どこにいようと表現をしていたい
千之助さんは“歌舞伎のお家”の御曹司です。上方歌舞伎の名門、松嶋屋の家に生まれ4歳で初舞台。24歳にして20年の節目を迎えますが、1年前に大きな決断をしました。
「あの夜はとても緊張しました。何を食べたのかも思い出せません」
ふり返るのは2023年6月のことです。
歌舞伎座では、祖父で人間国宝の片岡仁左衛門さんが主演する『義経千本桜』「木の実・小金吾討死・すし屋」が上演。若武者の小金吾を勤めたのが千之助さんです。
「千穐楽の夜、舞台を終えた祖父とホテルオークラへ食事にいきました。初日からたくさんのダメ出しをもらっていたのですが、この時に『ようがんばったな。良かった』と褒めてもらえたんです。とてもうれしく、でも複雑な気持ちになりました。家に帰ったら、僕は祖父に『少しの間、歌舞伎の舞台をセーブしたい』と打ち明けようと決めていたからです」
歌舞伎俳優としては、1回でも多く舞台に立つことが大事ともいえる時期。なぜ今?と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「自分の中には“片岡家の歌舞伎役者の片岡千之助”という、歌舞伎だけに集中するチャンネルがあります。そこに切り替えている限り、僕は歌舞伎に完全に集中します。そのまま同世代の役者の皆と切磋琢磨していくのも生き方のひとつ。でも、それだけではない世界があることも知っている。ずっと前から、さまざまな世界への憧れがあったんです。ただ、どこにいようと表現をしていたいという思いは共通しています。現代劇、映像作品、踊り、思いを言語化して残して文にすることもそう。すべては表現で、もちろん歌舞伎も表現のひとつ。僕は歌舞伎役者である前にひとりの表現者として、自分の表現を納得のいくところまで見直したいと思いました。これまでは、なんとなく流れに逆らわずに生きてきました。進んだ先に自然と生きる場所がついてきた。身近な方々の話もよく聞いてきました。だから『皆の言うことは分かる。でも僕はこうしたい』というのはこれが初めて。祖父は内心思うところもあったかもしれませんが理解してくれています」
何者でもない自分を楽しんで
2023年は1年の半分を歌舞伎の舞台で過ごし、秋から大学に戻りました。時代劇や映画に出演し、7月はイギリスが舞台の現代劇にも初挑戦。流れに身を任せるままでは訪れなかったかもしれない経験です。
「先ほど『なんとなく流れに逆らわずに生きてきた』と言いましたが、何も考えずにというわけではありません。たとえば目をつぶっていても、瞼越しに光のある方向は分かります。あれと近い感覚で心の中で光を感じます。光があるから居心地がいいのか、居心地がいいから光を感じるのか。居心地の良い光を追い求めて生きてきたのかもしれません。いま僕は世界に向けて心の中の目を開いているところです」
「見識を広げるためとはいえ、歌舞伎の舞台を休むのはやはり勇気のいることなんです。代償があるのは覚悟の上ですし今も不安はありますが、けじめをつけたら自分を認める強さができました。迷いながらも得た自由の中で、いかに自分が何者でもないかを感じ、自分自身の非力さを楽しんでいます」
何を見て聞いて、何に出会い心を動かされどのようなインプットが千之助さんを作っていくのか。新連載『Que sais-je 「自分が何も知らない」ということを知る旅へ!』第1回の掲載は7月中旬の予定です。
写真=前田晃
文・構成=塚田史香