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2021.10.08

2022年大河ドラマの予習に『慈光寺本承久記』を読み進めてみたら、心の中の乙女が射抜かれた

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承久の乱を題材にした軍記物語『承久記』。その最古形態である『慈光寺本承久記』の序文があまりにも意味不明だったため、解説の為の記事を書きました。

序文が…終わらないッ…!鎌倉殿の13人の予習に『承久記』を読んでみたら、序文からスケール半端なかった!

この記事、めちゃくちゃ「続編が楽しみ」というコメントが多かったんです!

おかげさまで、同じく「読んでみたけど意味不明だった」という方々から好評でしたので、第2弾として読み進めたいと思います。(最後までは流石に長すぎるので途中までですが)

北条義時の評価

承久の乱といえば、後鳥羽上皇が北条義時(ほうじょう よしとき)を追討するために院宣(いんぜん=上皇の命令書)を発行したことで始まりました。そもそもなぜ後鳥羽上皇が義時を討ち取ろうとしたのか。承久記本編はその顛末の紹介から始まります。

後鳥羽上皇は文武両道、多芸多能な人物! 『新古今和歌集』の編纂にも深く関わっています。

右京権大夫義時朝臣

爰(ここ)に、右京権大夫義時朝臣(うきょうの ごんのだいぶ よしとき あそん)思ふ様、
「朝(ちょう)の護(まもり)源氏は失せ終わりぬ。誰(たれ)かは日本国を知行(ちぎょう)すべき。義時一人して、万方(ばんぽう)をなびかし、一天下を取らん事、誰かは争ふべき」

本編の出だしですが、ここに慈光寺本承久記の作者の義時評が見て取れる気がします。

まず「右京権大夫義時朝臣」について。これは北条義時を示す名詞です。

右京権大夫は義時の官職名で、「京(きょう)」とは京内の司法、行政、警察を司る行政機関です。大夫はその長官で、右京大夫・左京大夫の1人づつが定員となります。その定員外で長官と同じ権限を持つ者が「権大夫」です。

そして「朝臣」というのは、ざっくり行ってしまえば朝廷の臣下の事です。義時の名字は「北条」ですが、大本を辿ると「平」という姓に行きつきます。これは天皇の皇子のうち、皇位継承権がない者が、皇族の臣下になるために天皇から賜った名前です。

この、天皇から賜る姓は「源(みなもと)」「平(たいら)」「藤原(ふじわら)」「橘(たちばな)」の4種類あります。北条義時が朝廷に提出するような超畏まった正式な書類の書名は「北条義時」ではなく「平朝臣義時(たいらの あそん よしとき)」と書きます。

や、ややこし~~!!

慈光寺本承久記で義時の名前がこのような仰々しい表記な理由なのは何故か。私はここに慈光寺本作者の意図が隠れているような気がします。

「こいつ、朝廷の臣下(身分が低い)くせに、こんな風に思ってたんだぜ!」


先ほどの本文を、私なりに現代語訳をしてみました。

北条義時は、こう思った。
「朝廷の守護たる源氏が滅んでしまった。誰がこの日本国を治めるのだろう。この義時以外に誰がいるのか。誰と天下を争うのだろうか」

完璧に悪役のセリフですよ!

私個人としては、義時に野心は全くなかったかといえば、そんな事はないとは思います。自治体のトップにいる人ですから、そりゃ野心はあったでしょう。でも、この時点(実朝暗殺事件の直後)で日本国全体レベルの権力を求めていたかというと、「ちょっと微妙かな?」と思います。あくまで個人の意見ですが。

確かに、もうちょっと段階を踏みたい。

でも承久の乱後の北条氏を、リアルタイムで知っている立場である慈光寺本作者からは、義時がこのような人物に見えていたのでしょうね。リアルタイムだからこその視点に立ってみるのも、歴史の楽しさの1つです。

摂家将軍と宮将軍

慈光寺本承久記は、義時が権力を求めて傀儡(かいらい)となる次期将軍候補を朝廷に求めた事が書かれています。実際に暗殺されてしまった源実朝には、跡継ぎはいませんでした。そのため、鎌倉幕府は次期将軍候補として、後鳥羽上皇の皇子を求めていました。

皇族を将軍にすることを「宮将軍(みや しょうぐん)」といいます。これは数年前から計画していた事で、それぞれにメリットがありました。

宮将軍計画のメリット

まず後鳥羽上皇の立場からすれば、自分の息子が将軍になれば、よりスムーズかつ濃厚な連携がとれます。実朝の立場からみれば、跡継ぎ問題が解決することに加えて、「鎌倉幕府」や「鎌倉将軍」そのものの権威が上がります。そして北条氏を含む有力御家人にしても、皇族に直接仕える事になり、家格が一気に上がるのです。

けれど、実朝が暗殺されたことで、後鳥羽上皇は「そんな危険な場所に息子を行かせられるか!」と怒って、宮将軍計画は頓挫してしまいました。

発動!摂家将軍計画

しかし将軍の跡継ぎがいない事には変わりありません。そこで代わりに次期将軍として挙がったのが、代々摂政や関白を努める、藤原氏の嫡流、「藤原摂関家」の子でした。

当時の左大臣、藤原道家(ふじわら みちいえ)の息子、「三寅(みとら)」は、ひいおばあちゃんが源頼朝の同母妹でした。

三寅はのちに鎌倉幕府の4代目将軍となりました。摂関家から出た将軍なので「摂家将軍(せっけ しょうぐん)」と言います。

しかし承久の乱の頃、三寅はまだ幼く、わずか1歳でした。そこで執権である北条義時が三寅の後ろ盾として政治を行うことになりました。

赤ちゃんじゃん!

摂家将軍と北条義時

しかし、後鳥羽院をはじめとする京都の人々は、これがとても奇妙な事にみえていたようです。当時は政治を行うにもそれなりに身分が必要であると考えられていました。鎌倉の将軍となっていた頼朝たち「源氏」は、武士階級というよりは、軍事力を持つ貴族という身分でもありました。のちに将軍になる三寅も貴族の中の貴族・藤原氏です。対して北条氏はというと、やはり身分的には田舎侍でしかなかったのです。

つまり京都の一部の人たちには、「権力を持つために幼い将軍を傀儡として、好き勝手に振舞っている」ように見えていました。

後鳥羽上皇から見た北条義時

そんな北条義時に後鳥羽上皇はどう思っていたのか。慈光寺本承久記ではこう書かれています。

「源氏は平家を倒したという実績があったのだから、地頭を設置する権限を与えたのだ。しかし北条義時は何もしていないのにこの日本を取り仕切ろうとしている。朝廷の命令にも背いて、けしからん!」

北条義時に政治を行う正当性はあったのか……というのは、鎌倉幕府視点で見てみると「数々の戦の大将になってるしなぁ」「義時以外に政治できる人物いるかなぁ」と、まぁまぁ納得できるものだと思います。

しかし京都側からしてみれば、鎌倉で起こった戦は、自分たちには無関係の遠い国で起こった内乱でしかありません。加えて「政治は身分が高い者が行う」という価値観において、義時が政治を行っているのを見ると首を傾げてしまうのもわかる気はします。

皇族・貴族ブランドすごかったんだなぁ……。

後鳥羽上皇の評価

対して、後鳥羽上皇は京都の人々からどのように思われていたのでしょうか。慈光寺本承久記での記述はこうです。

後鳥羽上皇は弓、乗馬、水泳、相撲などのスポーツだけでなく、朝も夕も武芸に明け暮れ、昼も夜も戦の計画を立てていた。

とても怒りっぽく、少しでも機嫌を損なう者がいれば、上皇自ら無茶苦茶に罰した。

大臣や公家の別荘を尋ねて、気に入った場所は「今日からここは麻呂のものだ!」と言っている。都心に6か所もあり、郊外には数えきれないぐらいある。遊びにいけば方々から白拍子を集めて、順番を決めて自分の相手をさせた。行政の場である錦の敷物の上にまで上がらせて汚す様子は、朝廷の権威も王の威厳も見当たらず、浅ましいものだった。

貴族たちの所領を優遇し、10か所の神社や寺の田のうち5か所も没収し、白拍子に与えていた。だから古老の神官や僧侶たちは悔しい思いを募らせていた。戦を起こしたのちに流罪にさせられたのも当然の事である。

めっちゃ塩評価!! 慈光寺本作者がお坊さんだとすると、最後の方、割と私怨もあるように見えますね。

田んぼとられた上に、オキニの女性(白拍子)にあげているのを知ったら……ねぇ。

承久の乱の発端

慈光寺本承久記では、承久の乱の原因を、はっきりと「亀菊(かめぎく)のせい」と断じています。

亀菊については以前、和樂webの過去記事でも書いたのですが、慈光寺本承久記の現代語訳を交えてこちらでも紹介しておきましょう。

亀菊パパと地頭

承久の乱の原因は、亀菊という白拍子らしい。後鳥羽上皇が亀菊を寵愛するあまり、彼女の父を刑部丞(ぎょうぶの じょう)にして、給料をこれでもかというほど与えた

刑部というのは朝廷の役職で、現在で言う所の検事や裁判官にあたります。丞はその中でも3番目・4番目の地位です。なかなかの大役を白拍子の父にあげちゃいましたね。

それだけでなく、後鳥羽上皇は「私が生きている間、摂津国長江庄(現在の大阪府豊中市)を亀菊に与える」という院宣(いんぜん=上皇の命令書)を与えた。

亀菊の父はそれを額にかざしながら長江庄にやってきた。

ものすごい浮かれっぷりですね。

「あ、これ? うちの娘がもらった院宣★」

領主として長江庄を取り仕切ろうとしたが、地頭は「ここは頼朝様から北条義時さんが貰い受けた土地です。上皇からの命令であっても、義時さんの印のある書状で譲渡を命じられない限りは、勝手に譲れません」と亀菊の父を追い返した。

毅然とした態度の地頭さんカッコイイ! 教育が行き届いてますね。坂東武者だって、ただ野蛮なだけじゃないんですよ!

亀菊の父が後鳥羽上皇にこれを嘆き訴えると、今度は藤原能茂(ふじわら よしもち)を長江庄に派遣した。しかし地頭は一向に態度を変えず、相手にしなかった。

藤原能茂さんの事も、過去記事で紹介しました。ほっぺがもちもちしてそうな、超絶美形の能茂くん。美形が行けば態度が軟化すると思ったのでしょうか。けれど誰が来ても態度は変わりません。いいですね、この地頭の態度! 現代人も見習いたい!

しまった! 私はイケメンが来たらあっさり譲ってしまう!!

能茂が返って来て報告すると、後鳥羽院は「鎌倉幕府に仕えているような末端の末端だから、ナントカのひとつ覚えのような融通の利かない事を言ったのだろう。そんなやつに義時を通さずに話をつけようとしたら、そんな態度を取るのももっともな事だ」と言って、義時に院宣を書いた。

めっちゃ上から目線ですが、実際この国の一番上にいるので仕方ないです。

後鳥羽上皇と北条義時

「他の土地は百でも千でも所有して構わない。摂津国の長江庄だけからは去れ」

義時は「後鳥羽上皇から、他の土地を百でも千でも所有して構わないとのお言葉、確かに承りました。しかし摂津国長江庄今は亡き頼朝様から頂いた初めての土地、思い出の場所なので、たとえ殺されてもお譲りすることはできません」と、またまた命令に背いた。

後鳥羽上皇はこの返事を聞き、ますますけしからんと憤ったが、これは義時が正しい

現在でも土地の所有権という法律がありますが、それと同じ法律はこの時代にもありました。つまりこの土地は自分の物だと思っていて、それから20年以上誰からも「いや自分の土地だよ」と異議を申し立てられなかった場合、その土地はその人のものとなるという法律です。

義時が長江庄を貰ったのがいつかはわかりませんが、それがおそらく源平合戦の頃でしょうから、40年近く経っているはずです。今更よこせと言われても、そりゃ無理な話です。

それから義時ってばちゃっかり「他の土地は百でも千でも所有して構わない」という言質を取っちゃってますね。そういう所も後鳥羽上皇をイラッとさせたポイントだと思います。

そんなにモメるなら、亀菊さんにあげるもの、別のものじゃダメだったのかな……?

とはいえ、慈光寺本承久記の作者は義時を「自分はこの世を治める逸材だと自覚し、目上の人にも反論をするふてぶてしい性格」として描いているんですが、あからさまに貶したりはしてないので、たぶん「いけ好かないけれど、政治手腕は認めざるを得ない」と思っているような気がします。

反して後鳥羽院の政治はあまり認めてはいないようです。そこらへんが慈光寺本承久記の作者に繋がるヒントになるかもしれません。

打倒義時の作戦会議

そんな事があって後鳥羽上皇は義時が許せなくなり、義時をどう処罰しようか、主要な公家の皆さんを呼んで会議をします。

そこで発言したのが近衛基通(このえ もとみち)さん。元摂政で、この時はすでに出家しましたが、アドバイザーとして政治に参加していました。生まれる前に叔父が謀反人として処刑されていて、常に「謀反人の甥」というレッテルを張られ、若い頃に源平合戦があって政治のゴタゴタに巻き込まれ、出世するのにいろいろ苦労してきた人です。

そんな人が後鳥羽院に言います。

「300年前、藤原利仁(ふじわらの としひと)という武士がいました。彼は25歳で東国へ行って鬼を倒し、自分に敵うものなどいないと豪語して新羅(しらぎ)を攻めました。しかし返り討ちに遭い、墓へ行く事となったのです。それ以来、都には彼ほど勇ましい武人はいません。坂東武者と戦にならないように、義時とよく話し合ってください」

承久の乱から300年前なので、平安中期頃の話です。藤原利仁は現代人にはマイナーかもしれませんが、当時は坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)や源頼光(みなもとの よりみつ)に並ぶ伝説級の武人でした。

藤原利仁とは?

その活躍は『今昔物語集』に描かれていて、坂上田村麻呂と一緒に蝦夷(えみし)の長である悪路王(あくろおう)を退治したとあります。(ただし、坂上田村麻呂は平安時代初期の人物なので、100年ほどの年の差があります)

そしてその後、かつて朝鮮半島にあった新羅国に遠征に行きますが、新羅の魔術師的な存在による呪いで死んだとされている人物です。近衛基通が「死んだ」ではなく「墓に行った」という湾曲表現を使うのは、死穢れを避ける御所だからですかね?

芋粥

また利仁がいかに豪胆な武人だったのかも『今昔物語集』に描かれています。長年主人に仕えていたとある下級武士が「一度でいいから飽きるほど芋粥(当時の高級料理)を食べたいなぁ、でもまぁ芋粥に飽きるなんてことはないんだけど」と呟いたところ、たまたま近くにいた男がそれを聞き「なら飽きさせてやるから食べに来い」と誘いました。この男こそが藤原利仁です。

利仁は馬を用意し、自宅のある敦賀(現・福井県)まで下級武士を連れて来て、食べきれないほどの芋粥を用意します。そして1ヶ月ほど下級武士をもてなした後、高価な手土産をたくさん渡しました。長年真面目に勤めていたら、冴えない人でもひょんな事から良い事が起きるという話です。

言ってみるもんだな~!

余談ですが、この話を基に芥川龍之介が『芋粥』という作品を書き上げています。『今昔物語集』は利仁が主役でしたが、『芋粥』は下級武士が主役です。古典文学の絢爛豪華な明るい描写と、芥川龍之介お得意のちょっと内気で卑屈な視点の描写。読み比べてみるととても面白いので、ぜひ読んでみてください。

卿局の主張

さて、本題に戻りまして。近衛基通が戦を回避するよう意見を言った時、それに被せるように発言したのが卿局(きょうの つぼね)。後鳥羽院の乳母で政治の場で強い発言権がありました。

「昨年、焼失した大極殿(だいごくでん)修理の経費負担は、安芸(広島県)・周防(山口県)・但馬(兵庫県)・丹後(京都北部)・越後(新潟県)・加賀(石川県)の六か国が持つことになりましたね。けれど越後と加賀は坂東の地頭を使っていたので、支払いを拒否しましたよ。

あなたが日本の隅々まで威光を示すには、義時を討つしかありません。そして日本国を思いのままに統治しなさい」

源頼茂事件

卿局の言う「焼失した大極殿」は、承久元(1219)年の源頼茂(みなもと よりもち)事件の事です。

源頼茂は、鎌倉将軍の源とは別系統の源氏で、源頼光の子孫です。彼は鎌倉御家人ではありますが、代々朝廷に仕える武士でもありました。そして大極殿とは、天皇が政務を行う朝廷の最重要な建物で、頼茂はそこを警備していました。

建保7(1219)年1月27日に源実朝が暗殺された後、頼茂が鎌倉の将軍になろうとしたとして、後鳥羽上皇から私兵の西面武士を差し向けられました。頼茂は自分の職場である大極殿に立てこもり、火を放って自害します。そして建物も宝物も全焼してしまったのです。

後鳥羽上皇はこれに激怒します。差し向けた西面武士のほとんどは鎌倉御家人なのだから、鎌倉幕府が修繕費用を負担すべきだとしたのです。

鎌倉幕府側としては、まあ当然、支払い拒否はしますよね……。でも朝廷はこれを、義時がこの日本の統治者である後鳥羽上皇の命令に背いたと受け取ってしまいます。そんな感じで朝廷と幕府の関係が悪化する原因の1つとなる出来事でした。

上皇の言いつけでも、理不尽なことにはちゃんと抵抗しているんだなぁ。

武士たちの出動要請

乳母である卿局の意見に、後鳥羽院は従いました。そして武士の中でも特に目をかけているエリート武士、藤原秀康(ふじわらの ひでやす)を呼び出しました。

後鳥羽院は義時討伐を決意した旨を語り、どう討ち取ったら良いか、秀康に意見を求めます。秀康は答えました。

「鎌倉御家人の三浦胤義(みうら たねよし)が、最近京へやって来ました。彼の兄は義時が信頼している三浦義村(みうら よしむら)です。彼をこちら側につけましょう」

胤義と秀康

そして秀康は自分の屋敷に胤義を呼びよせました。そして頃合いを見計らって本題を切り出します。

「君はなぜ、鎌倉や故郷の三浦から離れて京に住んだんだい? お優しい後鳥羽院は、君が何か悩んでいるのではないかと気にかけているんだ」

胤義は答えます。

「え? マジで? マジで後鳥羽院がオレを気にかけてんの? やべー。後鳥羽院、超優しい~」

そして怒涛のように続けます。

「オレが鎌倉や故郷を捨てて京に来たのには理由があるんだ。オレの妻を誰だと思う? 鎌倉一の美女なんだけどさ、オレと結婚する前は2代将軍の頼家様と結婚していて、男の子を生んでいたんだ。

けれど頼家様は北条時政(ほうじょう ときまさ)に殺された。妻の子は、北条義時に殺された。オレと結婚した後も、日夜泣いて暮らしているのが可哀想なのだ。

『男の身なら、出家して頼家様と我が子を弔う事ができるのに、女の身だからそれもできない』と涙を流すのを見て胸が締め付けられる。

たとえこの世界に隙間なく敷き詰められた黄金でも、命の価値には代えられない。何よりも惜しいのは人の命だ。だけど理(わり)なき宿世(しゅくせ)に出会えたならば、惜しい命も惜しくはない!

だからオレは都に上った。そして院に召されて謀反を起こし、鎌倉へ向かって矢を放ち、自分と妻の心を慰めようと思った。だからどうしても後鳥羽上皇から義時追討の院宣を貰いたいのだ」

なにこの……。この……なに? この人、奥さんの事好きすぎじゃない? 妻本人がいない所で、上司とのサシ飲みでいい感じに酔っ払った状態でここまで言うとしたら、マジ本気じゃないですか?

ちなみに「理なき宿世」というのは、前世から縁のある宿命の相手という意味です。なんという言葉の意味も響きも美しい言葉!! 私、けっこう表現力には自身あるタイプですが、これ以上に「最愛の妻」を美しく表す言葉を、いまだ思いつきませんことよ!?

800年前という超ロングレンジから、老若男女問わず心にいる乙女を射抜く男、三浦胤義。今回は彼の事を覚えて帰ってください。

そして胤義は、兄の義村を朝廷方につけるという約束をし、軍議を今すぐ開くべきだと言い残し、家に帰ります。どんなに飲んでも朝帰りはしないのがポイントです。

そんな素敵な胤義さんが、和樂webにご寄稿くださっています。記事はこちら

合戦準備

秀康はさっそく、この事を後鳥羽上皇に伝えると、さっそく軍議を開くことになりました。そして諸国の武士たちに「4月28日に儀式をする。その護衛のために甲冑を着て来い」と命令して兵を集めます。

陰陽師の占い

当日、後鳥羽上皇の屋敷である高陽院殿(かやのいんでん)に集まって来た兵は千人を超えていました。行われたのは陰陽師による占いの儀式。挙兵の吉凶を占わせました。

結果は「今は時期が悪い。11月上旬なら上手くいく」というものでした。しかしそこで声を上げたのが、後鳥羽上皇の乳母である卿局です。

「でたらめをいうな、陰陽師ども! 後鳥羽上皇に北条義時なんぞが敵うわけがなかろう! このような事が1人の耳に入れば、ほどなく世の中に知れ渡ってしまうもの。ましてここには千人以上の耳がある。もう隠す事もできぬ。義時がこの事を聞けば、ますます上皇の立場が悪くなるだろう。だから早く行動せねばならぬ!」

この演説で、挙兵する事に決まってしまいました。承久の乱には北条政子の他にもう一人、演説をした女性がいた事を、覚えておいてください。

当時の女性、めちゃくちゃ強い! 実は歴史は女性が動かしている……??

近衛基通のぼやき

この様子を見て、最初の会議で反対意見を述べていた近衛基通さんは、同じく朝廷の重要人物である藤原頼実(ふじわらの よりざね)さんと話し合いました。

「義時は戦経験が豊富だから勝てるわけがないって言ったのに……」

そうして、2人はこれ以降後鳥羽院の政治の場に出席する事はなくなりました。ちなみに藤原頼実は後鳥羽上皇の乳母である卿局の夫でもあります。当時の夫婦でも意見が分かれて別行動することがあるんですね。

作戦会議

朝廷は、義時打倒の前哨戦として、伊賀光季(いが みつすえ)という人物を討ち取ろうとします。

伊賀光季は、義時の妻の兄でした。鎌倉幕府に忠実な御家人で、任務として京都警備に当たっている在京御家人のリーダーでもありました。

彼を討ち取れと後鳥羽上皇から命じられた藤原秀康は、三浦胤義相談します。けれど胤義は光季と若い頃から仲良くしていたようです。

秀康が「心中お察し申し上げます」と気遣うと「お気遣いありがとう」とだけ言って、淡々と続けます。(この切り替えが坂東武者みを感じます)

「光季は、騎馬でも徒歩でも問題ない精鋭で、心根も良い。ただ闇雲に討ち入っても返り討ちにあうだけです。後鳥羽上皇の御所に呼び出して、大庭を包囲して討ち取りましょう。もし来なかったら上皇の命令に従わない無礼者として討てばいい」

この作戦、もし季光がのこのこやってきたら、御所で血穢れを出しちゃうってことでしょうか? それを厭わないあたりに坂東武者みを感じます。秀康さんも「命令無視してほしいなぁ」と思った事でしょうね。

というわけで今回はここまで!

さて、承久記はいよいよ伊賀光季さんとの合戦シーンに入っていきます。このシーンがまた泣けるんですよね!!

でもキリが良いのでここまでとします。続きはまたの機会に!!

いよいよ合戦! また続きが気になっちゃう~!!

参考文献

『新日本古典文学大系 承久記』岩波書店
坂井孝一『承久の乱』
坂井孝一『源氏将軍断絶』

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)