源平合戦好きの女子にきっかけを聞くと、「高校の古典の授業で習った、『平家物語』の『木曽最期(きそのさいご)』にハマって……」 と答える人は、割と多いです。
そんな多くの女子を虜にした『木曽最期』とはどんな話だったでしょうか。
無数の死を描いた『平家物語』ってそもそもどんな話?3分で解説!
背景
打倒平家を掲げて立ち上がった源氏は源頼朝だけではありません。信濃国にいた木曽義仲(きそ よしなか)もその1人です。義仲は頼朝の従兄弟にあたる人物で、義仲の父は頼朝の父の命で討ちとられています。
そういう理由で、もともと仲が悪かったのですが、今は共に打倒平家を掲げている仲ということで、一時的に和睦しました。
そして義仲は京都を攻めて、平家を追い出しました。ところが、田舎で生まれ育った義仲は、細かい京のルールを知らず、朝廷から嫌われてしまいました。そこで義仲は当時の最高権力者・後白河(ごしらかわ)上皇を幽閉してしまうのですが、後白河上皇は頼朝にSOSを発信します。
頼朝は弟の源義経(みなもとの よしつね)と源範頼(みなもとの のりより)を大将として京都に派遣します。宇治川を突発した鎌倉軍を見て、ついに本人が出陣することとなりました。
木曽義仲の愛妾
木曽義仲の愛妾といえば巴御前が有名ですが、実は木曽義仲を取り巻く女性は巴御前だけではありません。木曽義仲が信濃国から連れてきたお気に入りの女性は、巴御前と山吹(やまぶき)という2人でした。
しかし山吹は病にかかってしまい戦に出る事ができず、都で留守番することになりました。
巴御前は、色白で髪が長く、容姿もとても良い女性でした。男でもめったにいないぐらい強弓(つよゆみ)を引く優れた兵士でもあります。刀を持てば鬼でも神でも相手になろうという一騎当千の武者でした。
戦になれば木曽義仲はいつも巴御前に良い鎧を着せて、大将の1人として向かわせました。手柄を立てた数も、他にいないぐらいです。鎌倉軍との戦においても、その武勇を発揮して、最後の7騎になるまで残りました。
木曽義仲と今井兼平
一方、木曽義仲はというと、敗戦が濃厚になり兵を引き上げて逃げようとしました。しかしどこへ逃げれば良いのかわかりません。そこで乳母子(めのとご=乳母の子。幼馴染で一番の家来)の今井兼平(いまい かねひら)を探しました。
今井兼平も守っていた場所を破られて主人である木曽義仲を探していました。2人は戦の中で再会し、木曽義仲は今井兼平の手を取り、言いました。
「オレは六条河原で最期を遂げようと思ったが、お前が恋しくて、多くの敵の仲を駆け抜けてここまで来たんだ」
今井兼平は答えます。
「そのお言葉はまことに恐れ多く存じます。私もあなたの行方が気がかりなのでここまで来ました」
2人は死ぬなら一緒の場所でと誓い合った仲でもあります。最期に強い敵と戦って討死しようと旗を掲げました。それを見てやってきたのは甲斐源氏の一族である一条忠頼(いちじょう ただより)という武士です。2人は丁度良い敵だと思い、応戦しました。
木曽義仲の名乗り
ここからが、教科書にも書かれている部分です。
木曽左馬頭(さまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦の直垂(ひれたれ)に唐綾威(からあやおどし)の鎧着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒しめ、厳物作り(いかもの づくり)の大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々のこったるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、滋籐(しげどう)の弓もって、聞こゆる木曽の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いてぞ乗つたりける。
鐙(あぶみ)踏んばり立ちあがり、大音声(だいおんじょう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曽の冠者(かんじゃ)、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐(かひ)の一条次郎(いちじょうの じろう)とこそ聞け。互ひによき敵(かたき)ぞ。義仲討つて、兵衛佐(ひょうえのすけ)に見せよや。」とて、をめいて駆く。
軍記物はよく登場人物の衣装の描写が登場します。直垂というのは、相撲の行司が着ているような着物です。運動しやすい着物で、武士にとっての正装でした。その上に唐綾威の鎧を着込んでいます。
当時の鎧は鉄板を糸や革などで繋ぎ、縅(おどし)と呼びました。その縅が美しいほど、高級な鎧です。唐綾威は中国製の絹織物のことなので、かなりの高級品ですね。
鍬形は兜につけている角みたいな部分です。当時は大将格の人しかつけられませんでした。そして立派な厳めしい作りの太刀を佩(は)いています。「石打ち」というのは、「石を打てるほど固い鳥の羽」のことで、よく矢羽根に使われていました。木曽義仲は戦で少し矢を放っていて、残った矢を、肩から長く飛び出すように高く背負いました。
「滋籐の弓」は「重藤の弓」とも書き、補強のために藤で巻いている弓のことで、当時は一般的な弓です。そして木曽義仲が乗っているのは「鬼葦毛」という名の、木曽の馬の中でも特に優れた名馬で、金箔を施した鞍に腰掛けていました。
そして鐙(鞍の足を置く部分)の上で立ち上がり、大声で名乗ります。
「昔はオレを木曽の冠者(若者)と聞いていたろうが、今のオレを見ろ! 左馬頭(軍事の長官)兼、伊予守(愛媛県知事)、朝日の将軍木曽義仲だぞ!」
朝日の将軍というのは官職名ではなく後白河法皇からつけられたニックネームで、「(京から見て)東から来た将軍」「朝日が京を照らすかのように、平家を追い払った将軍」というような意味でしょう。正直めっちゃくちゃカッコイイと思います!
「お前は甲斐の国の一条忠頼だろう? お互い相手に不足ないだろう! この義仲を討って、兵衛佐にでもなってみろ!」
おお! 少年漫画のような名乗り!
ちなみに「兵衛佐(ひょうえのすけ)」というのは当時の官職で、都の警備兵のリーダーの事です。一般的な武士は、ヒラ警備兵の「兵衛」で、出世しても「佐」の一つ下の「兵衛尉(ひょうえのじょう)」止まりでした。だから「義仲を討てばものすごく出世できるぞ」という煽りですね。
ちなみに源頼朝は貴族のおぼっちゃんだったので、最初から「兵衛佐」でした。だから「佐殿(すけどの)」と呼ばれています。
一条忠頼も答えます。
一条の次郎、「ただ今名のるのは大将軍ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや(うてや)。」とて、大勢の中にとりこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。
木曽三百余騎、六千余騎が中を。縦様(たてさま)・横様(よこさま)・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平(どいの じろう さねひら)、二千余騎でささへたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。
「今名乗りを上げたのは『大将軍』だ! みんな、絶対に討ち損ねるなよ! 討ち損ねるなよ、若い衆! 討てー!」 と大勢で取り囲んで、みな討とうとしました。
300騎余りの木曽軍は、6千騎余りの鎌倉軍の中を、縦に横に、蜘蛛の足のように八方に、また十文字に駆け回って、軍勢の後ろへツツッと出ました。
敵中突破メチャクチャかっこいい! けれど300騎余りの軍勢は50騎ほどになっていました。サラッと書かれているけれど、激しい攻撃の中を搔い潜ったことがうかがえます。なんか漫画『キングダム』でもそんなシーンありましたね。
さらに鎌倉軍の土肥実平が、2千騎余りの兵を率いてやってきました。それも突き抜けて進んで行くと、あそこでは450騎、ここでは230騎、140~150騎、100騎とけしかけられて、とうとう木曽軍の兵は残り5騎になってしまいました。うう……木曽殿、絶体絶命です!
ついに登場、巴御前!!
生き残った5騎のうちの1人は、人類最強の女武者、巴御前!!
五騎が内まで巴は討たざれけり。
木曽殿、「おのれは、疾う疾う(とうとう)、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉つて、
「あっぱれ、よからう敵(かたき)がな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、控へたるところに、武蔵(の国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだの はちろう もろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。
巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪に押し付けて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。
そののち、物具(もののぐ)脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかの たろう)討ち死にす。手塚別当(べっとう)落ちにけり。
巴御前の衝撃的な首ねぢ切つて捨ててんげりシーンの現代語訳は、過去記事も参照していただいて……。
巴御前とは?人物解説!秋元才加演じる平安末期の霊長類最強女子?【鎌倉殿の13人予習シリーズ】
手塚太郎は木曽義仲に従った手塚光盛(てづか みつもり)という武士で、手塚別当はその父(もしくは叔父)です。なんと、かのマンガの神様手塚治虫のご先祖様!! ……と、されています。手塚治虫も火の鳥シリーズで木曽義仲を描いてますね。
木曽主従の別れ
教科書に載っているのはここまでですが、『木曽最期』はもう少し続きがあります。
木曽軍はとうとう、今井兼平と木曽義仲の2騎になってしまいました。木曽殿は「これまで、なんとも思わない鎧は、今日は重い」と呟きます。気分が落ち込むと力も出ないですものね。気持ちはわかります。
けれど今井兼平は「お体はまだ疲れてはいないでしょう? 馬も弱ってません。なぜ鎧が重く感じることがありましょうか。そのように弱気になられるのは、味方の兵力がないからでしょう?」と答えます。今井さん、厳しい!!
今井さんは続けます。「この私が1人いれば、武者千人分とお思いになってください。矢がまだ7,8本ありますので、しばらく敵の進撃を防げます」 今井さん、頼もしい!! イケメン!!
「あそこに見えますのは、粟津(あわづ)の松原という場所です。あの松の林の中で自害なさいませ」 今井さん、やっぱ厳しい!!
そうこうしているうちに、鎌倉軍が50騎ほど現れました。今井さんは早く自害してくださいと急かすのですが、木曽殿は「オレは本来都で戦死すべきだったのを、こうしてここまで逃げて来たのは、お前と同じ所で死のうと思ったからなんだぞ! 別々の所で死ぬよりも、同じ場所で討死しよう!」と、今井さんと一緒に行こうとします。
すると今井さんは馬から飛び降りて、木曽殿の馬の口に手を当てました。
「武士というものは、どんな手柄があっても、最期に情けないことをすると、長い間の疵となって残るものです。あなたの体は疲れているでしょう? 後続の味方もおりません。無名の者に討たれれば、『あれほど日本で有名な木曽殿を、誰それの家来にすぎない者が討ち取った』などと言われるのは、とても残念です。どうかあの松原に入って自害してください」
今井さんの懇願に、ついに木曽殿もとうとう折れて松原に入っていきました。
奮戦! 今井兼平!
そして今井さんはたった1騎で、鎌倉軍50騎に向かって行きました。
「日頃は噂に聞いていただろう。今、その目で見るがいい! 木曽殿の御乳母子、今井の四郎兼平。生年(しょうねん)33歳になる。そういう者がいると、鎌倉殿(源頼朝)もご存知だろう? この兼平を討って、鎌倉殿にご覧に入れよ!」
うおおお! めっちゃカッコイイ名乗り! 今井さんはこの後、たった1人で鎌倉軍8騎を矢で仕留めました。矢が尽きると刀を抜いて駆け回りましたが、あまりに強いのでまともに組み合おうとする人はいません。遠方から矢を雨のように打ちますが、今井さんの鎧は良いものだったので、貫通せず、傷を負いませんでした。
あっけない! 木曽義仲の最期!
一方、松原に入った木曽殿ですが、この日は冬真っ盛り。氷が薄く張った深い田んぼがありました。しかしそれに気づかず、木曽殿は田んぼに入ってしまいました。
鎧騎馬の重さで薄い氷は割れて、ザブンと馬の頭まで沈んでしまいました。そして今井さんの事が気がかりで振り向いた所を、三浦一族の石田為久(いしだ ためひさ)の矢で射られてしまいました。
ちなみに、この石田為久、のちにあの石田三成が子孫を名乗っていますが……まぁ信ぴょう性はお察しください。
石田為久は討ち取った木曽殿の首を掲げ、「あの有名な木曽義仲殿を、三浦一族の石田為久が討ち取ったぞー!」と大声で名乗ったので、今井さんもこれを聞きました。
衝撃! 今井兼平の最期!
今井さんは「これからは誰かを庇うために戦う必要もない。さぁご覧くだされ、東国のみなさん。これが日本一の剛の者の自害だ!」といって、太刀の先を口にくわえて、馬から飛んでさかさまに落ち、自らを太刀で貫くように亡くなりました。なんとも壮絶な死に様ですね。
さてこそ粟津の戦はなかりけれ
この『木曽最期』では、木曽義仲と今井兼平の心の結びつきを、これでもかと強調して描いています。この主従関係が多くの人々の心を捉えました。
反対に巴御前との別れのシーンは意外にアッサリしています。のちの創作では木曽義仲と巴御前は男女の仲のように表現されますし、そういう関係ならもっと情緒たっぷりのお別れシーンが描かれるはず。どちらかというとこちらも「主従関係」を強調しているように思えます。
平家物語が描かれた頃の男女観って、意外とフラットなのかもしれませんね。
▼漫画でわかりやすく
源平武将伝 木曾義仲 (コミック版 日本の歴史)
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「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)