「遊郭(ゆうかく)」とはどのような場所で、何をするところだったのでしょうか。わかりやすく解説します。
「遊女」を集めた場所。それが「遊郭」
「遊郭」とは、江戸時代に存在した「遊女」を集めた場所のことです。
では遊女とは何か? いわゆる「春を売る」女性たちのこと。
江戸時代やそれ以前は、このような女性たちを指して「遊女」と言ったり、「うかれめ」「あそびめ」「ゆうくん(遊君)」「けいせい(傾城)」などとも言いました。ちなみに遊女の語自体は、「万葉集」にも見られる言葉です。
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豊臣秀吉「遊女は一つの場所に集めるべし」
1585(天正13)年、豊臣秀吉は大坂の街に遊女たちを集めた場所を建設させます。これが「遊郭」の始まりとされます。
遊女の語が古代からあったように、売買春に当たる行為は大昔からありました。
しかしこの秀吉の政策以前には、遊女たちが集まる場所として公に認められた場所はなく、各地に「遊女屋」などと呼ばれる店が点在しており、遊女屋を放浪する遊女も少なくありませんでした。
このとき大坂に建設された遊郭は「新町遊廓」(現在の大阪市西区新町)と呼ばれ、大坂各地に点在していた遊女屋がこの新町に集まってきます。
秀吉は京都に「柳町遊郭」も設けます。これは移転を重ねた後、1640(寛永17)年に「島原遊郭」として成立します。
秀吉のこの政策を徳川政権は引き継ぎ、1617(元和3)年、江戸市中数カ所に散在していた遊女屋を集めて「葺屋町」(現在の中央区日本橋人形町付近)に「傾城町」(遊郭のこと)の建設を許可しました。
これが有名な「吉原遊郭」の起源で、1657(明暦3)年に浅草の新吉原へ移転した後も、幕末を経て昭和まで存続しました。
なぜ「遊郭」と言うの?
遊女たちを一つの場所に集めること、難しい言葉で言えば、幕府の「集娼方式による公娼制度」には目的があります。
一つは、治安や風俗の取り締まりのため。
もう一つは、税金を徴収しやすくするため。
また、出入りを管理することで「一般市民社会とは異なる性格をもつ場所」とするという意図(世界大百科事典「遊郭」より)もありました。
そうした点から、江戸幕府が公認した遊郭は3つあります。
それが「大坂新町」「京都島原」「江戸吉原」の3つ。
上記の目的を効果的にするため、いずれの遊郭も「都市の周辺部に設定」され、周囲を「溝や塀で囲み」、「出入口は1カ所」にして外部との遮断が図られています。
このため、遊郭のことを「郭」や「曲輪」と書いて「くるわ」と呼んだりもします。
「くるわ」とは「城や砦を取り囲んでいる囲い」のことです。
華開いためくるめく遊郭の文化
遊郭の成立によって、この郭の中でさまざまな、そして独自の文化が花開いていきます。
男女の色恋沙汰だけでなく、格式が生まれ、遊女たちや店にはランクがつけられるようになっていきます。
中でもよく耳にする「花魁(おいらん)」は、上級の遊女を指す言葉。
「太夫」も最高位の遊女を指す言葉ですが、その厳密な使い分けや語源については諸説あります。
また、花魁や太夫は単なる遊女ではなく、教養や音楽などの素養も求められました。
と同時に、客にも相応のマナーが求められ、遊郭には独自のルールが生まれていきました。
実は全国にいっぱいあった
当然といえば当然なのですが、「そういうニーズ」は全国にあり、3ヶ所で足りるわけがありません。
「わが町にもぜひ」ということで、暗黙のうちに認められた「そういう場所」は各地に多くありました。
吉原について詳しく書かれた江戸中期の随筆『洞房語園』(庄司道恕斎勝富著)は、
伏見撞木町
奈良木辻
大津柴屋町
駿府弥勒(みろく)町
敦賀六軒町
越前三国
佐渡鮎川(相川)
堺高須
同乳守(ちもり)
神戸磯ノ町
播磨室津
備後鞆(とも)
安芸宮島
同多太海(忠海)(ただのうみ)
石見温泉津(ゆのつ)
下関稲荷町
博多柳町
長崎丸山
など計25カ所を挙げています。
結局のところ、遊郭は全国にあったのですね。
加えて、これら以外にも「非公認」の遊郭はさらに多くあり、たとえばお伊勢さんへの参詣人が足を運んだ伊勢の古市(ふるいち)は茶屋町として、東海道の品川宿は形式上は飯盛旅籠(めしもりはたご)屋として営業を認められてもいました。
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だんだんと衰退
江戸中期以降は、この非公認の場所である「私娼街」が勢力を伸ばしてきます。
遊郭にいるわけではない、いわゆる”フリー”の遊女たちは江戸では「夜鷹(よたか)」、京都では「辻君(つじぎみ)」、大坂では「惣嫁(そうか)」などと呼ばれ、彼女たちと一夜を共にする場所は「岡場所」と言われました(単に屋外の場合も)。
当然、非公認ですので取り締まりの対象であり、見つかれば厳しい処罰がありましたが、一方で遊郭のほうはというと、格式主義とそれに伴う遊興費の高さなどから、庶民の足はだんだんと遠のいていったとされます。
明治以降はどうなった?
人身売買を伴うことも多くあった公娼制度に対し、明治維新以降は外国からの批判もあり、近代的な人権の観点から廃止の動きが進みます。
こうした動きは「廃娼運動」と言われ、明治政府は従来の遊郭を近代的な法律の上から整理しようと、1872(明治5)年に「芸娼妓解放令」を出します。
ただ、遊郭自体が廃止されたわけではなく、翌年には「貸座敷渡世規則」が出され、遊郭は「貸座敷」として営業を続けます。実際、遊女(明治以降の官用語では「娼妓」)やそこで働く人たちにとっては、遊郭が生活の拠点であり、そこで暮らしが保証されていた側面もありました。
この法律によって、江戸時代までの公認遊郭や非公認だった飯盛旅籠屋、私娼街なども免許を受け、戦前まで存続します。1924(大正13)年における全国の許可地は545カ所、業者は約1万1200軒、娼妓は約5万2200人に及びました(前掲書)。
そして戦後になり、GHQによる占領政策の中で1946(昭和21)年には「公娼廃止指令」が発出。公娼制度は事実上廃止されます。
しかしここでも抜け道が生まれます。それがいわゆる「赤線地帯」。「特殊飲食店」と称された、売春婦を置いて売春をさせる店が集まっていた地域が俗にそう呼ばれました。
ここでは、「売春婦は特殊飲食店の部屋を借りて住んでいて、そこへ遊びにきた客と恋愛におちいり、プレゼントを受けとるという形式」に(前掲書)。赤線および類似地帯は1952(昭和27)年当時全国に618カ所、業者約1万8000軒存在しました(同)。
抜け道や抜け穴によって事実上存続し続けてきた「遊郭」ですが、1958(昭和33)年「売春防止法」が制定。
「売春」とは「対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交すること」と定義され、「何人 (なんぴと) も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」として、ついに公娼制度としての「遊郭」は消滅したのでした。
許されるものではないけれど
売買春は現代日本の法体系、人権的観点からは許されるものではなく、現代社会において許容される余地はありません。
ただしその感覚はあくまで近代以降に生まれた視点に基づくものであり、現代の私たちの感覚をもって江戸時代、さらにはそれ以前の人々を断罪することはできません。
江戸時代の遊郭は、身売りなどといった悲しい歴史を前提にしながらも、芝居と並ぶ娯楽として当時の文化と深い関係があり、社交場としての遊郭を中心に〈粋〉の美学などが生まれ、江戸文化の重要な一面を構成していたこともまた事実なのです。
参考:平凡社『世界大百科事典』、小学館『日本国語大辞典』
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