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2022.06.12

終わりではなく始まりだ!『吾妻鏡』で読む石橋山合戦【鎌倉殿の13人】

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令和4(2022)年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、原作である吾妻鏡を読んでみようコーナー! 

▼今までの流れはこちら!

前回はドラマの5話にあたる山木館襲撃を読んだが……これで終わりではなく始まりなんだ。

なん……だと……!?

襲撃の2日後、治承4年8月19日。

戦後処理も戦のうち!

山木兼隆(やまき かねたか)の親戚、中原知親(なかはら ともちか)は、伊豆国の蒲谷御厨(かばやのみくりや=現・静岡県下田市内)にいた。日ごろから非合法な行いばかりして地元民を悩ませていたので、それを止めろと頼朝様が命令した。

これが、坂東における頼朝様の施政の始まりである。

(中略)

またこの頃、土肥の辺りから北条へやってくる武士たちは、走湯山(そうとうさん=静岡県熱海市)を通っていた。そのため狼藉を働く者が多いと湯走山の僧たちから訴えがあった。

そこで頼朝様は本日、直筆の書面を送って宥めた。それはこのような趣旨のことだ。

「世が安定したならば、伊豆国と相模国の一カ所づつ、荘園を走湯山に寄進し、坂東において走湯山の権現の御威光を輝かせることにする」

これにより僧たちはみんな、怒りを鎮めたのだった。

戦は勝ち負けが決したら終わり! ……ではない! 勝った方は責任をもって戦後処理を行わなくてはならない。それがこの記事だな。

ふむう、勝った者の責任、か。

ここもドラマでもちょっとだけ描かれていたな。「顔が長いだけでは領地を没収できぬ」って。

北条政子、避難する

夜になって北条政子は走湯山の僧・覚淵(かくえん)の宿坊に移動した。邦通(くにみち)と昌長(まさなが)がお供する。

世情が落ち着くまでの間、ここに潜伏するようにと、頼朝様が命じられたとのこと。

ここもドラマでしっかり描かれていたな。大きな戦になる時、オナゴや子どもたちは避難する。見送る方も残す方も不安だった。

戦闘員と非戦闘員を区別する。無差別ではないのだな。

やっと登場!大河ドラマの主人公

非戦闘員の避難が完了して、いよいよ戦!! のはずなんだけど……。三浦一族が遅れている。この時台風が近づいていて海が大荒れでな……。本来なら相模湾を横切って船で行くはずだったんだけど、なかなか出発できなかったんだ。

大しけでは、戦場に着くまでに海のもくずになってしまうからな!

そこで頼朝様はまず、周辺の御家人たちを率いて伊豆国を脱出し、土肥実平(どい さねひら)殿の領地に向かう事にした。その時付き従った武士の名前が8月20日にズラズラっと出てくる。ドラマ登場した人物やその縁者を中心にピックアップするぞ。

北条時政(ほうじょう ときまさ) 北条宗時(ほうじょう むねとき) 北条義時(ほうじょう よしとき) 安達盛長(あだち もりなが) 工藤茂光(くどう もちみつ) 土肥実平(どい さねひら) 土肥遠平(どい とおひら) 土屋宗遠(つちや むねとお) 土屋義清(つちや よしきよ) 岡崎義実(おかざき よしざね) 佐奈田義忠(さなだ よしただ) 佐々木4兄弟 天野遠景(あまの とおかげ) 天野政景(あまの まさかげ) 大庭景義(おおば かげよし=大庭景親の兄) 仁田忠常(にった ただつね) 加藤光員(かとう みつかず) 加藤景廉(かとう かげかど)

などなど、46人の武士の名前が挙げられている。そして北条宗時殿と義時は、実はここが初出なのだ!!

祝! 宗時&義時デビュー!

VS大庭景親!

三浦一族は22日に、少数精鋭で伊豆へと陸路で向かった。そして23日。頼朝様は運命の石橋山に陣取ったのだ! ちょっと長いから人物名などを端折りつつ紹介。

治承4(1180)年8月23日。曇。夜になってから激しい雨。 夜が明ける前、頼朝様たちは300騎を率いて相摸国の石橋山に陣を取る。

ここに相模国の住人・大庭景親など、平家被官の者が3000騎余りが集まった。

両陣は谷を一つ隔てて対峙している。また、伊東祐親(いとう すけちか)は300騎あまりを率いて、頼朝様の陣の背後の山にいて、襲おうとしていた。

一方、三浦一族は夜になったので酒匂川あたりに泊まることとし、景親の家人の家屋を焼失させた。その煙を見た大庭景親は三浦一族の仕業だと知り、「本日合戦を行うべきだ。明日になれば三浦が頼朝方に加わってしまう。そうなればおそらく破れないだろう」と、仲間と話し合った。

そうして数千の強兵が頼朝様の陣へ襲い掛かった。頼朝様に従う兵はそれと比べ物にならないほど少なかったが、みんな昔からのよしみを重んじて死を厭わなかった。そのため、佐奈田義忠たちは命を落とす。

大庭景親は勝利し、夜が明けた。頼朝様は杉山に逃げる。頼朝様の心は疾風に悩み、暴雨に苦労した。

石橋山も酒匂川も、現在の神奈川県小田原市。小田原駅からはざっくりと、石橋山は熱海方面、酒匂川は反対の湘南方面だぞ!(地元出身者より)

大河ドラマでは、作法通り言葉合戦の後矢を放って戦が始まったが、『吾妻鏡』ではいきなり夜襲を受けたようにも読めるな。ちなみに戦の後に逃げ込んだ「杉山」。現在のどこかは正確にはわからない。

佐奈田義忠の奮戦やその後の頼朝様の足取りは、過去記事にもあるので、そちらも参照してもらって、こちらでは簡単にその後の経緯を。

石橋山のその後

翌24日、頼朝様が隠れていた杉山に、また大庭景親が攻めて来たので、更に後ろの山まで逃げた。その時にまた多くの家人が留まって頼朝様が逃げる時間稼ぎをしたんだ。

その時、北条父子(時政・義時・宗時殿)は戦で疲労困憊していたので山に登れず、頼朝様とは一緒ではなかったらしい。その後の北条父子の動向は、宗時殿の記事で紹介した通り。

頼朝様は土肥実平殿と一緒に、山の上でみんなが来るのを待っていた。そして家人たちがやってきたのをとても喜んだが、土肥殿の提案でバラバラに逃げる事となった。

そして頼朝様は洞穴の中に隠れていたところを梶原殿の機転で助かり、船で伊豆を脱出する事となった。

大河ドラマではこの名場面で「パワハラコント」が繰り広げられたとかそうではないとか。

その頃三浦は、酒匂川で夜を明かしたが、石橋山からやって来た縁者に頼朝様の敗北を知らされて急いで戻った。その途中畠山重忠(はたけやま しげただ)と戦う事になるのだが……これもオレの祖父様の記事に詳細は委ねる。

ちなみにこのVS畠山重忠の戦には、上総広常(かずさ ひろつね)殿の弟の金田頼次(かねだ よりつぐ)殿が三浦方で参戦している。実は金田殿の妻は父上(三浦義澄)の姉妹で、金田殿も三浦に住んでいるのだ!

そして28日、真鶴岬から船に乗った頼朝様は安房へ向かう。土肥実平殿の息子・遠平殿が使者となって尼御台へ頼朝様の無事を知らせに行ったそうだ。そして翌29日に頼朝様は安房に到着。先にいた北条時政たちがお出迎えして、再会を喜んだという。

地図に落とし込むとこんな感じだ。

国土地理院地図で作成

さて、次回は房総半島での出来事を紹介するぞ!

上にある地図でいう、右下での出来事ですな! 次回もよろしく頼む、胤義殿!

アイキャッチ画像:勝川春亭『石橋山合戦』 出展:ライデン国立民族学博物館

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

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眠れないほどおもしろい吾妻鏡: 北条氏が脚色した鎌倉幕府の「公式レポート」 (王様文庫 D 59-8)

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。