序文の序文
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も6月にクランクアップを迎え、ますます期待が高まっています。ドラマのクライマックスにはおそらく「承久の乱」が控えているわけですが、その予習を兼ねて『慈光寺本承久記(じこうじぼん じょうきゅうき)』を読んでみました。
するととんでもなくスケールのでかい話から始まるじゃないですか!
「こ、これは……読み始めて3行ぐらいで宇宙猫になってそっと本を閉じる人が続出するぞ……?」
しかもこの序文、本編とは全くと言って良いほど関係ないんですよ。なにせ、後世で編纂された『流布本(るふぼん)』や『前田家本(まえだけぼん)』では丸々カットされているぐらいです。
そのくらい序文が本編と関係ないんですけど、読んでみると鎌倉時代についての解像度が高まって面白いんですよ。
というわけで、今回はあえて『慈光寺本承久記』の序文だけを解説してみたいと思います!
慈光寺本承久記は現在、岩波文庫『新日本古典文学大系』と現代思潮新社『承久記』が書店や図書館で見かけやすいです。また国立国会図書館デジタルコレクションでは『承久記』がダウンロードできます。
ぜひ、本文を片手にこの記事を読んでみてください!
ちなみに現代語訳は現在ありませんが、岩波文庫は注釈が解りやすく、「高校の時、古文それなりに読めた」という人なら難なく読めると思います!(来年の大河までに現代語訳がどこかの出版社から出るといいなぁ~)
そもそも承久記とはなんぞや?
承久3(1221)年に起こった、朝廷と鎌倉幕府の合戦「承久の乱」を題材にした軍記物語です。京都市歴史博物館で80年ぶりに『承久記絵巻』が見つかったことで話題にもなりました。
『慈光寺本承久記』はその最古形態とされていて、乱直後に成立したと考えられています。その為、史料的価値が高いとされていて、多くの中世研究者は『吾妻鏡』の他に『慈光寺本承久記』を参考に研究しています。
作者が誰だかはわかりません。多くの研究者が考察していますが、未だ結論は出ていないです。私としては「公家上がりの僧侶。鎌倉の情報も入ってくる立場にあったが、九条家や西園寺家ほどは詳しくはない」という立場だったんじゃないかなぁと思っています。その理由はおいおい語るとして、さっそく読んでみましょう!
他の物語とは書き出しの一文から違うぜ!
物語や小説の書き出しの一文って大事ですよね。
吾輩は猫である。名前はまだない。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
さすが文豪! これから始まる物語にぐっと引き付ける一文がシビレる!
『承久記』と同じ軍記物語で、鎌倉時代中期に成立したといわれる『平家物語』の書き出しは、美しさを感じます!
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
では、『慈光寺本承久記』の書き出しの一文はどうかというと……。
裟婆世界に衆生利益(しゅじょう りやく)の為にとて、仏は世に出給う事、総じて申さば、無始無終にして、際限有るべからず。
訳:人間世界に生きとし生ける全ての生き物の幸せのために、仏はこの世に現れる。それはいつ始まったとも、いつ終わるともなく、際限などあるわけではない。
いきなり仏が現れました。
別して申さば、過去に三千仏、現在に千仏、未来に千仏、三世に三千仏出世有るべしと承る。
訳:あえて言うなら過去に千人の仏が顕現した。現在には千人の仏が顕現している。そして未来には千人も顕現する。合わせて三千もの仏がこの世に現れるのだと聞く。
過去の劫(こう)をば荘厳劫(しょうごんごう)、現在をば賢劫(けんごう)、未来をば星宿劫(しょうしゅくごう)と名付くべし。
訳:過去は「荘厳劫」、現在は「賢劫」、未来は「星宿劫」という名がある。
という風に、『慈光寺本承久記』は読者に強烈なインパクトを辻斬りのように与えて走り去って行きます。これらは、仏教の世界観の話です。
現在の日本史の教科書は、石器時代からはじまります。戦前の日本史の教科書は神話から始まりました。そしてこの時代の僧侶が歴史を書くときには、仏教的な説話で歴史の成り立ちをまず説明しますが……ちょっとここまで書くのは珍しいと思います。
仏教の世界観を知ろう
『吾輩は猫である』は、読む人は猫を知っているので、「吾輩」をイメージできます。雪国もトンネルも、見た事がない人はあまりいないでしょう。「祇園精舎」は実際にインドにあるお寺で、実際に見た人は少ないかもしれません。けれど近所にあるお寺の鐘を、イメージする事で補うでしょう。
『慈光寺本承久記』の序文が意味不明に思えるのは、仏教の世界観を知らないからです。そこで、一つずつ見て行きましょう!
「劫」とは時間の単位
まず仏教では、とても長い時間の区切りを「劫(こう)」と言います。1劫の長さは世界が始まって終わるまでです。
現在、私たちが生きている世界の時間を「賢劫」、以前にあった世界の時間を「荘厳劫」、そして私たちがいる世界が終わって次の世界の時間を「星宿劫」といいます。
そして、その1つの劫の中にも4つの時間の区切りがあります。
自然と生き物が生まれる「成劫(じょうごう)」、自然と生き物が調和している「住劫(じゅうこう)」、自然と生き物が滅んでいく「壊劫(えこう)」、そして何もなくなった「空劫(くうこう)」。この4つの機関を四劫(しこう)といい、季節のように廻って、世界は再生と破壊を繰り返します。
人間の寿命って何年か知ってる?
つまり、今、私たちが生きているのは「賢劫」の中の、「住劫」という時間です。やがて何もかも滅び去って無くなったあと、また「星宿劫」の中で自然や生き物が生まれます。
住劫では、人間の寿命が一つの基準になっています。人の寿命は何年か知っていますか?
私の幼少期は確か生物としては120年生きられるって言われていて「じゃぁ、私はギリギリドラえもんに会えるんだな!」と無邪気に思っていました。大人になった今、果たして平均寿命の80歳まで生きて行けるのか……と、一抹の不安がよぎります。健康って大事ですね。
仏教で人の寿命は元々8万4千歳あると言われています。そして100年ごとに1歳ずつ減っていき、最終的に10歳まで減ると、今度は100年ごとに1歳づつ増えて、再び8万4千歳になります。
人の寿命が減っていく期間を「減劫(げんごう)」、増えていく期間を「増劫(ぞうごう)」といい、住劫はこれが20回繰り返すまで続きます。つまり3億3596万年です。
そして、私たちがいるのは、9回目の減劫になるそうです。少なくとも1億3千万年以上は経ってますね。自然と生き物の調和している住劫が始まったのは、恐竜全盛期の時代って事でしょうか? ……なんだかそれっぽいですね。
仏っていつからいるの?
『慈光寺本承久記』は、続いて「仏」がいつ生まれたかを紹介しています。仏とは「完全な悟りを開いた聖者」の事で、仏教の開祖であるお釈迦さまはその1人です。
最初に「荘厳劫」「賢劫」「星宿劫」でそれぞれ千人の仏が現れると書かれていました。お釈迦さま以前に仏となった人も多くいましたが、仏教で認知している仏は「荘厳劫」で現れた最後の3人と「賢劫」で現れた最初の4人です。
「賢劫」で現れた4人の仏は、いずれもこの9回目の減劫で生まれていて、最初の仏である「クルソン仏」は、人間の寿命が4万歳の時生まれました。2番目の「クナゴン仏」は3万歳の時、3番目の「カショウ仏」は2万歳の時です。
この時、お釈迦さまは菩薩(ぼさつ=悟りを求める者)の最高位として天界で生まれ、人間の寿命が百歳の時に人間界で生まれ、悟りを開いて亡くなり、また天界へと戻って行きました。それから2千年以上経った今でも、お釈迦さまの教えを実践して悟りを開こうとする人は後を絶ちません。
細かい数字などはお経によって違うようですが、まぁ『慈光寺本承久記』ではこう書かれているということで、お手柔らかに願います。
お釈迦さまの前の3人が生まれたのって、だいたい旧石器時代より前なんですね。アウストラロピテクスも悟りを開いていたということでしょうか。ロマンを感じますね。
仏教って壮大
ここまで読んできて、ふと思った事があります。
多くの神話には人間は元々長生きだったが、罪を犯して(あるいは選択を間違えてしまって)寿命が短くなってしまったという「バナナ型神話」とよばれるエピソードがあります。
でも仏教はなんだか、「寿命が短くなったのは自然現象だ」という雰囲気があります。むしろ「数百万年かけて伸び縮みするものだからあまり気にするものではないな」という気にもなってきます。
というか、ひとつひとつの数字が大きすぎて、数字が苦手な私は計算が大変です。そういえば仏教の発祥はインドで、インドって数学が得意ってイメージがあります。仏教って数学なのかもしれない。
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まだまだ序文は続くよ!
一つの山を越えたところで、まだ『慈光寺本承久記』は本編に入りません。これまでは「仏教での世界観」の話でしたが、ここからは「鎌倉時代の仏教的思想」の話に入っていきます。
鎌倉時代の仏教的思想には「三国史観(さんごくしかん)」「辺土観(へんどかん)」「末法思想」というものがありました。
三国史観
仏教の発祥の地は、インドです。インドから中国まで伝わり、最終的に日本にやってきました。なので、仏教的な世界観で歴史を語ると、まずインドの歴史、中国の歴史、日本の歴史という風に構成されます。
これはこの時代のお坊さんが書く昔話や歴史書における、構成の作法のようなものです。『慈光寺本承久記』の作者は不明ですが、お釈迦さまがインドで生まれた話が最初にあるので、僧侶が書いたのだろうという事が予想できます。
『平家物語』でも、有名な「祇園精舎の鐘の声~ただ風の前の塵に同じ」の部分は、インドの地名が出て来ます。そしてその続きの部分は中国の歴史を述べて、日本の歴史を語っています。
辺土観
仏教の世界観を地図に表すと、世界の中心には須弥山(しゅみせん)という聖なる山があります。須弥山の周りは海で囲まれていて、四方に4つの大陸があります。それぞれ大陸の周りには2つの島と、500の小さな島があるとされています。
私たちが住む世界は、南の大陸「閻浮提(えんぶだい)」にあります。閻浮提の中心にある国は天竺(てんじく)つまり、お釈迦さまが生まれたインドです。そして東の果ての果てにある国を震旦(しんたん)といい、これは中国のことです。
そして平安時代の頃、ある人が気づきます。
「えっ、中国でさえ東の果ての果てにある小さな国扱いなのに、中国よりさらに東にあって、中国とは比べ物にならないぐらい小さな日本って、島の数にも入らない粟散国(そくさんこく=粟の粒をちりばめたような小さな国)なんじゃ……」
そんなモノの数に入らないような辺境の土地に、果たして仏の加護はあるのか? そういう不安感が「辺土観」です。
末法思想
仏の加護が地理的に薄いのでは? と、ただでさえ不安になっている日本の仏教徒に更なる不安の種が芽生えます。それが「末法思想」です。
お釈迦さまがなくなって500年は、お釈迦さまの正しい教えが残っている悟る人もいる「正法(しょうぼう)の世」。その後千年間は正しい教えは残っていても悟る者がいなくなってしまった「像法(ぞうほう)の世」となります。
そしてその後には、仏教の形骸しか残らない「末法の世」が1万年続き、それ以降は仏教自体が無くなってしまう「滅法(めっぽう)の世」になります。
末法の世がいつ来るのか、おそらく平安時代前期に計算した人がいたんでしょう。平安時代の日本人は、末法の世が1052年から始まると思っていました。そこで人々はお釈迦さまの言葉であるお経を、未来へと残そうとします。それが各地にある納経堂や経壺です。
権力者が、仏の加護を得ようと写経して寺に納めるのも、末法思想が根底にあったからでしょう。そして鎌倉時代に入ると、仏教は末法の世でも多くの人々を救おうと発展して行き、「鎌倉仏教」と呼ばれる宗派が誕生します。
日本優越論
以上の3点を踏まえて、『慈光寺本承久記』を読んでみましょう。現代語訳するとだいたいこんな感じです。
人の世界には十六の大きな国と、五百の中くらいの国。一万の小さな国と、数えきれないほどの粟散国があるとは聞くが、外国の事は置いておく。
仏教や王政があって人々にとって喜ばしい国はどこかと尋ねると、挙がるのはインド・中国・東南アジア・朝鮮半島・中央アジアである。我が国、日本にも原初から今に至るまで、仏教が陰ることは無かった。
この太字にした2か所。ちょっと違和感がありませんか?
辺土観があるのに、無数の粟散国の事を「外国」としていて、他人事のようです。さらに末法の世に入ったというのに「日本に仏教が陰ることはない」としています。
実は鎌倉時代になると、以下のような考え方が出て来ます。
「インドから遠くて、しかも末法の世になったっていうのに、続いている日本って逆にすごくね?」
そんな考え方が広がった頃、日本に起きた出来事が「元寇」です。日本より仏の加護が強いはずの大陸からの攻撃に、耐えたどころか勝ってしまいました。そこから「日本は仏の加護が薄くても、八百万の神がいる国」という「神国思想」や、日本は周辺の国よりすごい国なんだという「日本優越論」が盛んになってきます。
南北朝時代になるとそれが顕著になって、南朝の後醍醐天皇を支持した北畠親房(きたはた ちかふさ)の『神皇正統記(しんこうせいとうき)』や「吉田神道の台頭」に繋がります。そして南北朝が統一した後も、思想の1つとして続き、幕末では「尊王思想」となり、近代の「皇国史観」にまで発展します。思想にも歴史アリなんですね!
百王説
『慈光寺本承久記』でも三国史観に乗っ取って、インドの歴史、中国の歴史、日本の歴史を書いています。
我が国日本にも天神七柱、地神五柱がいて、(中略)合せて十二代は神代である。それ以降は、人の王が百代いるだろうと聞く。
令和の時代、今上天皇は126代目です。百代はとっくに過ぎていますが、当時の日本には「どんな王朝でも百代まで続かない」「百代目で滅びる」という、一種の終末論がありました。なぜかというと、日本が参考にしている中国でさえ百代まで続いた王朝がなかったからです。
「世界中探しても百代まで続いた王朝がないのだから、きっと日本も百代までに滅ぶのだろう……」
でも、結果は百代以上続いているわけですので、当時の人々に「大丈夫だよ」と言ってあげたいですね。
ちなみに百代目の天皇は後小松(ごこまつ)天皇です。南北朝の始まりである後醍醐天皇が96代目で、南朝が4代続いて南北朝が統一しました。統一後に正式な天皇となった北朝の6代目・後小松天皇を百代目として数えます。
南北朝の対立では北朝が勝っているのに、天皇は南朝側でなぜ数えるのか? とたびたび議論が起こりますが、南朝が正統とされたのは、ちょうど99代目で終わったからという「逆説的な百王説」もあるんじゃないかなぁ~と思います。
序文はまだ終わらない……!
なるほど、なるほど……。たしかに『慈光寺本承久記』には当時の思想や仏教的な考え方が、色濃く表れているなぁと理解できたところで、ようやく本文……ではありません! まだまだ続きます!!
承久の乱は後鳥羽上皇が起こした兵乱ですが、日本には天皇が起こしたそれまで兵乱が12回あった、と書かれています。ようやく承久の乱に繋がる話が……!
しかし、『慈光寺本承久記』が紹介している兵乱、いくら数えても9回分しかありません。しかもその話が、古代史を少し知っている人が首を傾げることが書かれています。
欠史八代
初代天皇は神武天皇で、日向(現・鹿児島県)から大和(現・奈良県)まで遠征した冒険と戦いの様子や、その後の政治の様子は『古事記』や『日本書紀』などに詳しく書かれています。
しかしその後の2代目・綏靖(すいぜい)天皇~9代目・開化(かいか)天皇は、『古事記』『日本書紀』どころか、地方の伝承レベルにも、どんな政治を行ったのかは一切記録がありません。この8人の天皇のことを「欠史八代(けっし はちだい)」といいますが……なんと『慈光寺本承久記』には、綏靖天皇と開化天皇の事が書かれているのです!
神武天皇の第三皇子、綏靖天皇の御代の頃。中国が日本を討とうと十万八千騎を率いて攻めてきたが、負けて帰っていった。
神武天皇から九代目の王を開化天皇といい、兄の位を奪って世を治めた。
なんと、元寇よりはるか昔に、大陸側から日本が攻められていた!? 開化天皇は兄の位を奪った!? 一体どこ情報なんでしょう。もしかしたら鎌倉時代には欠史八代の業績を伝える文献なり伝承なりが残っていたのでしょうか。
ちなみに綏靖天皇は即位する前に、異母兄から皇位継承権を狙われて、暗殺されかけたところを返り討ちにはしています。
さらに古代史ファンが首を傾げる記述は続きます。
ソレしたのって聖徳太子だったっけ?
三十二代目の王を用明(ようめい)天皇と言う。この帝の第二皇子の聖徳太子(しょうとくたいし)と物部守屋(もののべの もりや)大臣とが日本に仏教を広めるか広めないかと諍いを起こし、遂に合戦となって守屋が討たれた。そして太子は難波に四天王寺を建立して仏教の最初の所とした。
大阪にある四天王寺を建立したのは、たしかに聖徳太子です。でも。物部守屋と対立して戦をしたのは、蘇我馬子(そがの うまこ)だったような……?
そういえば、「聖徳太子非実在説」では、蘇我馬子の良い功績は聖徳太子のものとした、という話がありますが、果たして……。
2回皇位についた女帝
三十八代目の王を斉明(さいめい)天皇と言う。皇太子を討ち取り、皇后の位を奪い取って世を治めた。
天皇の歴史では、一度退位した後、やむを得ない事情で再び天皇となった人が何人かいます。その最初の人が皇極(こうぎょく)天皇。2回目の在位の時の名前は斉明天皇といいます。
皇極天皇は、かの大化の改新の時の天皇です。事件の後、皇極天皇は弟に皇位を譲りました。しかし、天皇となった弟は早く亡くなったので再び天皇の位につきます。が、これは斉明天皇の息子で、皇太子である中大兄皇子が天皇に即位することを拒否したため、仕方なくついたもので、積極的に奪い取ったというわけではありません。
弟には有間皇子(ありまの みこ)という皇子がいましたが、彼は中大兄皇子の暗殺事件を起こしたとされ、処刑されています。また、弟の妻は間人皇女(はしひとのみこ)といって、斉明天皇の娘です。もしかしたらその事を言ってるのでしょうか……?
文武天皇の性格は……?
四十二代目の王は文武(もんむ)天皇と言い、とても心根が悪かった。同母兄弟を討ち取って、初めて「大宝(たいほう)」という年号を定めた。その後、宝字(ほうじ)年間中に文武天皇の嫡子聖武(しょうむ)天皇と、弟の親王との合戦があった。
文武天皇の心根が悪い……? これも一体どこ情報なんでしょうか? 文武天皇は当時最年少である15歳という若さで即位します。それは周囲の大人たちのゴリ押しによってなので、本人の意思によるものとは言えません。
そして「大宝」という年号は、対馬から金が献上された記念に改元されたもので。同母兄弟を討ち取ったからではありません。というか、同母弟って誰でしょう? もしかしたら、同母妹が嫁いだ長屋王の反乱の事を言っているのでしょうか? ただし、長屋王の変は大宝年間より後です。
さらに聖武天皇と弟の戦が宝字年間中にあったとされていますが、この宝字が「天平宝字」のことならば、それは聖武天皇の死後です。
一体全体、この不思議な記述の数々はなんでしょうか? 鎌倉時代には、今とは違う歴史を伝える書物があったのか……それともただ単に作者が古代史に弱かったのか。古代史ファンのみなさんの見解を聞きたい所です。
やっと……鎌倉幕府が誕生したよ!
「天皇による兵乱」のエピソードは奈良時代からイキナリ平安後期に飛びます。「壬申(じんしん)の乱」「白村江(はくすきのえ)の戦い」「薬子(くすこ)の変」あたりが抜かされているのでしょうか……。
崇徳上皇と後白河天皇が争った「保元の乱」。そして後白河法皇と平清盛の対立で日本全国を巻き込んだ「源平合戦」。ここら辺から作者の筆が乗ったのか、とてもテンポよく、文章もリズミカルなものとなっていきます。
やっぱり古代史が苦手で、本当はここら辺から書きたかったのでしょうか……。でもその気持ち、私はめちゃくちゃわかります!!
そしていよいよ鎌倉幕府が誕生し、頼朝(よりとも)・頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)について書かれています。
勲功無比の源頼朝
まずは。初代将軍・源頼朝さま!
頼朝は度々京に上り、武芸の徳を施した。勲功は類を見ないもので、正二位(しょうにい)に進み、右近衛大将(うこんえのだいしょう)になった。
「勲功無比(くんこう たぐいなし)」なにその四字熟語! めっちゃカッコイイ! 京都における頼朝の評価は結構高いものだったようで、同時代を生きた僧、慈円(じえん)が書いた『愚管抄』でも「まさに武士の棟梁!」と賛辞を贈られています。
しかし頼朝は志半ばで、落馬による負傷が元で53歳の生涯を閉じます。その臨終の様子が『慈光寺本承久記』には書かれています。
いよいよ命が危ういという時、妻(北条政子)を病床に呼び寄せ、
「半月も床に伏していたか。君と仲睦まじい夫婦になろうと誓い合ってから長い事やってきたね。先に一緒に入るお墓で待っているよ」と語った。
エモい! エモいけど……、なんかこう、事前になんて言おうか用意していた気がしません? いかに今までの数々の浮気がチャラになる言葉を紡ごうか、何年も前から温めてますよ、絶対!
しかも原文では「偕老(かいろう=仲睦まじい老夫婦)」「同穴(どうけつ=同じ墓に入るほど仲が良い)」という言葉を使ってるんですよ。これは中国の詩を基にした言葉で、「偕老同穴」という四字熟語にもなっているんですが……。
絶対プロポーズの時もこの言葉使ってたでしょ! なんなら恋人未満の頃に、まだ若くて可愛い頃の政子ちゃんに、勉強を教える感じでさりげなく教えてたでしょ! かーっ! やらしい! やらしか男ばい!!
そして、次に嫡男の頼家くんを呼び寄せます。
「私の命運は尽きた。私が死んだら、弟の千幡(せんまん=のちの実朝)を可愛がってやってくれ。御家人たちの陰謀には加担するな。畠山重忠(はたけやま しげただ)を頼って日本を治めよ」
ご覧ください。政子さんへの言葉に比べて、今急いで考えたような、色々と言葉足らずな感じ!!
よくこの遺言を例にとって、頼朝は御家人を信用していなかったと言われてます。本当にこの遺言のようなことを言ったのなら、それが承久記の作者に伝わるほど有名だったのなら、当然御家人たちの耳にも入ってるわけで……。
私としてはこの「陰謀に加担するな」というのは、将軍として誰か1人を特別に肩入れするなって意味かなぁと思っています。
現に頼朝さまには、挙兵時に集まった御家人を1人1人呼んで全員に「あなただけが頼りだ」と言ったというエピソードがあったり、有力御家人の家を調べると、各家が「うちが一番信頼されていた!」と言いたげなエピソードがあったりします。
急いで伝えたこの遺言、やはり言葉足らずだったようで、頼家くんにはあまり伝わらなかったようです。
有名無実な源頼家
しかし頼家はまだ若く、将軍とは名ばかりで実力は無かった。父の遺言に従わずに梶原景時(かじわら かげとき)を後見人とし、人々はそれを非難した。
忠孝はなく、勝手気ままにしていたので、母の政子や伯父の義時が教え諭したのだけども、聞く耳を持たなかった。そして遂には修禅寺の浴室で殺されてしまったのだ。
「ぴえん超えてぱおん」そんな頼家くんの心の叫びが聞こえてくるようです。頼家くんなぜか評判が悪いんですよね……。『吾妻鏡』の記述でもそうですし、京都側の記録にしてもそうです。やっぱり先代が立派過ぎると色々比較されちゃうんでしょうね。
儚い最期の源実朝
3代目の実朝さんは、「兄に比べて幸運だったかも」と書かれています。その理由は「とんとん拍子で出世したから」。
この「出世したから幸運」という価値観、いかにも京都の公家的な考え方だな~と思います。それに東国の人なら実朝さんの人生を「幸運だった」とは言わない気がします。最後は衆人環視の中、暗殺されてしまうのですから。
実朝さんの京都での評判は、まさに賛否両論。慈円の『愚管抄』では「全く武士らしくない! むしろ頼朝公の功績を汚した!」と散々な言われようです。
しかし『慈光寺本承久記』では実朝さんにとても同情的に書かれています。そしてその最期の儚さを詩的に綴っています。
俗世の幸せとは風の前の灯火と同じ。人の一生は春の夢であり、日暮れを待たずに萎む朝顔や、水に落ちる草木の露、蜉蝣(かげろう)の体のようなものに違いない。
美しい表現に、耳に心地よいリズム……。作者の気持ちがこめられているのを感じます。いやぁ、良い結末の文ですね……って。
ここまでが序文です!
『慈光寺本承久記』って、序文だけで7ページもあるんですよ! その解説も1万字を越えてしまいましたよ! いやぁ、そりゃ後世の人がザックリ削除しちゃうのもわかりますね。
でも、この記事をここまで読んだ人は鎌倉時代の価値観や考え方が垣間見えたかと思います。この続きはいよいよ本編です。一番意味不明の文字の羅列に見えるであろう所は解説したので、この後のことはきちんと理解できるはず!
『慈光寺本承久記』、ぜひ実際に読んでみてくださいね!
参考文献
岩波書店『新日本古典文学大系』
野口実『慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察』
末木文美士『日本思想史』
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3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)