「流行している物見遊山や宴会なども好まない性格」
これは、結城政勝(ゆうきまさかつ)の本人評だ。自分自身の性格をこう客観的に分析している。
で、「結城政勝」って一体どこの誰よ?とツッコみたくなる。その疑問は至極真っ当だ。なぜなら、戦国大名とはいえ、南北15キロ、東西10キロ程度の土地を領有するだけで、動員兵数も2,000人程度。派手な戦で名を上げたわけでもなく、取り立ててここで紹介する戦績もない。戦国時代に下野国結城郡城方(現在の結城市北部、栃木県小山市北東部)の小大名で結城家16代当主というだけなのだ。
だったら、どうして今回、結城政勝を取り上げたのか。まずはそこからご説明しよう。
結城氏新法度の威力
残念ながら、「結城政勝」よりも有名なパワーワードがある。それが『結城氏新法度(ゆうきうじしんはっと)』だ。結城政勝が心血注いで作った分国法の名前である。
一度は歴史の教科書で見たことのある「分国法」。分国法とは、戦国時代に各大名が作った自身の治める国で適用できる法律である。『結城氏新法度』も分国法の一つとして取り上げられることが多い。ただ、分国法の名前は知られていても、作った人物はあまり知られていない。
なお、結城政勝は分国法を制定してからわずか3年で死去。その『結城氏新法度』も子孫に参照されることなく、早々と消失している。ただ唯一松平家に残された写本も、太平洋戦争で焼失し、現在には伝わっていない。
結城政勝の生涯をダイジェストで
さて、結城政勝が制定した『結城氏新法度』は、大きな合戦のあとに作られている。これは、結城政勝が最後の勝負に出て、小田氏治(おだうじはる)の小田城を攻め一時は勢力を拡大したが、すぐに奪還されてしまう、なんとも悲哀に満ちた出来事の後だ。
そもそも、結城政勝とは結城家の16代当主である(1503~1559年)。時期としては毛利元就や織田信長の父などと同世代だ。結城家は元をたどれば、平安時代から勢力があった小山氏の分家。鎌倉時代には有力な御家人として活躍するまでに至ったが、11代当主氏朝(うじとも)のときに、鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)の遺児を受け入れて、室町幕府と戦った「結城合戦」により衰える。その後、14代以降で勢力を回復させ、政勝の父である15代当主政朝(まさとも)は、「中興の祖」(一時期衰退していたものを再び興して盛んにさせた人の意味)といわれるほど。
その跡を継いだとされるのが、この政勝である。ただ、記録には25歳で家督を継いだと残っているようだが、しばらくは当主としての活動の記録がない。近年の研究では、本来、兄とみられる政直(まさなお)がいて、途中で家督を奪取したとみられている。
一方で、政勝の弟である高朝(たかとも)とは良い関係を結んでいたようだ。高朝は小山氏の養子となり、政勝と同盟関係を結んでいる。ただ、戦国時代の真っただ中であり、近隣の宇都宮氏、佐竹氏、小田氏らと時には対峙し、基盤は盤石ではなかった。
息子を失った辛さから有髪で出家?
そんな結城政勝にとって、戦に負けるよりも一番辛かったのは、一人息子の死だろう。明朝(あきとも)という息子は1548年に天然痘により死去。その衝撃で、有髪で出家し、半僧半俗という独特のライフスタイルを貫く。仏像を彫り、絵画などに専心したといわれ、現在も結城政勝の念持仏(ねんじぶつ)などが、結城市の寺で所蔵されているという。
また、出家以後、生涯、女人を一切近づけなかったという話もある。そもそも、冒頭で紹介した通り、本人が、宴会なども好まない性格だと『結城氏新法度』の中で述べている。
実際に、『結城氏新法度』の中には、「もし明日にでも私をどこかの宴席へ呼び、ご馳走してくれたとしても、ここで取り決めた以上に一菜でも多く出されることがあったならば、神もご覧あれ、私はその座を立ち去るであろう(62条)」(『戦国大名と分国法』清水克行著より一部抜粋)とされている。度を越えた宴会を禁止する条文を盛り込んでいることからも、結城政勝の性格がわかる。
その後、弟の高朝の子である晴朝(はるとも)を養子として迎えているが、一人息子の死から立ち直ることはできなかったのであろう。戦国時代では戦が当たり前。一人息子が戦死することも日常茶飯事だ。そのような時代に出家した政勝は、繊細な心の持ち主だったのかもしれない。
ただ、晩年は最後の勝負に出ることもあった。勢力を拡大していた北条氏康(ほうじょううじやす)氏の援助を受け、南の小田氏治の小田城を攻め落としている。政勝54歳のときである。しかし、4ヶ月後には小田城を奪還され、最後の勝負も失敗というところか。その直後に『結城氏新法度』を制定するのである。その3年後、57歳で政勝は死去。『結城氏新法度』にも不養生が続くなど、自身の体調の悪さが記されており、心残りとならぬよう、最後の力を振り絞って制定したともいえる。
なお、政勝の死後の結城家だが、養子の晴朝は豊臣秀吉に服従し、結城家の家督を秀吉の養子で徳川家康の次男である秀康(ひでやす)に譲渡。これで生き残りをかけたわけである。その結城秀康は、関ケ原の戦いの功績を認められ、越前国(現在の福井県)へ転封。代々守り続けてきた結城の土地を離れることになる。結果的に、人も土地も、結城家とは全く別のものとなるという顛末だ。政勝がこれを見なくてよかったと思うのは私だけだろうか。
さて、地元では、木造結城政勝像が市の指定文化財となっているという。
結城市大字結城(観音町)にある御影堂では結城政勝が祀られている。なんでも、政勝の仁徳を慕った町民たちで、政勝の遺髪を植えた木像を安置したのだとか。火災にあって消失しているが、明治時代には御影堂と木像が再建。政勝の偉徳を偲ぶ人たちによるものだそうだ。
一人の人間の一生を残された記録から推測するのは難しい。ましてや、一方的に記されている場合や、後世で歪曲されて伝わることも少なくない。ただ、人の行動は変えられない。家臣に苦労しながらも、できる限りその意見を取り入れようとした。豪勢な食事を禁止して自身もそれに束縛された。そんな政勝の人柄を慕って、町人が政勝像を安置した行動こそが、政勝の人生を物語っているのではないだろうか。
参考文献
『戦国大名と分国法』 清水克行 岩波書店 2018年7月
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸 成美堂出版 2017年
『戦国武将の明暗』 本郷和人 新潮社 2015年3月