Culture

2025.07.03

異常気象は江戸時代にも。空から降ってきた恐ろしいものとは

「晴れの日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ」そう言ったのは作家の吉川英治。晴れの日には晴れの日の良さがあり、雨の日には雨の日の良さがある。土砂降りの雨、しんしんと降る雪、雨上がりの虹……刻々と変わる空模様の下には、いつの時代も人びとの営みがあった。そう、砂や馬の毛や死体が降ってきた日にも、地上では人びとが暮らしていたのである。

空から不思議なものが降ってくる現象、ファフロツキーズ。日本語で「怪雨」とも呼ばれるこの現象は、江戸時代の記録にも登場する。そこにあるはずのないものが降ってくる。怪異じみた空からの落とし物を紹介しよう。

空から異物が降る「怪雨」とは?

『和漢三才図会』に記された「あやしきあめ」の記録。『和漢三才図会』(国立国会図書館デジタルコレクション)

空から異物が降る話は古くから世界各地に伝わる。江戸期の百科事典『和漢三才図会』には、「怪雨」の項目がある。この本によれば草、魚、獣毛などが降った記録が中国にあるらしい。日本でも元禄15(1702)年の9月に綿が降った記録がある。

それは晴天の午前中のこと。日の光の中に赤味を帯びたものが見えたかと思えば、家々の垣根や壁にかかったそれは、蜘蛛の糸にも綿にも似ていたそうだ。試しに燃やしてみたが臭いはなく、引っ張ってみると思いのほか強靭だった。

空から不思議なものが降る現象ファフロツキーズ(怪雨)は現代でも観測されている。2001年にはインドで赤い雨が、2009年には石川県でオタマジャクシが大量に降り注いでいる。どちらも恵の雨と呼ぶには気味が悪いが、江戸時代の怪雨も負けていない、というより、この時代の落とし物は現代とは趣がまるでちがう。内容が、怪異じみているのだ。

江戸の町に降り注ぐ砂の雨

歌川広重「東都名所 猿若町芝居の図」(The Metropolitan Museum of Art)

明和6(1769)年5月2日は、朝から空がどんより曇っていた。
空を見上げていると8時頃から小雨が、いや小雨が降るときのようにさらさらと細かい砂が音をたてて落ちてきた。雲はない。それなのに、空はどことなく薄く灰色をしていた。
降りしきる砂は手にも屋根にも、ちょうど灰を撒いたように積もっていった。雨傘をさして表へ出れば、その上にもたくさん積もった。原因は分かっていない。(『折々草』より)

江戸の不思議な一年間

歌川 豊国「名勝八景 大山夜雨」(The Metropolitan Museum of Art)

明和7年。この年は、不思議なことが立て続けに起こっている。
4月頃には星が月を貫いたという話があり、6月には夕暮れに東から南の空へ白い気雲がたなびき、人びとは釈迦如来の後光だと大騒ぎをした。そして7月、火の玉が空を飛んでいった。これら一連の現象の関連性は分かっていないが摩訶不思議な一年であったことはたしかだ。

空飛ぶ火の玉の群

明和7年(1770)年、7月18日の夜、9時の出来事である。
京都の街の空を西のほうから丸い火の玉が飛び出してきて、北東をさして行った。その夜は月が冴えわたっていたのに、火の玉は煌々と明るく空を照らしていた。
この火の玉を目撃した人たちの証言は様々だ。ある人は北野の方から光が出て室町の一条あたりに落ちたといい、ある人は堀川の二条あたりから飛び上がって寺町の東に落ちたといい、鴨川で目撃したという人は比叡山を飛び越したと証言した。どれが本当かはわからない。

正面から見た火の玉は菅笠(スゲの葉を編んで作られた笠。雨や雪のときに頭にかぶる)くらいの大きさで丸く、横から見ると炎がゆらゆら燃えていて、太い薪のはしに火がついているようだったという。
人びとが怪しんでいるうちに遠くへ飛んで行ってしまい北山の麓に落ちたそうだが、しばらくすると激しい轟きが聞こえたという。翌日見ると、山の中腹に立っていた石が打ち砕かれたようになって、下のほうへすべり落ちていたとか。(『折々草』より)

怪しい赤い気に包まれた日

同じ年の10日後、28日の8時頃に江戸の北の方でちょうど火事でもあるときみたいに、真っ赤な気雲がたなびき、夜の空を赤く彩ることがあった。その形はまるで扇の骨のようで、なかに白い気雲が混じり、午前2時頃までつづいた。この不思議な現象については、将軍家からも天文家へお尋ねがあったという。(『半日閑話』より)

雨に混じって降る、毛、毛、毛

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」(The Metropolitan Museum of Art)

江戸の街に毛が降ったという話は、その毛がなんの毛かはさておき、江戸時代に書かれた日記などでよく見かける。おもしろいのは、降ってきた毛の長さや色や太さがどれもちがうこと。江戸の人びとは空を見上げながらどんな気持ちでいたのだろう。

夜に降り積もった毛

天保7(1736)年、6月19日、その夜半、ひとしきり雨が降った。その夜、牛込の飯田町(東京都千代田区九段)から北御徒町(新宿北町)あたりにかけて空から毛が降ったようで、地上にたくさん散っていた。その毛は白く、やや黄色を帯びていた。(『遊芸園随筆』より)

小雨に混じる馬の毛

寛政5(1793)年の7月15日、江戸の街に小雨が降った。それだけなら、なんてことない日常のひと場面にすぎなかったが、この日の雨はいつもと少しちがった。雨に毛が混じっていたのである。
その毛の多くは、色が白いのや赤いの、短い毛もあれば長い毛もあった。ちょうど、馬の尾の毛ぐらいの太さだった。毛は江戸にあまねく降ったが、とくに丸の内のあたりは特別多く降ったということである。(『北窓瑣談』より)

まだある毛の話

1824年9月6日には暴風雨があり、長いもので60㎝ほどの獣毛が降ったのを多くの人が目撃している。色は端が白で、中央は薄黒や黄色をしていたとか。街の人たちは、馬のようなものが咥えて飛んでいくのを目撃したと話している。一説によれば、『山海経』(中国古代の地理書)の天馬が毛を降らせたとのこと。

空飛ぶ蜘蛛の巣

歌川広重「木曽海道六拾九次之内 四拾七 大井」(The Metropolitan Museum of Art)

寛政11(1799)年の10月14日は、空が快く晴れて少しの風もない、のどかな小春日和だった。その日、大阪では淀川から天王寺のほうにかけて蜘蛛の巣のような先の丸くかたまっているものが飛んでいくのが目撃された。それはぶわぶわと上下に漂いつつ、小春日和の大阪の空を数限りなく飛んでいったという。

地面に落ちたものを拾ってみると、やはり蜘蛛の巣だった。それにしては、すこし糸が太い。それを掌で揉むと、跡形もなく消えてしまった。この不思議なものは正午から飛びはじめ、昼過ぎに多く目撃され、2時になる頃には見られなくなった。

翌日も大阪は快晴。人びとは今日も蜘蛛の巣(のようなもの)が飛ぶかもしれないと心待ちに空を見上げて待ったが、その日は飛ばなかった。あれが何だったのか、どこから飛んできたのかは分からずじまいだったという。(『梅翁随筆』より)

妖怪が捨てていった溺死体

砂、火の玉、獣毛、蜘蛛の巣…これだけ多種多様なものが空から降ってくるのだから、もう、なにが降ってきたって驚きそうにない。とはいえ、さすがに人が落ちてきたら、しかもそれが腐った死体だったら、ぞっとする。

浅草堀田原(東京都台東区浅草)の堀筑後守屋敷に、それは落ちてきた。
文化7(1810)年4月7日の昼のことだった。突然、屋敷の上に物が落ちた響きがあったので急いで人をやって確認させると腐った溺死人の死骸だった。なにしろ臭気がすさまじく、屋根から降ろすのにも非常に苦労したという。
それにしても怪しい事件。屋敷としても秘密に片づけるには骨を折った。とにかく、その死骸は内々で寺へ葬ったという。

誰の仕業なのかは分からなかった。死体の落ちた屋根は奥の方にある御殿で、外から人が屋根へと投げ上げることは不可能。そうなれば空から落とされたと考えるしかなく、いっそう原因が分からない。
死体はすっかり腐り、ただれていて、顔も判別できないありさまだった。人びとは、死体を捨てたのは火車(妖怪)の仕業にちがいないと噂しあったということである。(『半日閑話』より)

砂、火の玉、獣毛、蜘蛛の巣、死体。江戸の空模様に要注意

歌川広重「六十余州名所図会 対馬 海岸夕晴」(The Metropolitan Museum of Art)

空からは、本当にいろんな物が降ってくるらしい。ちなみに2000年に石川県で降ったオタマジャクシは、近くを飛んでいた鳥が吐き出したとの説が有力だという。それなら江戸時代に空から降ってきた獣の毛は、いったい誰の落とし物なのだろう。砂や火の玉はどこから飛んできたのだろう。手のひらで消えてしまう蜘蛛の巣は、この世ならざるものとしか思えない。極めつけは、死体である。飛行物の少ない時代に、空から死体が落ちてくる理由なんて妖怪の仕業くらいしか思いつかない。

いずれにしても、大空からやって来る飛来物に人びとは強い関心を引きたてられてきたのはたしかだ。その証拠に、ファフロツキーズ(怪雨)にまつわる記録はそれこそ、砂のごとくたくさんある。

ちなみに私は、江戸に降ったという毛の正体はペレ―の毛(火山噴出物。溶岩が風や水中で引き伸ばされて糸状になったもの)ではないかと(ごく個人的に)推察している。ただ、記録を読んでいると獣の毛としか思えない記述ばかりで、やっぱりここは怪異のせいということにしておきたい。その方がなんとなくしっくりくる雰囲気が、江戸時代にはあるのだ。

【参考文献】
富岡直方「日本猟奇史」国書刊行会、2008年

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馬場紀衣

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。
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