思い出の拵えは“重い”拵え
彌十郎さんの思い出の衣裳は、スーパー歌舞伎の第一作目『ヤマトタケル』で演じた熊襲(くまそ)兄タケル。1986年の初演から10年、彌十郎さんが勤めた役です。
「好きな拵えは、いっぱいあります。濡髪長五郎(ぬれがみちょうごろう。『双蝶々曲輪日記』の『引窓』『角力場』)も好きでした。でも忘れられないエピソードと言えば、『ヤマトタケル』の熊襲です。30キロと大変な重さの衣裳を着て、大声を上げて暴れまわります。初演の年の中日劇場での公演だったでしょうか。大きな衣裳をガッと回そうとしたら背中にビーンと電気が走って。背骨を捻挫してしまったんです。痛みで記憶がほとんどないまま芝居は最後までやりきり、劇中で殺されて倒れたら震えがきて起き上がれなくなりました。結局、熊襲の隈取のままストレッチャーに乗せられて、救急車で病院に運ばれて。忘れられない経験です(笑)」
新作よりも古典歌舞伎の衣裳の方が、重たそうなイメージを持たれる方もいるのではないでしょうか。たとえば『助六』の意休(いきゅう)の衣裳は、金糸をふんだんに使っているため特に重いと言われています。彌十郎さんも経験のある役です。
「たしかに古典にも重い衣裳はありますが、重たくてもバランスがとれるんです。正しく着せていただき、この形でこの動きならば大丈夫だという型を、先輩方が何百年とかけて工夫してこられたのだなと感じます。熊襲の衣裳も、最後にやらせていただいた時には、驚くほどに軽く改良されていました。どうしちゃったの?! 最初からこうしてくれていれば……というほどに(笑)。猿翁さんがはじめたスーパー歌舞伎だって、やはり歌舞伎です。上演を重ねて改良されて古典になっていくのでしょうね」
彌十郎さん、史上最高の水戸黄門に。
10月は歌舞伎座で『水戸黄門』に出演されます。
「昭和50年に、十七代目中村勘三郎のおじさんが水戸黄門をなさいました。その時の台本を基本に上演します。夜の部の最後に上演される演目ですから、お客様に『良い芝居だったな』とほのぼのとした気持ちでお帰りいただけるようがんばります」
さきの中納言・水戸光圀は、ある事情からお忍びで四国の讃岐へ。正体を隠している時と、水戸光圀公として登場する時で、「たとえば袴や半纏(はんてん)を少し変えることで、場の雰囲気を変えておみせできれば」。公演ビジュアルは大らかな笑顔が話題に。「この拵えになると、ハッハッハ!という気持ちになりますね」と語ります。
「水戸黄門の役は、僕の父(坂東好太郎)も映画で演じていました。終戦翌年の坂東好太郎一座として全国を巡業していた時に、芝居で『水戸黄門』をかけたことがあったとも聞きます」
彌十郎さんの父・坂東好太郎さんは1911年生まれ。その美しさから『廓文章』の夕霧を任される歌舞伎の女方となります。20歳で映画界へ。京都・松竹下加茂撮影所では、長谷川一夫、高田浩吉とともに松竹を代表する時代劇スターとなり「下加茂の三羽烏」と呼ばれました。
「父は、若い頃は二枚目で通していました。松竹で主演作を何本も撮っています。映画が良かった時期にはお弟子さんもたくさんいました。親分気質で、仲間と野球をしたり撮影所の皆さんを連れて飲みにいったり」
映画の撮影を何作も掛けもちスタジオからスタジオへ。「不死身の健(本名は健太郎)」と呼ばれていた、との逸話もあります。
「父も自慢げに話していました、そんな風に言われたんだぞって(笑)。けれども二枚目として主演していた頃の映画のフィルムは、下加茂撮影所のフィルム貯蔵庫で大火災が起きた時(1950年)に、ほとんど焼けてしまったんです。今では画質の悪いものが1本残っているくらい」
50代で歌舞伎界に復帰。彌十郎さんに対しては温厚な父親だったそうです。
「人生で一度しか怒られた記憶がありません。楽屋でお喋りをしていたら、舞台を出トチリしてしまった時のこと。あ、もう1回ありました。やはり舞台でのことでした(笑)。水戸黄門もそうですが、父と同じ役をやることは多いです。役が決まり、調べたり人から教えていただいて、初めて『親父もやってたんだ』と知ります。僕は、父のことを全然理解してなかったな、と思うところもあります」
『水戸黄門』では、長男で歌舞伎女方の坂東新悟さんと共演します。
「新悟はうどん屋の手伝いの、おそでという役です。相手役といってもいい、良いお役です。息子だからということではなく、この役を勤めるのが新悟で良かったなと思っています。新悟が子どもだった頃、僕は厳しく稽古をしました。彼が『役者になる』といった翌日からのことです。今はもう怒りませんし、彼が女方の道に進むと決めてからは口を出すこともなくなりました。色々な先輩によく教わってほしいですね」
そして「最近では、僕の芝居に意見をくれるようにもなったんですよ?」と苦笑いしつつ、うれしそうな表情で言い添えました。
外からの目、柔らかい頭で
彌十郎さんは、今年で初舞台から50年です。
「書き物(新作)も古典もしっかりとやっていきたいです。そして常に頭は柔らかくいたい。これは25歳から15年間、猿翁さんのもとで勉強させていただき学んだことです。僕はよく泣きますし興奮しいだったので、師匠から『世阿弥の“離見の見(りけんのけん。自分の姿を前後左右、客観的に外から見る目)”を持ちなさい』と言われました。もとは舞台の上での言葉ですが、人生や歌舞伎そのものに対しての“離見の見”があれば、新しいものの考え方が生まれてくるように思います」
目標は、ヨーロッパに歌舞伎専用の劇場を作ること。過去のインタビューでも一貫して、そう答えてきました。こだわる理由をたずねると、穏やかな佇まいのまま「だって悔しいじゃないですか」と言葉に力を込めます。
「歌舞伎は世界に通用する芸能です。でも海外に歌舞伎仕様の劇場は1つもありません。だから歌舞伎は、海外公演のたびに所作舞台からコンテナで船にのせて送り、劇場に仮設の花道を敷いて。劇場の奥行きによっては花道を途中で横へ曲げたり、セリがないから演出を変えたりします。歌舞伎も役者も融通が利きますから、それでも公演はできてしまいます。でも歌舞伎には何百年もかけて作られた演出があり、歌舞伎を上演する劇場は、それにあわせて花道や盆、セリ、黒御簾音楽や大臣柱を持つ歌舞伎スタイルとなっていきました。海外の劇場ですと、古典歌舞伎を古典のままお見せできないのが悔しいんです」
“ヨーロッパに歌舞伎スタイルの劇場を”の根本にある、古典歌舞伎への思いがうかがえます。
「歌舞伎スタイルの劇場とは、歌舞伎しか上演しない劇場というわけではありません。日本で生まれた廻り舞台を使い、現地の方々がシェイクスピアやオペラを上演すれば、その空間に合ったニューディレクションが生まれるでしょう。そこから違う演劇が立ち上がるかもしれません。上辺だけでない、歌舞伎と西洋演劇の融合がなされて、ユーロ歌舞伎なんてものが生まれるかもしれない。それにヨーロッパに1つでもそのような劇場があれば、そこを拠点に陸路で歌舞伎の道具を運べます。歌舞伎の海外公演のハードルがぐっと下がるんです」
彌十郎さんは、猿翁さんのもとで海外公演を経験しました。猿翁さんがピーター・ブルック、モーリス・ベジャール、マルセル・マルソーなど名だたるアーティストと親交を深めた時、そのテーブルで同じ時間を享受し刺激を受けました。十八代目中村勘三郎さんがはじめた平成中村座にも参加しています。そして2016年、彌十郎さんは新悟さんとの自主公演「やごの会」をパリ、ジュネーブ、マドリッドで開催。欧州公演を成功させます。
「古くから大正時代くらいまで続いていた日本の文化は、アメリカよりもヨーロッパ圏の文化に近いものがあると感じます。猿翁さんと海外公演をご一緒した時は、パリ市立のシャトレ劇場が、ロココ調の場内に宙乗りのため金のレールを常設してくれたりもしました。現地の理解者、協力者が必要ですし莫大な費用がかかります。国と国で動いてもらわないと難しいですよね。ですから、やごの会の時も僕はスーツを着て、文化庁やあちこちに出向いてスポンサーを集めました。日本に文化芸術に熱心な政治家の方がいてくれたら……と、どれだけ思ったことか」
歌舞伎やヨーロッパについてお話しくださる彌十郎さんからは、歌舞伎俳優としてだけでなく、プロデューサーのような目線も感じられました。
「もし僕にそれがあるとしたら、僕が本当に大好きでご一緒させていただいた猿翁さん、勘三郎さんのおかげです。おふたりとも役者として、ディレクター(演出家)としてだけでなく、プロデューサー(興行主)としての目線をお持ちでした。思えば僕のひいじいさん、十二代目守田勘彌も守田座の座元。現代でいえばプロデューサーですね。今はコロナ禍の影響、そして自分の年齢的にも焦りを感じています。でもヨーロッパに歌舞伎スタイルの劇場を。これは絶対にやらなくてはならないことだ、と思っています」
関連情報
『錦秋十月大歌舞伎』
会場:歌舞伎座
日程:2023年10月2日(月)~25日(水)【休演】10日(火)、17日(火)
昼の部 午前11時開演、夜の部 午後4時30分開演