人生の不遇によって奮い立たせた版画家への夢
1900年代、日本で版画といえば木版画が中心であり、西洋で人気を誇っていた日本の美術作品といえば浮世絵でした。そんな時代にパリで銅版画を志すことは、相当な覚悟と強い意志があったのでしょう。長谷川潔の作風や対象物は、年代によって大きく異なりますが、そこには波乱に富んだ彼の人生が影響しているようにも感じます。
大正7(1918)年、第一次世界大戦直後の長谷川の船出は、波乱に満ちたものでした。横浜で生まれた長谷川は、漢学や書画骨董を愛した父親の影響もあり、文芸への目覚めも早かったようです。しかし、裕福な家庭に生まれたものの、11歳で父、17歳で母を亡くすという悲劇が彼を襲います。さらに、麻布中学を卒業した後は、伯父の薦めもあり大学進学を目指しますが、病弱で体調を崩し、進学を断念。美術の道に進み、銅版画の技法をもっと学びたいという強い気持ちがあったのはもちろんですが、こういった挫折も長谷川を単身でパリへと向かわせるきっかけになっていったのでしょう。
「長谷川は画塾に通いながら同人誌の挿絵画家として歩み出します。それとほぼ同時期に版画での制作も始めました。日本ではまだ木版画が主流の時代、西洋版画の様々な技法を知りたいと、渡仏経験のあった岡田三郎助(おかださぶろうすけ)や、イギリスから来たバーナード・リーチにエッチング※1の技術を習っていました。この時代の日本で注目を集めていた強いタッチと大胆な構図の表現主義的手法を身近に感じながらも、彼自身は緻密で繊細な線画に惹かれ、銅版画にのめり込んでいきます。今回の展覧会では、彼に影響を与えたオディロン・ルドン、ウィリアム・ブレイクやヴァシリ―・カンディンスキ―、さらに同時代に活躍した作家たちの版画も展示し、時代の中でどのようにして長谷川が銅版画へ傾倒していったかという過程も見ていただけます」と、展示企画を担当した町田市立国際版画美術館の学芸員、高野詩織さんは語ってくれます。

古典の版画を師とし、失われた技法を追及
アメリカ経由での長い航海の果てに辿り着いたフランスで、もともと病弱だった長谷川は、医師の薦めによりパリではなく、南仏での生活をスタートさせます。まだ駆け出しの作家であり、第一次世界大戦による日本の好景気や親の遺産があったとはいえ、その生活は決して楽ではなかったはず。それでも生活が落ち着いたら、弟をパリに呼び寄せようとも考えていたのだとか。しかし2年後に弟が早世、この時の絶望感や孤独感は計りしれません。その寂しさや不安を払拭するかのように、長谷川は銅版画技法の習得にのめり込んでいきました。
長谷川の初期の作品である《小さな花束》を見ると、綿毛の緻密な表現に引き込まれてしまいます。これはエングレーヴィング※2という古典的手法を使ったもので、その後の長谷川作品のひとつの方向性を決定づけた技法と言えます。ビュランと呼ばれる先端が菱形の形をした彫刻刀で銅板を彫りつけるこの技法は、パリの版画家でも熟練を要する技。師を持たず、この技法を習得した長谷川の努力は相当なものだったといえます。

「長谷川は、美術史や銅版画の技法を体系的に記述した蔵書を収集し、理論と実践を踏まえ、技術の研鑽を重ねていきました。そして線画表現を追及する中で、さらに古典的な技法であるメゾチント※3の復活にも力を注いでいきます。フランス語で『マニエール・ノワール(黒の技法)』と呼ばれる技法で、版面全体に細かな傷を作り、黒地を作ってから版面を磨き、描いたものを浮かび上がらせるのです」と高野さん。

20世紀、フランスではこの技法で制作する版画家はほぼいなかったといい、忘れ去られた古典的な技法を復活させた版画家として長谷川の名は高まりました。べルソーという工具を使い、黒の背景に対象物を浮かび上がらせるモノクロームの世界は、長谷川の繊細な表現をより引き立たせています。上下左右に斜めの線を入れて下地を作る表現は、長谷川が生み出したものとされています。自国の技術ではないからこそ、古典技法を大胆にアレンジし、自らの作品へと昇華させたといえるのかもしれません。

「この黒の表現は、長谷川が子供の頃に見た墨の表現が根底に流れていると長谷川自身も語っていました。西洋版画でよく用いられる油性のインクは濃厚で光沢がある感触になるのですが、もっと柔らかい、深い黒の諧調を目指して、刷り師と共同して、いろいろ試行錯誤を繰り返したようです」と高野さん。

パリと日本を結ぶ版画家として活躍
長谷川の版画家としての転機のひとつに「独立画家=版画家協会」での活動があります。これはエングレーヴィングの名手、ジャン=エミール・ラブラールが、木版画やリトグラフの作家として注目されていたラウル・デュフィとともに1923年に創設した緩やかな作家同志のグループでした。会員には、マリー・ローランサンやマルク・シャガール、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなど錚々たる作家たちが名前を連ねています。創設者のひとり、デュフィから招待を受け、唯一の日本人として長谷川も会のメンバーとなったのです。
「当時、30代半ばぐらいだった長谷川がパリで認められるきっかけになった出来事です。展覧会には、エッチング、ドライポイント、木版などの作品を出品し、存在感を示しました。模索の時期を経て、パリで地に足をつけ、生計を立てられるようになり、独自の技術表現をする作家として認められたことは、彼にとってひとつの到達点となったのでしょう」と高野さん。
長谷川が確立した技法は、ヨーロッパの芸術家からもリスペクトされ、互いに切磋琢磨していたことを感じさせてくれます。それほど長谷川の作品は、西洋的とも日本的とも言われず、独立した個性を発揮しているのです。

「長谷川は『孤高の版画家』と言われるように、パリにおいても特定の流派に属することなく、独学で多様な版画技法の研鑽を重ねた努力の人でした。オディロン・ルドン(1916没)に私淑していましたが、他の作家に関しては『特に芸術的には頭を下げる人はいなかった』と語っていたそうです。そういう背景もあり、今回の展覧会では、同時期に同じコミュニティに所属していた作家の作品もあえて並列で扱い、長谷川が西洋から影響を受けた部分と、独自の世界を切り開いた部分を比較して見てもらえる展示になっています。フランスで、同時期に芸術を目指した人々とのパラレルな関係の中で長谷川の作品を鑑賞してもらえたらと思います」。
日本の古典『竹取物語』を銅版画で表現
今回の展覧会のひとつの目玉といえるのがエングレーヴィングのイラストレーションを添えた挿絵本の傑作、仏訳『竹取物語』です。日本人なら誰もが知る物語ですが、平安時代の貴族を繊細なタッチで優雅に描いた作品は、パリの人々からも大きな反響がありました。
「フランスでも浮世絵は高い人気がありましたが、浮世絵以降の版画家の作品は認知されてこなかった。そんな時代の中で長谷川の作品は、日本の近代版画のイメージを刷新するひとつのきっかけとなったのではないかと思います」。

日本古来の題材を西洋人の好みに合わせて制作するのではなく、日本人が持つ繊細さを神秘的な表現で昇華させた作品です。これを見ていると、銅版画という西洋の技術を駆使しながらも、日本人としての誇りのようなものを長谷川も打ち出したかったのではと感じます。この出版と同時に、長谷川はパリ装飾美術館において「日本の近代版画とその源流展」(日本版画協会主催)の開催にも尽力しました。
「この作品を制作するにあたり、江戸の版本を取り寄せたとも伝わります。今回の展示では、町田市立国際版画美術館が保管する特装本にしか入っていないスイット(挿絵部分を別刷りしたシート)も一挙に見ることができる貴重な機会にもなっています」と高野さん。

戦争など辛い体験を乗り越え、行きついた森羅万象の世界
順調に版画家として認められ、精力的に活動を続ける中、再び、長谷川を窮地に追いやる出来事が起こります。それが第二次世界大戦でした。戦時下のフランスで制作自体も困難を極め、物心両面で苦労します。
しかし多くの日本人が帰国する中、長谷川はフランスに留まることを決意します。そんなある日、パリ郊外を散歩している時に、1本の樹木が語りかけてくるという不思議な体験に遭遇するのです。

もともと万物に神が宿るという日本人的な感性が、極限状況の中で花開いたのかもしれません。新たな創作の萌芽との出あいを機に、樹木や草花、小さな生物へと関心を寄せ、自然の姿を銅版画で表現していくようになります。
終戦の昭和20(1945)年には「敵性外国人」として、一時、収容所に収監されるという辛い時期もありましたが、それを払拭するかのように、多くの作品に植物や鳥、魚といった花鳥風月が美しく刻まれていくようになります。

さらに晩年、それらの作品をメゾチントで制作することで、モノクロームの世界に植物や鳥や魚が浮かび上がるという美しい表現を生み出しました。それは、生物と静物の様々な組み合わせによる一つの小宇宙を醸し出しています。

日本人としての美意識を持ち、独自性を貫いた稀有な作家
長谷川がパリで認知された数少ない日本人の芸術家のひとりである所以を高野さんはこう語ります。
「当時、たくさんの日本人がパリへ学びに来ていましたが、『日本に独自の文化があるのに、彼らはフランスに来て西洋的なものを取り入れ、独創性を失っていく』と言われてしまっていたんです。作るものもどこか模倣的であり、それに満足して、日本に戻ってしまうという批判もありました。一方、長谷川はずっとフランスにいるにもかかわらず、日本的な感性を損なっていないという点でも評価されていたんです」と高野さん。
孤高の日本人と言われた長谷川は、誰に日和ることなく、創作という概念において自分自身を貫いたと言えるのかもしれません。1950年代以降、日本においても長谷川の個展が開催されるようになり、次世代を担う版画家が長谷川のもとを訪れるようになります。

長谷川自身、日本に帰りたいと思うことはなかったのか。これについては作品から想像するしかありませんが、なつかしさや郷愁漂う銅版画を見ていると、そこはかとなく故郷の香りが漂っているようにも思います。きっと日本の風景を忘れることはなかったのではないでしょうか。昭和55(1980)年、長谷川は89年の生涯を閉じました。この年、企画構想から約10年を経て、京都国立近代美術館で自選作品による大規模な回顧展が開催。長谷川は日本の地を踏むことはできませんでしたが、彼の作品が多くの人々の感動を呼びました。
パリと日本で育まれた長谷川潔の残したかった世界をぜひ、会場で味わってほしいと思います。
メイン画像:《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》 長谷川潔 1969年 メゾチント 町田市立国際版画美術館蔵
町田市立国際版画美術館所蔵 長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡
町田市立国際版画美術館が所蔵する日本有数の長谷川潔作品コレクションを中心に、初期から晩年に至る名品を序章「日本時代 ―水と空のかなたから呼ぶもの」、第一章「銅版画の研鑽 ―古典技法の発見と刷新」第二章「パリの版画界 ―画家たちとの交友」、第三章「『竹取物語』 ―フランスで刻まれた日本の美」、第四章「自然 ―白昼に神を視る」、第五章「静物画 ―マニエール・ノワールの宇宙」に分けて展示。多様で多彩な表現の長谷川潔の作品を年代ごとに、西洋の作家と対比しながら鑑賞できます。
パナソニック汐留美術館
会期:2026年7月11日(土)〜 9月23日(水・祝)
※8月29日(土)~9月23日(水・祝)の土・日・祝日は日時指定予約必須(平日は予約不要)
開館時間:午前10時~午後6時(ご入館は午後5時30分まで)
9月4日(金)、9月18日(金)、9月19日(土)は夜間開館 午後8時まで開館(ご入館は午後7時30分まで)
休館日:水曜日(ただし9月23日は開館)
入館料:一般:1200円、65歳以上:1100円、大学生・高校生:700円、中学生以下:無料
主催:パナソニック エレクトリックワークス株式会社 パナソニック汐留美術館、東京新聞
共催:町田市立国際版画美術館
特別協力:横浜美術館 後援:港区教育委員会
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次回巡回展
久留米市美術館
開催期間:2027年1月23日(土)〜2027年3月28日(日)
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アサヒグループ大山崎山荘美術館
開催期間:2027年4月24日 (土) ― 6月27日(日)
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