間旅行へ
和歌は、紙とペン(あるいは携帯一つ?)さえあれば、いつでもどこでも作ることのできる、とても気軽な日本文化だけれど、和歌が身近にあるという子どもは多くないだろう。心游舎で和歌のワークショップをしたときも、不安そうな顔をした子どもたちがほとんどだった。それでも、歌会始の選者も務めておられる歌人の永田和宏先生が、先生が若い頃に詠まれた歌や歌会始に入選した小学生の歌を紹介しながら、その時々に感じた自分の素直な思いを詠めばいいということをわかりやすく説明してくださると、子どもたちの顔が「それならできるかも?」という表情に変わってきた。
参加者の子どもが詠んだ歌の中で、印象に残っているものがある。「楽しかったクラスみんなで鬼ごっこだけど今では集まらないな」という歌。歌会に参加していた皆が、以前はみんなで遊んだ鬼ごっこが、コロナ禍でできなくなってしまったという歌だと思っていた。でも、本人に聞いてみると、コロナ禍の初期のころ、学校の遊具が使用禁止になったので、クラス全員で鬼ごっこをできたのが楽しかったのだけれど、最近は少し緩やかになったので、みんながそれぞれで遊ぶから、全員で集まって遊ぶことがなくなってしまったという意味だったのである。本人に聞かないと真意がわからない歌もある。でも、読んだ人がどのような解釈をしてもかまわない。それが歌の力というもの、と永田先生は仰っていた。
様々な時代の人たちの一瞬の思いが閉じ込められた和歌。その一瞬に、時を隔てて現代の私たちがつながることができるのだから、和歌はどこでもドアとタイムマシンを兼ね備えたすごい道具であると思う。万葉の時代から現代まで、たった三十一文字の時間旅行へ出かけたいもの。
「器からこぼれてしまつた言の葉を静かにつむぐ友の横顔」——大切な友人を思い、詠んだ一首