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2023.03.09

これだけ読めばOK!徳川将軍15人まとめ

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徳川家康以来、260年あまりも続いた江戸幕府。「将軍が15人もいて全員の名前、やったことを覚えられない!」という方のために、必要最小限の情報をまとめました。時に、インパクトある歴史&キャラエピソードもギュギュっと盛り込んでいます。

初代 “江戸開府” 徳川家康(いえやす)

在職1603~1605。駿河(静岡県)の大名・今川氏の人質として不遇な時代を過ごしたのち、関ヶ原の戦いで勝利。初代将軍となり、江戸に幕府を開く。外交力にも優れ、諸外国と交易を行った。死後、日光東照宮に神として祀られた。

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第2代 “生真面目” 徳川秀忠(ひでただ)

在職1605~1623。家康の三男。関ヶ原の戦いに遅れ、家康の怒りを受けた。ちなみに、四男の忠吉(ただよし)は関ヶ原合戦で大いに活躍。遅参とはダメ人間エピソードだが、家康は秀忠の生真面目な性質を見抜いたからこそ、秀忠を2代目将軍としたのだ。

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第3代 “江戸城改修” 徳川家光(いえみつ)

在職1623~1651。秀忠の次男。祖父や父と異なり、はじめて戦場に出ずに将軍職に就任。江戸城完成、武家諸法度による参勤交代義務化などにより、幕府の制度を確立した。対外的には、島原の乱をきっかけとしたキリスト教禁圧、海外貿易制限などを行った。

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第4代 “キリスト教禁教” 徳川家綱(いえつな)

在職1651~1680。家光の長男。11歳で将軍となり、さらに病弱でもあったため、自ら政治を行うことは少なかったが政治は安定。将軍を頂点とした「幕藩体制」が確立された。それは、叔父・保科正之や大老・酒井忠勝、老中・松平信綱などの名臣のおかげ。

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第5代 “お犬様” 徳川綱吉(つなよし)

在職1680~1709。家光の四男。儒学などの学問を好む教養人だが、動物愛護法「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」は行きすぎと不評。元禄赤穂事件、浮世絵創始など、江戸時代を代表するような事件や文化は、この綱吉治世のことである。

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第6代 “儒学研鑽” 徳川家宣(いえのぶ)

在職1709~1712。家光三男・甲府藩主綱重(つなしげ) の長男。15代将軍中、最高齢である48歳で将軍職に就任した。儒学者・新井白石を側近として登用するなど、儒学を重要視。その他、不評の生類憐みの令を廃止するなど、善政を目指した。

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第7代 “5歳就任” 徳川家継(いえつぐ)

在職1713~1716。家宣の四男。5歳という最年少で将軍職を継ぎ、新井白石などが政務を担当。しかし、幼主のもとで政治体制は安定せず、大奥スキャンダルであり権力闘争でもある「絵島生島(えじまいくしま)事件」などの混乱の中、8歳で早逝。

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第8代 “暴れん坊将軍” 徳川吉宗(よしむね)

在職1716~1745。紀州藩主・徳川光貞(みつさだ)の四男。兄たちが死去したことにより紀州藩主を相続。のちに、老中らの勧めで将軍となり「享保の改革」を進め、財政を立て直した。時代劇でおなじみの大岡越前(大岡忠相)を抜擢したのも、吉宗である。

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第9代 “風流将軍” 徳川家重(いえしげ)

在職1745~1760。吉宗の長男。父より将軍職を譲られるが、学問や武芸より酒色を好んだという。また、「病弱で政務は困難であった」という説もあるが、実際は将軍職が務まらないほどではなかったという見方が有力。ただ、病的な頻尿に悩んでいたとか。

第10代 “田沼全盛期” 徳川家治(いえはる)

在職1760~1786。家重の長男。聡明であり、不肖の9代家重に代わる存在として期待された。しかし、主体となって政治を行うことはなく、老中・田沼意次が主導権を握った。蘭学者・杉田玄白、稀代の発明家・平賀源内が活躍したのはこの時代。

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第11代 “精力大将軍” 徳川家斉(いえなり)

在職1787~1837。将軍家ゆかりの「御三卿(ごさんきょう)」のひとつ、一橋家・治済(はるさだ)四男。約50人の子を生し69歳まで生きた。政治面では、老中に松平定信を起用し「寛政の改革」を行うが社会・風紀は混乱。その後、化成文化が花開く時代へ。

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第12代 “天保の改革” 徳川家慶(いえよし)

在職1837~1853。家斉の次男。家斉は50年も将軍の座におり、家慶治世となっても家斉の大御所政治は続行。諸問題を打開するため、老中・水野忠邦が主導して「天保の改革」を行う。改革の目玉は、綱紀粛正(規律や政治、役人などの態度を正すこと)や経済政策。

「天保の改革」で、混浴が厳しく取り締まられたんだとか。


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第13代 “お菓子職人” 徳川家定(いえさだ)

在職1853~1858。家慶の四男。ペリー来航後、国内外で問題が山積する中将軍となったが、病弱のため老中・阿部正弘らに政務は一任。実子がなかったため、生前に後継者争いが勃発。政治は家臣任せだが、料理の腕はすごかったとか。

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第14代 “政略結婚” 徳川家茂(いえもち)

在職1859~1866。紀州11代藩主徳川斉順の次男。長州征伐など、混迷極まる時代に井伊直弼(いいなおすけ)に推され将軍就任。井伊死後、朝廷(公)と幕府(武)を合体させる「公武合体」で皇女・和宮と結婚するが、遠征先の大坂城で21歳の若さで病没。

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第15代 “ラスト将軍” 徳川慶喜(よしのぶ)

在職1867~1868。水戸藩主徳川斉昭 (なりあき) の七男。一橋家の養子となるが後継争いで家茂に敗れ、安政の大獄で謹慎の身に。桜田門外の変後は家茂の後見職となり、家茂死後、将軍に就任。大政奉還し、江戸幕府終了。翌年江戸城は明け渡しとなった。

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家康公肖像 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献
デジタル版『日本大百科全書(ニッポニカ)』
デジタル版『大辞泉』
デジタル版『日本国語大辞典』
『徳川将軍家十五代のカルテ』
『徳川将軍15人の歴史がDEEPにわかる本』
『歴史道Vol.14 週刊朝日MOOK 決定!徳川15代将軍格付けランキング』

書いた人

出版社勤務後、編プロ「ミトシロ書房」創業。著書に『入りにくいけど素敵な店』『似ている動物「見分け方」事典』など。民謡、盆踊り、俗信、食文化など、人の営みや祈りを感じさせるものが好き。四柱推命・易占を行い、わりと当たる。