Culture
2022.03.26

織田信長が最も愛した女性、久菴桂昌。その短く儚い人生について子孫に直接聞いてみた

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2021年8月、歴史ある一つの寺が取り壊されるというニュースが流れ、歴史ファンや地元住民をざわつかせました。その寺とは、愛知県江南市にある久昌寺(きゅうしょうじ)です。織田信長の側室であり、生駒家の長女、戒名を「久菴桂昌大禅定尼」と呼ばれる女性のために作られた生駒家の菩提寺です。歴史好きの方には『武功夜話』で描かれた「生駒吉乃(いこまきつの)」の名前で知られています。

(吉乃は創作上の名前であるため、ここでは、彼女の名を同寺の成り立ち及びその周辺の時代の事が書かれた『久昌寺縁起』に表記のある「久菴桂昌(きゅうあんけいしょう)」で統一します)

ここ愛知県江南市にある久昌寺は、のどかな住宅街の中に、その静かな佇まいを見せています。1566(永禄9)年に再建されたといわれ、400年以上の歴史を持つ由緒ある寺なのですが、老朽化のために維持することが難しく、2022(令和4)年4月15日より取り壊され、市の公園となることが決定しています。

江南市は愛知県の北部。名古屋駅から名鉄で北に30分ほどの場所です。


江南市に建つ久昌寺(2022年1月時点)

久昌寺に眠る「久菴桂昌大禅定尼」という女性

織田信長には正室とされた濃姫の他、11人以上の側室がいたと伝えられています。その中で、織田信長の嫡男・信忠、信雄、徳姫(五徳)と、3人の子どもを生んだのが久菴桂昌。彼女こそが信長が最も愛した女性として伝えられています。

この時代、女性たちの正式な名前や、その人生が語られることはほとんどありません。そのため、私たちは江戸時代などに書かれた物語を通して、女性たちの人生を垣間見るに過ぎないのです。しかし、わずかながら、史実を手繰り寄せ、その女性たちに近づけることがあります。

歴史が大の苦手な私ですが、地元、小牧山城に信長が彼女と暮らしたという記録が残されていると知り、彼女の末裔である生駒英夫(いこまひでお)さんに突撃取材しました。

末裔が今もいらっしゃる! すご!!

生駒家につたわる『門葉諸伝記』や『久昌寺縁起』で知る新たな史実

自分の家にも家譜があったら見てみたいと思う人は多いでしょう。思わぬところから歴史の入り口に立ち、遠いと思っていた歴史の1ページが現在につながることがあります。生駒英夫さんも、母方の生駒家に伝わる『門葉諸伝記』や『久昌寺縁起』など多くの史料をはじめ石碑などを護るため、生駒家の養子となり、40歳の時に19代目を受け継いだのだそうです。

生駒さんも、織田信長をはじめ、歴史上の人物だと思っていた豊臣秀吉、徳川家康ともつながる「久菴桂昌大禅定尼」の詳細を知るにつれ、その重みを感じるようになったのだとか。史実を知ってもらうため、サラリーマンをしながら、講演会などの活動を続けています。

すごい情熱。


巻物を広げながら、生駒家の歴史を語る19代目生駒英夫さん

久昌寺の成り立ちが示す織田家との関係

久昌寺は、臨済宗の龍徳寺として建立された寺でしたが、久菴桂昌の兄の生駒家長が織田信長からの命を受け、彼女を弔うために改修し、再建したと伝えられています。もともと、生駒家の菩提寺は愛知県江南市八反畑に現存する『般若寺』であったと推測されています。理由は、『魔物を斬った五輪丸(刀)の伝説』、生駒家の発祥の地である『奈良県生駒山の薬師像を模して造られた薬師像』が般若寺にあり、生駒家の古い痕跡は般若寺によるものだからです。織田信長が久菴桂昌のために再建させ、戒名「久菴桂昌大禅定尼」から名を取って久昌寺とした寺を生駒家の菩提寺に移したことに、織田信長の影響力の大きさを感じます。また、久昌寺は曹洞宗であることから、生駒家は万松寺と同じ宗派へと改宗したとも考えられます

生駒家に伝わる『門葉諸伝記』には、

信長の妻が亡くなったため、織田信長の家臣であった久菴の兄(義兄)である生駒家長(いこまいえなが)に、信長の父、織田信秀が建てたとされる大須万松寺と同じ曹洞宗のお寺として設立する旨、依頼があり建てたもの

と記されているそうです。万松寺といえば、信長が父である織田信秀の葬儀の際に、位牌に焼香を叩きつけたと伝えられる寺です。自分の父と同じ宗派の寺に再建した信長の思いとは、最愛の人を正室に近い形で葬りたかったのではないでしょうか。

お焼香を叩きつけるシーンは、信長がドラマ化されると絶対やりますよね。ここが舞台だったとは。


久昌寺の初代住職は万松寺から来た僧侶だったこともわかっており、その後も万松寺とは交流があり、明治時代にも久昌寺の僧侶が万松寺の僧侶になるなど、兄弟寺となっていることから、生駒家と織田家との深いつながりを感じさせてくれます。

家譜(左)と『門葉諸伝記』(右)

最愛の女性を思った信長の純粋かつ一途な愛

久昌寺に残された「久昌寺縁起」には、

織田信長が「妻の死に際し嘆き悲しんだ」「涙を流した」

ということも記載されているのだとか。

血も涙もない非道な人間と伝えられてきた信長が、妻の死を前に人目をはばからず、涙を流したというのはイメージとかけ離れた姿です。私たちは歴史を振り返る時、派手でエキセントリックなストーリーに目を奪われがちです。織田信長は寺院破却や延暦寺の焼き討ちといった無慈悲で残虐な仕打ちを行ったことなどが伝えられ、無神論者でもあったと言われてきました。

しかし、その一方で、信長の城づくりに見られるクリエイティブな一面や美濃桃山陶の礎を築いた先見の明などを知るにつれ、豊かな感性や才能に裏打ちされた繊細な一面も感じることができます。さらに久菴桂昌のために菩提寺を建てさせたという史実を知ると、荒々しく戦ってきた武人としてだけではなく、ひとりの女性を愛し抜いた純粋な信長の面影が浮かび上がってくるのです。信長好きの私としては、もう、ここでかなりキュンとしてしまいます。


生駒家が継ぐ代々の墓碑で、右から「久菴桂昌尼」「初代:家広・2代:豊政」「3代:家宗夫妻」「4代:家長夫妻」「5代:利豊夫妻」と夫婦で一つの墓となっており、当時には珍しく、妻の出自も墓碑に書かれている

生駒家と織田家の関係とはどのようにして生まれたのか

江南市にあったとされる小折城は、かつて生駒家初代の生駒家広が文明年間(1469~1486)に大和国生駒郷から移住してきた時に造った屋敷でした。小折という地名から小折城とも呼ばれ、幕末の絵図にも残っており、約5ヘクタールほどの広さがありました。現在は、布袋東保育園があり、その横に「生駒氏の邸址碑」が建てられています。

「生駒家は、小折の地を開拓した領主であり、織田信長のいとこである犬山城の織田信清の家臣でした。尾張統一を狙う信長にとって岩倉や犬山の織田家と対立している時期に、中間の小折の地を抑えるためもあり、政略結婚として生駒家の娘である久菴桂昌を側室に迎えたのではと考えられます」と生駒さん。

江南市史には、1554(天文23)年に清須城主となった織田信長が、この頃に生駒家長との関係が深まり、織田信長は、家長の妹を室へと迎え入れたと記されています。

そのことを裏付ける史料が生駒家に残されています。

「1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで、生駒家長が織田信長を支援し、この際に褒美として受け取ったのが『諸国往来許可状』です。後に織田信長の犬山攻略に尽力し、家長は織田信長の家臣となりますが、この時、黒地に白色の角を備えた兜と黒い冑をもらい、黒冑の十人の一人として迎え入れられた」と伝えられています。この時点で、織田信長と生駒家は主従関係が結ばれていたのだと思います。

織田信長から送られたとされる『諸国往来許可状』(生駒家所蔵)

その後、久菴桂昌は生駒屋敷において、1557(弘治3)年に嫡男・信忠、翌年に信雄、翌々年に徳姫を生みますが、1566(永禄9)年に小牧山城で亡くなったと生駒家家譜には記されています。

久菴桂昌の生んだ3人の子どもは、それぞれが数奇な運命の元、歴史の主要人物となっていきます。1567(永禄10)年に信長が安土城主となった際に、信忠は岐阜城主となりますが、1582(天正10)年の本能寺の変で、自害します。信雄は伊勢国司北畠氏の養子となりますが、信長、信忠死後、織田家に戻り、清須城主となります。1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いでは、信雄は家康と陣営を組み、羽柴(豊臣)秀吉と戦い、最終的には講和が成立します。長女である徳姫は、1567(永禄10)年に8歳と幼い年でありながら、徳川家康の息子信康に嫁ぎます。信康の死後、清須に戻り、小折へと転居しました。

これらを考えるだけで、織田信長の側室だということだけでなく、久菴桂昌とその子どもたちのこの時代に与えた影響の大きさ、歴史における存在の重さを感じます。

江南市史によれば、小牧・長久手の戦い後、生駒家長は秀吉の配下となり、

秀吉より、尾州小折村五郷、大山寺、九日市場の3カ村において、1970石の知行地をあてがわれた

とされています。

「朱印状という格式の高い書状により、秀吉から久昌寺に香華料660石が与えられたとの記載がありますし、徳姫は信康の不義理を信長に告げ、築山殿は殺害、信康は自害しと伝えられていますが、関ヶ原の戦い後、清須城主となった松平忠吉から1761石の所領を与えられています。豊臣秀吉とも徳川家康とも生駒家は良好な関係が続いていたと考えられるのです」と生駒さん。

このあたりの史実については、より研究が進むことを望まずにはおれません。そしていつか、歴史ドラマとして描かれることを期待してしまいます。

大河ドラマ化希望です!

戦いの城だけではない二人の思い出の地・小牧山城

織田信長にとっても嫡男をはじめ、3人の子どもの父となり、清須城を拠点に今川義元を制覇し、尾張を手中に収め、次なるは美濃攻めへと戦いを激化させるなど、意気揚々とした人生を思い描いていたのではないでしょうか。そして、斎藤道三の孫であり、稲葉山城主であった斎藤龍興と戦うべく、清須城から小牧山城へと拠点を移していくのです。

信長と 結婚後に「小牧に住ス」と書かれている

美濃攻めへの出城と考えられていた小牧山城でしたが、近年の発掘調査では、安土城の原型ともなる見せる城としての3段の石垣が発見されたり、松明を使って権威を示したなどの研究発表もあり、従来の戦う城とは一線を画しているように思われます。

愛知県小牧市にある小牧山城

特に注目されるのは、第13次発掘調査で発掘された玉石敷遺構が、いわゆる枯山水のような庭園であった可能性が高いといわれていることです。戦国時代に活躍した連歌師・里村紹巴が、1567(永禄10)年に、執筆したとされた紀行文『富士見道記』にも、小牧山城に完成した庭を祝う連歌会の発句を務めたとの記述があります。

戦うための城であれば、庭園など必要ないはず。また、小牧山城の発掘調査で、山頂の主格部から当時の化粧に使う鉄漿(おはぐろ)皿が出てきたことから、高貴な女性が住んでいたと推測されているのです。これが久菴桂昌ではないかと言われており、嫡男を生んだ彼女は、当時、正室に近い扱いを受け、特別待遇を受けていたとも考えられます。

86mの小牧山山頂に上がると、どこまでも続く濃尾平野を見渡せます。発掘調査でもわかってきましたが、出城として見るには、あまりに攻めやすく、砦となる要素に乏しいと感じてしまいます。信長の居城であったとの説もありますが、私などは久菴桂昌との終の棲家(ついのすみか)としての意味合いが大きかったのではと思ってしまうのです。

それほど、小牧山城からの夕日の眺めは素晴らしく、木々のざわめきを聞く度に、ここで織田信長が彼女とつかの間の暮らしを味わい、この景観を眺めていたのではないかと想像するだけで、ロマンチックな気分に浸ってしまいます。戦国時代という明日をも分からない人生を生き抜いた信長と久菴桂昌。共に短い人生でしたが、小牧山の美しい自然の中で安らいだ日々もあったのではないでしょうか。信長が好んで舞ったとされる『敦盛』の「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡われるように、人生の儚さをしみじみと感じてしまいます。


一つの歴史が幕を閉じることも世のうつろいであり、仕方のないことかもしれません。でもそこにこういった史実があったことは記憶にとどめておきたいものです。小牧山城にももうすぐ満開の桜が咲きます。一時の美しさではありますが、天界からこの光景を信長と久菴桂昌が眺めていてくれたらと思わずにはいられません。

<参考資料>江南市史 本文編