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ひと言でいえば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である(国分功一郎『暇と退屈の論理学』)
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ひと言でいえば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である(国分功一郎『暇と退屈の論理学』)

読み物
Culture
2022.01.13

大河の予習に『慈光寺本承久記』を読んでみたら、親子愛にマジで涙が止まらなくなった

この記事を書いた人

なんだかコアな人気を博しているらしい当コーナー。ついに軍記物の華、戦闘シーンに入りましたよ!!

▼「『慈光寺本承久記』を読んでみた」シリーズの過去作はこちら!

前回までのあらすじ

オッス、オラ伊賀光季(いが みつすえ)! 執権の北条義時(ほうじょう よしとき)殿と妹が結婚しているから、義時殿から見ればいわゆる義理の兄。けれど立場的には、義時殿の家人でもある。京都にいる鎌倉御家人たちの監視役として、3年前から京都に住んでんだ!

だけど、最近なんだか都の様子がおかしい。やたら武装した武士を見かけんだ。雰囲気があんま良くなくて、なんだか夢見も悪い。

そんなある日、親戚である佐々木広綱(ささき ひろつな)殿から酒宴に誘われて、昼間っから飲んで気分がえれぇ良くなってきた! さらに家に帰って夜通しどんちゃん騒ぎしてたら、翌朝……。なんと後鳥羽上皇がオラを討ち取ろうと、兵を差し向けて来たぞ! オラ、えれぇ驚ぇた!

覚悟決めて、門を開けたら……。最初に飛び出してきたのは、親友の三浦胤義(みうら たねよし)だったんだ! オラ、わっくわくしねえぞ!

ていねいな前振りありがとうございます!

伊賀光季と三浦胤義の友情

というわけで、いの一番に攻めて来たのは親友の三浦胤義でした。これに驚いたのか、伊賀光季は扇を振りながら庭先まで降りて来ました。

「ええっ、胤義までいるの!? オレは最近、都に来たばかりで、悪さした覚えもないんだけど。後鳥羽院に仕える罪もない者を誅するなんて、何事だよ!」

しかし三浦胤義は毅然と言い返しました。

「光季殿。あなたとは幼い頃より一緒に過ごしてきた。その事を忘れたわけではないが、時勢に従って院の命令を被(こうむ)り、討ち手に回ったのだ」

そして伊賀光季も言い返します。

「ふん、その計画、私は知ってたぞ! お前と藤原秀康(ふじわら ひでやす)殿で、この日本を心のままに支配しようと、北条義時殿を討つつもりなんだろう? その門出にこの光季を討とうというわけだ!」

このセリフ、私はなんだか光季の強がりに聞こえるんですよね。計画を知っていたというのは本当でしょうか? たしかに、前々回で伊賀光季は親戚の佐々木広綱から遠回しに計画を伝えられてはいますが、あれで伝わったのかは微妙な所です。

第一、三浦胤義が北条義時を討とうとしているのは、「日本を支配すること」が目的だったからでしょうか? そもそも、本当に計画を知っていたのなら、昨日の夜は夜通しの宴会の他にやる事もあったハズ……。

「『武器を取る者、今日は人の身の上。明日は我が身の上』と、よく言うだろう。これを鎌倉が知ったならば、北条義時殿が大軍で攻めてくるぞ! お前が首を斬られる時は『なぜこんな事をしたのだろう』と後悔することになるぞ、胤義!」

この友の叫びを、三浦胤義は黙って聞いてました。その心中は想像するだけで辛いですね。しかしそこへ、胤義のすぐ後ろにいた草田という武士が声をかけました。

「三浦殿、何をしてるんですか? 敵に時間を取らせてはいけませんよ!」

そこでハッと気づいた三浦胤義は、慌てて弓を放ちました。矢は伊賀光季の左の袖を貫いて、後方の大黒柱に半分ほど刺さりました。

……大黒柱って家の中央にある、一番頑丈な柱です。庭からそこまでどのくらいの距離かは分かりませんが、矢が半分も刺さるという事は相当の威力だとわかります。当たったらひとたまりもありませんね!

しかし伊賀光季は、矢を外した三浦胤義を煽ります。

「都の中で一番の武芸者はお前か間野宗景(まの むねかげ)かと思っていたが、まさかお前が一の矢を外すとは……。死ぬとしたらお前の矢だと思っていたのに、武神の加護はどうやらオレにあるらしい。お前の加護は尽きたようだな! この伊賀光季の手並み、ご覧じろ!!」

伊賀光季の矢は、三浦胤義の弓に当たり、後ろにいた草田の首を射抜きました。

胤義はこれを見て「後鳥羽上皇の戦の門出に、大将の三浦胤義が一番にやられたと言われたら、公私ともに恥をかく」と思い、誹謗される前にと門の外に出ました。

結局、2人とも矢を外しちゃって、三浦胤義はスゴスゴと撤退していく、というシーンですが……。2人とも、弓は得意なはずなんです。だからこれ絶対「外した」んじゃなくて「当てられなかった」んですよね。親友ですから!! こう、弓を引いた瞬間これまでの思い出とかブワァアアって走馬灯のように駆け巡ったはずですよ!

なんか少年漫画みたいで、おらワクワクしてきたぞ!

寿王と佐々木広綱の義父子対決

次に現れたのは、佐々木広綱。佐々木広綱は伊賀光季の息子・寿王(じゅおう)の烏帽子親(えぼしおや=後見人)です。そして寿王と佐々木広綱の娘は結婚していました。

そしてつい昨日は、元気のない伊賀光季のためにと酒宴を開き、遠回しながらも事態を知らせようとしていた人物です。

「昨日まではお互いに親戚付き合いをしていたが、時勢に従ってお前を攻める!」

伊賀光季は、これにもものすごくショックを受けたみたいです。

「あんたじゃ、この光季の相手にならないよ。そこをどけ。オレは戦いを見てるから、寿王と戦いたいのなら、そうすればいい」

と、屋敷の中へ引っ込んでしまいました。仲の良い友人が2連続で自分を討ち取りに来るなんて、ちょっと立ち直れないかもしれない……。

そんな再起不能なショックを受けてやる気を失った父の代わりに、寿王が前に出ました。

「これはこれは、佐々木広綱殿。この私がわかりますか? 伊賀光季が次郎、判官次郎光綱とは私の事だ。元服の時に頂いた矢をお返しします!」

この名乗りも、グッとくるんですよね。実は寿王(じゅおう)というのは幼名で、元服すると光綱(みつつな)と名乗っているはずなんですが、元服したばかりだからか、周りの人のセリフでも、地の文でも「寿王」と呼ばれているんですよ。

でも後見人である佐々木広綱と対峙する時に、あえて「寿王」という名乗りを使わない、「僕はもう一人前の武士なんだぞ!」という、この心意気!! くぅ~!!

そんな寿王くんの放った矢は舅である佐々木広綱の鎧の袖に、半分以上も突き刺さっていました。

鎧の袖とはこの部分の板のこと(東京国立博物館所蔵『模造 赤糸威鎧』「ColBase」をもとに作成 )

佐々木広綱は門の外へと帰り、「皆、見て! 我が婿の伊賀光綱の弓の力強さを! まだ14歳だよ!」と言って、鎧にささった矢を抜かずに折って、そのままにしておきました。

親バカならぬ、舅バカですね。敵になったのにこんなに褒めちぎるなんて、普段からめちゃくちゃ可愛がっていたであろうことが伺えます。

「僕の婿ちゃんすごいでしょ!?」

妖怪・首おいてけ、承久の乱に登場!

このやりとりを冷めた目で見ていた武士がいました。名前を「間野宗景(まの むねかげ)」といい、無名ですが実力はあり、名を上げるチャンスを虎視眈々とねらっていました。

「武士が世を儚むようなことをしてどうする」

そう吐き捨てて、門の脇に立って中の様子を伺いました。その気配に伊賀光季が気づきます。

「そこにいるのは誰だ!? 間野宗景とお見受けするが、そうならば日頃の評判に似合わずコソコソとしているものだ。もっと近くまで来い!」

それを聞いた間野宗景は大喜びしました。

「他にも名高い者はいるだろうに、このオレを知っていてくれるとは!」

そして、ひょいと塀を飛び越えて、刀を抜いて伊賀光季に迫りました。

伊賀光季は間野宗景に弓の弦を斬られ、客間へと退却しました。追おうとする間野宗景を遮るように、治部光高(じぶの みつたか)が立ちはだかりましたが、左脇腹を斬られて、縁側の下に落ちました。続いて贄田(にえだ)父子3騎が前に出て戦いましたが、これもあっという間に討たれてしまいました。

さらに伊加羅武者(いからむしゃ)という人も、内股を斬られて庭に転げ落ちました。間野宗景は彼を見て「彼は恥を知る者ぞ!」と呟きます。恥を知る者……教養があって身分が高い者。つまり……「価値がある首」ということです。

無名だった間野宗景は常に名を上げるチャンスを求めていました。伊加羅武者の首を取れるのはまたとないチャンスです。その首を斬り落とそうと下を向いた瞬間、間野宗景の眉間から顎にかけて矢が貫きました。弓の弦を張り変えて、客間から放った伊賀光季の矢です。間野宗景は激しく痙攣して、すぐに息絶えました。

まるでその場で見ていたかのような、ものすごく臨場感があり生々しい描写ですね。このシーン、ぜひアニメや実写で見てみたい……。

文章で読んでいても臨場感がすごいぞ!

伊賀光季の自害

さて、激しい戦闘で両陣とも多数の死傷者を出しました。伊賀光季も痛手を負い、ここが限界だと覚悟を決めました。客間へと入り、屋敷に火をかけます。そして、息子の寿王を呼び寄せて「自害しよう」と言いました。

寿王は火の中に飛び込みましたが、すぐに戻って来てしまいます。それを3回ほど繰り返した所で、光季は寿王を呼び寄せました。

「寿王よ、自害できないのならこちらへおいで。遺言をあげよう」

そして子供の頃のように、膝の上に腰掛けさせて、思い出話をします。

「去年の12月に、順徳(じゅんとく)上皇の石清水八幡宮ご参拝の時に、淀の大渡の橋を2人で固めていたね。その時、後鳥羽院がお前を見て、『賢い目つきの若者だ』とおっしゃってくださったのを、嬉しく覚えているよ。来たる秋には、お前の任官を希望しようとしていたが、命がここで尽きることが残念だ」

それを聞き、寿王は言いました。

「自害をするより、父上の手にかけられたいです」

すると伊賀光季は笑いかけました。

「なんだ。命が惜しくなって、鎌倉に逃げようと言うのかと思ったわ」

私、この時伊賀光季は寿王にそう言って欲しかったのかなと思うんですよね。

伊賀光季は刀を抜いて構えます。寿王はぎゅっと目をつぶっていました。そして寿王の目からつうっと涙が流れるのを見て、一瞬躊躇します。しかし敵がすぐそこまで来ているのを見て意を決します。刃を寿王に3回突き刺して、炎の中に投げ入れました。

そして伊賀光季は政所太郎と互いに刺し合い、寿王の上に重なるように倒れ、燃えていくのでした。

後鳥羽院の衝撃のひと言

さて、伊賀光季との戦いの顛末を後鳥羽上皇に報告したのは、上皇側近の武士たちのリーダー・藤原秀康(ふじわらの ひでやす)です。

言葉にできないほどの激しい戦の末、伊賀光季が自害したことを告げると、後鳥羽上皇はこう言いました。

「残念だなぁ。伊賀光季を生かしておいて、こちらに取り込んで、義時追討の大将にしたかったなぁ」

ご、ご、後鳥羽ぁあああああ!! まさに治天の君!!

そしてその後、後鳥羽上皇は、親幕府派筆頭の大臣、西園寺公経(さいおんじ きんつね)とその息子実氏を捕らえ、監禁しました。その事を慈光寺本作者はこう綴っています。

まるで朝に恩賜をたまわり、夕に殺された唐人のようだ

これは日本でも有名な中国の詩人、白居易(はくきょい/白楽天とも)の漢詩『太行路(たいこうろ)』からとられた一文です。同じ詩は平治(へいじ)の乱を描いた軍記物『平治物語』にも引用されています。

君不见、左纳言,右纳史,朝承恩,暮赐死。

君は見ず、左納言(さどうげん)右内史(うないし)、朝に恩を承り、暮れに死を賜る。

王は左大臣も右大臣も見ていない。朝に褒美を授けたのに、夕方に死刑にしてしまった。

これは「王が絶対的な権力者である社会では、大臣の地位はほとんど保証されない」という批判の詩で、慈光寺本作者は、後鳥羽上皇の治世を激しく批判しています。

とうとう戻れない所まで来てしまいました。一体日本はどうなってしまうのでしょうか……。というわけで次回に続きます。

ヒェ~~安定とは程遠い世界だ!!

アイキャッチ画像:貫雄模『西金/白居易像』東京国立博物館所蔵 「ColBase」をもとに作成

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。