「若気の至りで……深く後悔している」
誰にでも、後悔の1つや2つ。いや、3つや4つ、人によっては数えきれないほどという強者も。それでも、そんな後悔を胸にしまい、グッと顎に力を入れて。なんなら、歯茎から血をほとばせてでも、人生は前へ前へと進むしかない。
しかし、そんな根性論の前に。
やはり、我が身を振り返って、反省すべきところは反省する。これが、自分を成長させる上で一番大事なことだろう。
今回、冒頭で、しおらしく自分の至らなかった点を反省しているこのお方。徳川3代将軍・家光(いえみつ)も、きっとそう思っているに違いない。
ちなみに先ほどのセリフの「……」の中に入るのは、「罰してしまった」という言葉。一体、3代将軍家光は、若気の至りで誰を罰したというのか?
それが、今回の主役となる「青山忠俊(あおやまただとし)」。
厳しくも深い愛情を持った、3代将軍家光の傅役(もりやく)である。
彼の一本筋の通った生き様を、早速ご紹介していこう。
東京の「青山」の地名の由来となった一族
今回の記事の主人公となる「青山忠俊」。
ハッキリ言って、彼は、徳川家家臣の中で、そこまでメジャーではない。やはり、徳川家家臣団といえば、徳川家康に忠儀厚い三河武士のイメージが強いようだ。「徳川四天王」や「徳川十六神将」などを思い浮かべる人も多いだろう。
ただ、彼は、違う意味で有名だ。
特に、当時ではなく、現代においてである。
つい、謎解きのようになってしまったが。日本の首都・東京の中でも一等地といわれる「青山」。この土地の地名と、青山忠俊の姓が同じであるのは、ただの偶然ではない。じつは、「青山」という地名は、彼の一族に由来する。
この青山家は、三河国(愛知県)の国人で、忠俊の祖父の代から徳川家(当時は松平家)にずっと仕えてきた一族である。当然、家臣の子はさらに、次世代の主君の家臣として使える。忠俊の父である「青山忠成(ただなり)」も同様。幼少期より家康の小姓として仕えることに。
そんな徳川家康の転機は、天正18(1590)年。
豊臣秀吉による小田原征伐が行われた年である。のちに秀吉は、家康に対して、関東への領地替えを命ずる。こうして、家康は、駿府(静岡県)から新領地の中心地となる「江戸」へと本拠を移すのだが。この江戸入りに際して、家康は家臣の新しい知行割を発表。加えて、家臣の住居の整備も行っている。
当時の江戸は、未だ広大な湿地帯が広がっていたのだとか。そのため、何の気まぐれか、家康は傍にいた家臣に、ある話を持ちかけたという。
馬で走った分だけ、その土地を屋敷にしてやると。
家康なりの即興でのお楽しみだったのかもしれない。それを真に受けて、アメリカンドリームならぬ、家康ドリームの恩恵を受けたのが、のちの関東総奉行の1人となる「青山忠成」。忠俊の父である。やる気十分で馬を走らせ、広大な土地を手に入れることに。実際、青山邸は非常に大きかったといわれている。
そして、この場所が、現在の「青山」なのだという。
諫言の末に……まさかの不本意な蟄居
広大な屋敷を構えて。さらに、父の忠成は、2代将軍秀忠の傅役(もりやく)にも抜擢される。教育係として、その後は2代将軍秀忠の政治を支えることに。
もちろん、青山忠俊も、父と共に2代将軍秀忠に仕えるのだが。慶長12(1607)年、のちの3代将軍である「家光」付きとなり、元和元(1615)年には傅役に。父子揃って2代にわたり、将軍の教育係に任ぜられるのは、よほど信頼されているからだろう。
じつは、結論からいえば、徳川家3代将軍は家光に決定するのだが。家光は長男ではなく、次男である。長男は早世し、残る次男の「家光」と三男の「忠長(ただなが)」が後継者候補となっていた。両者の生母は、織田信長の妹・お市の方の娘である「お江(ごう)の方」。2人は実の兄弟である。
ただ、弟の忠長の方が容姿も整っており、活発な子であったという。内気な家光を、お江の方は可愛がらなかったとも。そのため、忠俊は、愛情を持って家光に次期将軍のための教育を行っていく。
何も、優しいだけが愛情ではない。
逆に厳しく接する方が、なかなか難しいもの。忠俊も、家光には厳しい教育を施した。あまりの厳しさに、家光が不平不満を言うならば、自分の刀を置いてこのように迫ったという。
「言うことを聞き入れぬなら、この青山の首をはねてから、好きなようになされよ」
(山本博文監修『改易・転封の不思議と謎』より一部抜粋)
青山忠俊には、信念があったのだろう。
傅役を仰せつかった以上、家光を次期将軍にせねばならないとの思いが、強かったようだ。
だからこそ、家光にとって耳の痛いコトも。
若い頃の家光といえば、小姓たちとの男色に耽っていたという逸話が有名。実際に、若衆歌舞伎に傾倒し、派手な格好を好んでいたようだ。
当時流行していた派手な短い羽織、化粧などと、傾奇者(かぶきもの)顔負けの姿で外に出るところを諫めたことも。これから、天下を治める人が、はしたない格好をしていては、国の乱れとなる。そんな諫言をしていたようだ。
その後、元和2(1616)年。
大御所として実権を握っていた家康が逝去。2代将軍秀忠の本格的な政治が始まる。忠俊はこの年に老職(のちの老中)に就任。さらに元和6(1620)年には、武蔵岩槻(埼玉県)4万5000石へ転封。順調に出世し、岩槻城主となっている。
ただ、それでも。
青山忠俊は、傅役を離れたあとも、家光を気にかけていたという。必要あらばと、その都度、苦言を呈していた。
しかし、残念ながら。
そんな忠俊の親のような思いは、家光にはなかなか通じなかったようである。自分のためを思ってのことと理解できれば、諫言も甘んじて受け止めることができるのだが。それが理解できないうちは、ただ、文句を言われ続けているだけと思ってしまう。家光からすれば、忠俊は、忌々しい「目の上のたん瘤」のような存在であった。
元和9(1623)年。
そんな家光が、徳川家3代将軍に決定。
この将軍就任の2か月後。同年10月に、まさかの処分が下る。
突然、青山忠俊が老中職を解任されるのである。その上、上総大多喜藩(千葉県)2万石へ減封。
これに対して、忠俊はこの領地を返上し、何の言い訳も抗議もせずに。相模上溝村(かみみぞむら、神奈川県)にて蟄居(ちっきょ)。家にこもって謹慎の身となる。
どうやら、これまでの青山忠俊の言動が理由だったようだ。全ては、青山忠俊の厳しくも愛情から出た行動だったのだが。結果的には、3代将軍家光の勘気をこうむったとして、不本意な処遇に。
こうして、青山忠俊は、江戸幕府の中枢から姿を消すのであった。
最後に。
その後の、青山忠俊について。
忠俊は、二度と江戸幕府の中枢に戻ることはなく。今泉村(神奈川県)にてそのまま隠居し、寛永20(1643)年に逝去。享年66。
忠俊の最期に、それはあんまりだと思わなくもない。どこまで、3代将軍家光は人の気持ちが分からないバカヤローなのかと。そう、憤慨しそうになる。ただ、その罵声は、少しお待ち頂きたい。
じつは、青山忠俊の教育は間違っていなかった。
というのも、その後、3代将軍家光は気が済んだのか、それともハッと我に返ったのか。何が起こったかは分からないが、ただ1つ言えるのは、猛烈に反省したというコト。やべえ、やり過ぎたと。自分の至らない振る舞いに気付いたようだ。
まずは、寛永9(1632)年に忠俊を赦免。忠俊の蟄居に連座していた息子の宗俊(むねとし)を旗本にして。そして、忠俊本人にも、幕府の中枢へと再出仕を求めた。
これに対して、忠俊は。
「それでは上様が間違っていたと認めたことになります。それはあってはならないことです」
(東由士編『徳川四天王』より一部抜粋)
お役には立てないと、3代将軍家光からの要請を固辞したという。
これは、私個人の意見となるが。
青山忠俊にとっては、この申し出だけで十分だったのではないだろうか。
かつて教育を行った相手の3代将軍家光が、自分の過ちを認める。これだけで、自分の教育は間違っていなかったと思うことができる。その一言で、忠俊は救われたのかもしれない。若い頃に厳しく指導した甲斐があったのだと。
それでは、冒頭のセリフで締めくくろう。
これは、3代将軍家光が、青山忠俊の子である宗俊に話した内容だとか。
「若気の至りで、忠俊の心がわからず罰してしまった。深く後悔している」
青山忠俊の声が聞こえてきそうだ。
もう、これで十分だと。
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『改易・転封の不思議と謎』 山本博文監修 実業之日本社 2019年9月