学校で習った『平家物語』をおさらいしてみよう! というわけで、鎌倉時代の名馬デッドヒート!第9巻の『宇治川先陣(うじがわの せんじん)』を解説します。
鎌倉軍が誇る2頭の名馬が、流れの早い宇治川をどちらが先に渡り切るか争う、有名なシーンです。『宇治川先陣』の主役、生食(いけづき)と磨墨(するすみ)にインタビューしたこともありました。
もしかして私って都合のいい馬?鎌倉幕府のエモキラ馬たちに「愛されモテ馬」になる秘訣を聞きました♡【妄想インタビュー】
背景
寿永2(1183)年7月、木曽義仲(きそ よしなか)が京都を攻めて、平家を追い出しました。しかし、木曽軍の下級武士が京都内で狼藉を働き、それを統率しきれなかった木曽義仲は京都の人々に嫌われていきます。
窮地に立たされた木曽義仲は、ついに後白河法皇を幽閉し、後白河法皇は鎌倉幕府にSOSを出します。源頼朝は、異母弟の範頼と義経を大将にして、大軍を派遣しました。
そして寿永3(1184)年1月、木曽軍と鎌倉軍が宇治川で激突しました。
生食と磨墨
当時、馬は戦に欠かせない乗り物で、良い馬を持つことは武士の誇りでした。上司から良い馬を貰うことは大変名誉なことです。宇治川の戦いに参加した武士の中で特に名高い名馬が2頭いました。
佐々木高綱(ささき たかつな)という武士は、頼朝から黒栗毛(くろくりげ=黒味を帯びた栗毛)の馬を貰っていました。とても肥えていてがっしりとした馬です。近づくものは人でも馬でも噛みつくので、生食(いけずき)と名付けられています。「食」は当時、「すく」と読みました。
体高(地面から肩までの高さ)は8寸。通常の馬の体高を4尺(約120㎝)とするので、生食は通常よりも8寸(約24㎝)も大きいということです。
そして、梶原景季(かじわら かげすえ=梶原景時の長男)が頼朝から貰った馬もとても肥えてがっしりとしています。真っ黒だったので磨墨(するすみ)という名前です。
富士川の戦いを描いた絵は多いですが、実は生食をきちんと「黒栗毛」に描いているものは少なかったりします。
富士川に到着
鎌倉軍は尾張国から大手(おおて)と搦手(からめて)の2つの軍に分かれて進軍しました。大手の大将は源範頼(みなもとの のりより)、搦手の大将は源義経(みなもとの よしつね)です。
義経率いる搦手軍は、1月20日過ぎに宇治川に辿り着きました。当時は太陰太陽暦を使用していますので、1月は春の初めの頃です。雪解け水で川は増水していました。
あまりの流れの速さに、義経は「どうしようか」と考えます。そこに畠山重忠(はたけやま しげただ)さんが「待っていても水は引きませんよ。私が瀬踏みしてみましょう」と言いました。
瀬踏みというのは、水に潜って浅瀬をさぐる役目の事で、水泳が得意な人が請け負いました。重忠さんは自分の部下たちを集めて準備運動をしています。
平等院の丑寅(うしとら)、橘(たちばな)の小島が崎より武者二騎、引つ駆け引つ駆け出で来たり。 一騎は梶原源太景季(かじわら げんた かげすえ)、一騎は佐々木四郎高綱(ささき しろう たかつな)なり。
平等院の丑寅……つまり北東にある橘の小島が崎という場所に、2騎の武者が、馬を激しく競い合わせて走り出て来ました。
生食に乗った佐々木高綱と、磨墨に乗った梶原景季です!
先陣争い
人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いったん)ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。
2人は武士の名誉である、向こう岸への一番乗りを競う「先陣争い」をしています。他人にはなんともないような2人でしたが、心の中では逸っていました。
先頭は磨墨。騎手は梶原景季。一馬身離れて生食。騎手は佐々木高綱です。
おおーっとここで、佐々木騎手がなにやら声をかけました。
「梶原殿ー! ここは西国一の大河ですぞ! 腹帯が緩んで伸びてるように見えるので、締めた方がよいですぞー!」
腹帯というのは、馬と人を繋ぐ命綱のようなものです。これをしっかり結んでおかないと振り落とされてしまい、とても危険です。
梶原騎手、これを聞いて不安に思ったのでしょうか。鐙を開いて磨墨を止め、腹帯を締め直しています! 大幅なタイムロスです!
その間に佐々木はつつと馳せ抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、たばかられぬとや思ひけん、やがて続いてうち入れたり。
生食、抜いた! 川へサッと入っていきました! 梶原騎手、騙されたと思って怒ってますね。続いて川に入りました! おっと、今度は梶原騎手から佐々木騎手になにやら声掛けしている様子……。
「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚したまふな。水の底には大綱あるらん。」と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。
梶原が乗つたりける磨墨(するすみ)は、川中(かわなか)より篦撓形(のためがた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。
「やぁ、佐々木殿。手柄を立てようとして、しくじりませんように。川の底に大綱があるでしょうから」
おっと佐々木騎手、馬に乗ったまま太刀を抜いて、馬の足に絡まった大綱をブチブチと切り落としています。すごく器用ですね!
足を邪魔するものがなくなれば、当世一の名馬と言われる生食の走りを誰も止める事はできないぞ! 急流の宇治川を真一文字に横切ったァー!! あっという間に向こう岸に上がりました!
対して梶原騎手が乗る磨墨は川中でぐぐっと篦撓形(曲線状)に押し流されて、大分下流で上がりました!
佐々木、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声(だいおんじょう)をあげて名のりけるは、「宇多(うだ)天皇より九代(くだい)の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや」とて、をめいて駆く。
2着と大差をつけた、圧倒的な生食が、ウィニングランを飾りました! 佐々木騎手が馬上で立ち上がり、叫んでいます!
「宇多天皇から数えて9代の末裔、佐々木秀義の4男、佐々木高綱が宇治川の先陣だぁー! オレに勝てると思ってる奴はかかって来い!」
カッコイイ名乗りをしながら敵陣に突入しました!!
その後の話
教科書に載っているのはここまでですが、『平家物語』の『宇治川の先陣』はもう少しだけ続きがあります。
3着以降は、準備体操を終えた畠山重忠さんたち500騎です。しかし重忠さんの馬は、敵に射られてしまいました。そこで重忠さんは歩いて川を渡っています。
すると、重忠さんの烏帽子子(えぼしご=自分が後ろ盾となっている他家の子)である大串重親(おおくし しげちか)くんが、あまりの流れの速さに押し戻されてしまい、「重忠さんについていきます」としがみつきました。ちょっと可愛いですね。
重忠さんも「ヤレヤレ。お前はそうやって、誰かに頼っていくんだろうな」と呟きながら、大串くんを掴むと、向こう岸まで投げ上げます。
大串くんはすぐに立ち上がり、ドヤ顔で「武蔵国の住人、大串次郎重親! 宇治川の先陣だぞ」と名乗りました。メチャクチャ可愛いですね! これには敵も味方も思わずニッコリ。
重忠さんも、替えの馬に乗って岸に辿り着きました。すると木曽義仲の家来である長瀬重綱(ながせ しげつな)という人が、重忠さん目掛けて駆けて来ました。
重忠さんは「おお、ちょうどいい。今日の軍神へのお供えは、お前に決めた!」と言って、頸ねぢきッて討ち取りました。
これを皮切りに次々と鎌倉軍は、木曽義仲の兵たちを討ち取ったので、木曽軍は散り散りに逃げていきましたとさ。
躍動感ある戦闘描写
今回の話は、坂東武者視点で展開しています。前回の平家視点の『富士川の戦い』と比べてどうでしょうか。武士一人一人が生き生きとしている様子が表現されていますね。
死のあはれを描く平家物語ですが、この場面の敵の死はとてもアッサリしています。戦の中での兵の死は特別なことではない、ということなのかもしれません。そこがかえって、平和な世を生きる現代人には「あはれ」に感じますね。
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1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)