敵と味方が目まぐるしく入れ替わり、戦いを強いられる戦国時代。武将たちは、その時々で決断を迫られ、ストレスフルな人生だったことでしょう。しかし、その時代を生きた女性たちも、戦に翻弄され、流れに身をまかせて生きるしか方法がありませんでした。
2023年度の大河ドラマ『どうする家康』は、主演の松本潤の、悩んだり、迷ったり、時には失敗する弱い面も見せる家康像が新鮮です。共演する豪華なキャストも話題になっていますが、物語の後半に登場する家康の側室・於愛の方(おあいのかた)に広瀬アリスが扮すると発表されました。家康を癒し、周囲からも愛されたという於愛の方とは、どんな人物だったのでしょう。その人生を追ってみたいと思います。
於愛の方(おあいのかた)を襲った不幸
於愛の方は、遠江西郷村(とおとうみさいごうむら・現静岡県掛川市上西郷)で生まれました。母は五本松城主であった西郷正勝の娘で、於愛の方は孫にあたります。美しい姫に成長すると、母方のいとこ・西郷義勝の後妻として嫁ぎ、一男一女を産み、平穏な暮らしをしていました。しかし、義勝を武田氏との戦いで失ってしまいます。
徳川家康との出会い
若くして夫に先立たれてしまった於愛の方でしたが、その後、思いもかけない出会いが訪れます。家康が浜松城へと帰る途中に西郷氏宅で休息した際、於愛の方の美貌に釘付けとなったのです。(※於愛の方が岡崎勤務をしていた時に見初めたなど諸説あり)
この時期の家康は、妻の瀬名や、息子信康とうまくいってなくて、別居状態でした。また長篠の戦いの後も武田勝頼※との戦いは続き、気が休まる時がありませんでした。そのため、美しく温和な於愛の方に惹かれたのかもしれません。天正6年(1578)、於愛の方は幼子を連れて、家康の側室として浜松城で暮らすことになります。
▼家康と於愛の方が暮らした浜松城については、こちらの記事をどうそ。
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周囲の人々を和ます人柄
家康に深く愛された於愛の方は、迎えられて1年後に長丸を産み、さらに翌年には福松丸を産みました。また家康だけでなく、城内の家臣や侍女たちからも親しまれたそうです。
ユーモラスな性格だったようで、家康が於愛の方をからかって、あだ名で呼んでも、笑って対応していたとか。また近眼だったことから視覚障害を持つ女性を保護して、衣服や飲食を恵むなど慈愛に満ちていました。
苦難の家康を支えるも若くして死去
於愛の方は、家康の浜松城主としての辛く厳しい時期を共に過ごし、支えました。その後天正14(1586)年、家康は浜松城から駿府城に移り、名実ともに駿河(するが 静岡県中部)・遠江・三河(みかわ 愛知県東部)をさす海道一の実力者となります。「海道一の弓取り」と呼ばれた武将は、今川義元と徳川家康のみ。しかし、移った当初は、気の抜けない状態だったことでしょう。そのためか、於愛の方は心労で倒れてしまいます。そして駿府城に入城して、わずか3年後、38歳の若さで亡くなります。
家康の正妻・瀬名は、天正7(1579)年に、罪が不確定な状態で家康の家臣に斬られて亡くなっています。そのため一説には、於愛の方は瀬名の侍女によって毒殺や暗殺されたとも言われますが、定かではありません。
▼瀬名についての記事は、こちらからどうぞ。
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於愛の方が産んだ長丸が2代将軍に
家康と於愛の方の間に最初に生まれた長丸は、後に2代将軍徳川秀忠となります。秀忠の妻は、浅井長政とお市の方の三女「江(ごう)」です。大河ドラマでも『江~姫たちの戦国~』が放送されたので、記憶に残っている人も多いでしょう。秀忠は家康が亡くなった後、江戸幕府体制の基礎を作る政策を打ち出して、まとめていきました。妻の江との間には2男5女の7人の子どもが誕生し、円満に暮らしたようです。於愛の方が長生きをしていたら、きっと息子夫婦と共に、穏やかな晩年を過ごしていたことでしょう。残念でなりません。
関連人物
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参考書籍
『徳川家康』仁木謙一著 (ちくま新書)
『徳川家康のすべて』北島正元著(新人物往来社)
アイキャッチ画像:メトロポリタン美術館より