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2024.04.15

源明子と道長は平安のロミオとジュリエット!敵の子と結婚した女性の生涯

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源明子(みなもとのめいし/あきこ)は藤原道長の二人目の妻。高松殿(たかまつどの)という通称でも呼ばれます。2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、影のある妻役を瀧内公美さんが演じています。

道長と明子には、親同士の因縁がありました。明子にとって道長は敵(かたき)の息子だったのです。

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父の失脚で、つらい少女時代を送った源明子

源(みなもと)という姓は、天皇の皇子などが臣籍に降下する際に授けられるもの。明子の父・源高明(たかあきら)は醍醐天皇の皇子のひとりで、臣籍降下後に昇進し、冷泉天皇の御代では左大臣をつとめた重臣でした。しかし安和2(969)年、冷泉天皇の皇太子をめぐる謀略事件(安和の変)により、失脚。当時5歳の明子はその後、叔父にあたる盛明(もりあきら)親王の養女となり皇籍に入ったので、明子女王(じょおう、皇族女性の称号のひとつ)とも呼ばれます。

「涙を流さずにいられない」と世を騒がせた事件

道長の父・藤原兼家(かねいえ)の二人目の妻だった道綱母は、『蜻蛉(かげろう)日記』に「大宰府に配流される左大臣殿と、そのご家族のことを思うと、涙を流さずにはいられない」と書いています。

「左大臣殿が大宰府に流されるお姿を一目見ようと、世の中は大騒ぎをしています。(中略)大勢いらっしゃったお子さまたちも、遠くの国々の下役となって離散し、行方知れずとのこと。または御出家なさるなど、言葉にすることができないほどの痛ましさです……」
『蜻蛉日記』より

安和の変は明子の父を貶めただけでなく、その家族までバラバラにしました。

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左大臣・源高明が皇太子の退位を企てた?

安和2(969)年、冷泉天皇の皇太子だった守平(もりひら)親王(のちの円融天皇)を退位させて、為平(ためひら)親王を次の天皇にしようとする動きがあるとして、複数名の貴族が逮捕・流罪となりました。この事件に関わりが深いとして、ときの左大臣・源高明が更迭され、大宰府に左遷となります。これが安和の変のあらましです。

ところが歴史物語の『大鏡』には、「もともと皇太子には、為平親王がなるはずだった」と書いてあります。

「后が生んだご兄弟のなかでは、式部卿の宮(為平親王)こそが、冷泉天皇の御次に、東宮(皇太子)に立たれるべきだったのに、西宮殿(源高明の家)の婿でいらっしゃったがために、弟君の守平親王に飛び越されてしまわれた」
『大鏡』より

冷泉天皇、為平親王、守平親王の3人は、村上天皇の中宮(ちゅうぐう、后のこと)だった安子(あんし/やすこ)を母とする兄弟です。安子の父は右大臣・藤原師輔(もろすけ)、天皇の外戚としての藤原氏の地位を築きました。
源高明は藤原師輔からの信頼厚く、安子の妹と結婚。高明の娘は、為平親王と結婚していました。

安和の変は、藤原氏による陰謀だった

康保4(967)年に数え年18歳の冷泉天皇が即位したとき、皇太子に選ばれたのは16歳の為平親王ではなく、まだ9歳の守平親王でした。誰もが驚くようなこの人事を無理やりに通したのは、関白・藤原実頼(さねより)。師輔の兄です。

冷泉天皇は病をかかえていて、在位は長くないと思われました。もしも為平親王が次の天皇になれば、源高明が関白となり、政治の実権が藤原氏から源氏へと移るかもしれません。

安和の変は源高明を排斥するために、関白・実頼と、師輔の息子の伊尹 (これただ)、兼家の兄弟ら、藤原氏が企てた陰謀だったのです。大宰府に左遷された源高明は、2年後に帰京しましたが、その後、政治の世界に戻ることはありませんでした。

源明子はなぜ、敵の息子と結婚したのか

恋に落ちてはいけない相手に惹かれてしまうことを、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』にかけて「ロミジュリ効果」というのだとか。明子と道長もそんな関係だったのでしょうか。

仲人は道長の姉・詮子だった

明子は、親代わりだった盛明親王を寛和2(986)年に亡くしました。そのときに22歳の明子を側に呼び、庇護したのが一条天皇の母・詮子(せんし/あきこ)だったのです。詮子といえば同腹の弟である道長をかわいがって、一条天皇の寝室にまで押しかけて、出世を後押ししたというエピソードが残ります。

歴史物語の『栄華物語』には、「后宮(きさいのみや、詮子)がお迎えして、宮の御方(おんかた)と呼んでもてなしていらっしゃる姫君(明子)に、多くの殿方が求婚をした」と書かれています。そのなかには道長と詮子の長兄で、プレイボーイと評判の道隆(みちたか)もいましたが、詮子は兄が明子に手を出すことを許しませんでした。

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ところが道長は明子の女房を味方につけて、いつのまにか恋仲になってしまったそうです。詮子は「普段は女性に気軽に話しかけたりしない道長が求婚したのだから」と結婚を認めたのだとか。

道長にとって明子は二人目の妻

道長はこのとき、すでに左大臣家の姫・源倫子(りんし/あきこ)と結婚していたとみられます。先に明子と結婚していたという説もありますが、嫡妻(ちゃくさい、正式な妻または一人目の妻のこと)となったのは倫子でした。明子は二人目の妻という立場で、結婚後は父高明から伝領した高松殿で暮らしたため、「高松殿」とも呼ばれます。道長との間には6人の子どもが生まれており、夫婦関係は末長く、良好に続いたのではないでしょうか。

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道長は明子との子どもに愛情をかけなかった?

一方で、道長は嫡妻の倫子が生んだ子どもたちと、明子が生んだ子どもたちとを、明確に区別していたともいわれます。

重用されたのは嫡妻の子どもたち

確かに一条天皇の中宮となった彰子(しょうし/あきこ)も、関白となった頼通(よりみち)も、嫡妻・倫子との間に生まれた子どもです。明子の生んだ子どもたちも捨て置かれたというわけではなく、長男の頼宗(よりむね)は右大臣にまでのぼるなど、まずまずの出世をしてはいますが……。

子どもたちが幼いころの、こんなエピソードが残っています。

天皇に褒められたのに、不機嫌に?

長保3(1001)年、詮子の40歳を祝う会が催され、10歳の頼通と9歳の頼宗が舞を披露しました。そのリハーサルで頼通が一条天皇から褒美として御衣(ぎょい、お召し物のこと)を賜ると、道長は「天地長久(天地がずっとあるように、一条天皇の御代が続きますように)」と大仰(おおぎょう)に喜んだそう。

2日後の本番では頼宗の舞がすばらしく、見ている人々が涙するほどでした。一条天皇も感嘆して、頼宗の舞の師匠に褒美として位を授けたそうです。ところが道長はこの出来事を喜ばず、不機嫌な様子で席を立ってしまいました。

公卿の藤原実資(さねすけ)は、「人々は道長の態度を怪しみ、中宮の弟で嫡妻の長男である頼通に比べると、次妻が生んだ頼宗に対する愛情は浅いのだろうと言っていた」と日記『小右記』に書いています。

『舞楽之図』出典:国立国会図書館デジタルコレクション

身内であっても競い合う!血で血を洗う政権固め

道長の態度は愛情の差によるものだったのでしょうか?

もしかしたら道長は、音楽や芸術を好んだ一条天皇と、まだ幼い中宮・彰子との間を、舞いが得意な弟の頼通という存在でもって、結び付けたかったのかもしれません。ちょうど一条天皇が漢文好きという共通の趣味で、皇后・定子(ていし/さだこ)やその兄の伊周(これちか)と親しくなったように。

長徳元(995)年に道隆、道兼(みちかね)と関白が相次いで亡くなったとき、道隆の長男である伊周が摂関家の後継者候補になりました。しかし詮子は伊周の母方の親族・高階(たかしな)家が勢力を伸ばすことを警戒し、弟の道長を後継者に推したという説があります。藤原氏は他の氏族を警戒するだけでなく、同族同士でも目を光らせ合い、競い合いながら権力をつないできたのです。

明子の親族には、安和の変からずっと道長の一族を怨む者がいたとしてもおかしくありませんが、だからといって明子との間に生まれた子どもへの、道長の愛情が薄れるとも限りません。
むしろ愛情云々にとらわれず、嫡妻の子どもたちを一番に登用するというのが、政権固めに必要な手段だったのではないでしょうか。

ときには血という絆で手を結び、ときには血で血を洗いながら、藤原氏は栄華を築いていったのですから。

アイキャッチ:『源氏五十四帖 廿五 蛍 (源氏五十四帖)』著者:尾形月耕 出典:国立国会図書館デジタルコレクションより、一部をトリミング

参考書籍:
『日本の古典を読む11 大鏡 栄花物語』(小学館)
『日本の歴史 第4巻 揺れ動く貴族社会』(小学館)
『日本古典文学全集 蜻蛉日記』(小学館)
『現代語訳 小右記3』編者:倉本一宏(吉川弘文館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)
『土佐日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記』(岩波書店)
『日本古典文学大系 榮花物語 上』(岩波書店)
『藤原道長を創った女たち』編著:服藤早苗・高松百香(明石書店)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。