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2022.05.27

徳川家康は何をした人? したことや経歴・死因まで生涯を簡単に解説

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2023年のNHK大河ドラマは『どうする家康』です。松本潤さんが演じるとあって注目を集めていますね。「家康って徳川家康だっけ。江戸幕府を開いた人! それ以外は知らない」という人でも、より深く楽しめるよう、人物ドラマや徳川家康がしたことを簡単にわかりやすくまとめました。大河ファンの方は予習にも!

和樂webは、『どうする家康』を強力プッシュ!主役の家康は、どんな感じになるんでしょうね♡ワクワク。

徳川家康プロフィール

誕生日:天文11年12月26日(1543年1月31日)
幼名:竹千代(たけちよ)
父:岡崎城主・松平広忠(まつだいら ひろただ)
母:於大の方(おだいのかた、刈谷城主・水野忠政の娘)
没:元和2年4月17日(1616年6月1日)駿府城にて

幼名の「竹千代」は、家康以降、徳川家の次期後継者にも、つけられたみたいです。

意外と知らない徳川家康基礎知識

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座して喰らふは徳の川」という落首(風刺を込めた歌)があります。ちなみに、下の句にはさまざまなバリエーションがあります。

この絵を見てください。武士が餅つきをしています。

歌川芳虎『道外武者御代の若餅』 国立国会図書館デジタルコレクション

杵を持つのは織田信長、臼の前には明智光秀、餅をこねるのは豊臣秀吉。奥に座っているのが徳川家康です。

先ほどの歌の大まかな意味は、「信長、秀吉が苦労して成し遂げた天下統一を、何もしていない家康が横取りした」といった内容です。

絵をよく見ると、餅をこねる秀吉はサルのような顔で描かれています。なかなか痛烈な風刺ですが、家康はなんの苦労もなく天下統一を成し遂げたわけではありません。

えっ、どんな苦労が?

今川の人質時代から大大名へ

家康の一生をざっくりおさらいしましょう。

天文11年12月26日、家康は、三河国(愛知県東部)岡崎城の城主の嫡子として生まれました。幼名は竹千代。3歳で母と別れ、6歳で人質として今川氏のもとへ行く途中織田方に捕えられ、8歳から駿河国(静岡県)の今川氏の下で十数年間の人質生活を送りました。

永禄3(1560)年、桶狭間の戦いで今川氏が信長に敗れると、岡崎に戻り独立。信長と同盟を結びます。とはいえ、政治は安定せず、永禄6(1563)年の「三河一向一揆」で窮地に追い込まれます。「家康人生最大の危機」の1つに数えられるほど困難を極めましたが、翌年、これを平定し、三河一国の大名に。勅許を得て、永禄9(1566)年、それまで松平元康、松平家康と名乗った松平の姓を徳川と改め、三河守に叙任されました。

このあと、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで武田信玄に大敗した(家康が恐怖のあまり脱糞して敗走したというエピソードもあり!)ものの、駿河・遠江 (とおとうみ、静岡県)・三河3カ国に所領を拡大し、東海一の大大名となりました。

人質から解放された後も、紆余曲折あったんですね。

征夷大将軍となり江戸幕府を開く

同盟相手であった信長の死後、全国統一の戦いをはじめた秀吉と家康は激突。これが、天正12(1584)年の「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」で、厳密には、「秀吉vs.家康と信長の二男・信雄(のぶかつ)の連合軍」という構図です。この戦いは、和解という結末を迎え、家康は秀吉の統一事業に協力することになりました。

天正18(1590)年、秀吉が小田原の北條氏を滅ぼす「小田原征伐」により、秀吉は天下統一を達成。家康は秀吉の命じるままに新領地の中心となる江戸城に入り、関東に250万石を領有する最有力大名となりました。

江戸城へ入ったのは、秀吉の命令だったとは!これが、やがては今の東京の繁栄に繋がるんだ。

その後、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで勝利。3年後、慶長8(1603)年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。

岡崎市にある日本最大級の家康銅像

豊臣氏を滅ぼし、天下統一を達成

慶長10(1605)年、家康はわずか2年で、息子の秀忠 (ひでただ) に将軍職を譲り、駿府城(静岡県)へ。家康の長男・信康(のぶやす)は信長の命で切腹、次男・秀康(ひでやす)は秀吉の養子となっていたため、三男・秀忠に家督相続が回ってきたというわけです。

将軍職から退いたとはいえ、家康は「大御所」と呼ばれ、政治の実権を握り続けました。天下統一の最終仕上げは、慶長19(1614)年、慶長20(1615)年の2回にわたる戦国時代最後の戦い「大坂の陣」。方広寺鐘銘に言いがかりをつけて豊臣方を挑発し、滅ぼしました。

大梵鐘の銘文「国家安泰」を、家康の名前を切ったものである。「君臣豊楽、子孫殷昌子」は、豊臣家のみの繁栄を願っていると言いがかりつけたんですよね~(無理矢理だなぁ)。この鐘は現存していて、文字も見られますヨ。

これを機に、武家をまとめるための制度「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定。名実ともに徳川家の地位を盤石なものとした家康。元和2(1616)年、75歳で病死し、遺体は駿府郊外の久能山に埋葬されたのち、日光東照宮(栃木県)に神として祀られました。

徳川家康の性格は?

長く続いた江戸幕府を開いた男の性格は、どのようなものだったのでしょうか。豊臣秀吉が「生き大黒とは徳川のことよ」と評したそうです。詳しくはこちらの記事でどうぞ。
天下人による天下人の評価とは?豊臣秀吉が語る徳川家康の人物像

徳川家康の死因は?

徳川家康の死因は、食中毒や胃がん、寄生虫、膵がん、天ぷらにあたったなどバラエティ豊かですが、がん説が有力なようです。家康の死にまつわる謎については、こちらの記事をぜひ。
徳川家康「大坂夏の陣」死亡説とは?大阪・南宗寺に残る墓の謎に迫る

徳川家康と城

徳川家康に関わりのある城に関する情報は、随時更新していきます! お楽しみに!

岡崎城(愛知県岡崎市)

岡崎城は、江戸幕府を開いた徳川家康が誕生した城です。大火や地震に合うこともなく、明治維新まで存続しました。
▼詳しくはこちら
徳川家康が誕生した岡崎城は、錚々たる大名たちが城主を務めたパワースポットだった!?

浜松城(静岡県浜松市)

29~45歳までを過ごした浜松城(静岡県浜松市)。出世城とも呼ばれています。
▼詳しくはこちら
徳川家康の快進撃はここから!出世城と呼ばれた浜松城を3分で解説

駿府城(静岡県静岡市)

天下普請(てんかぶしん)によって築城された駿府城は、江戸城をしのぐ壮大な天守台を備えた城でした。
▼詳しくはこちら
近世城郭の集大成!徳川家康最期の地・駿府城とは?歴史と今を解説

参考文献等

アイキャッチ画像:
『道外武者御代の若餅』 国立国会図書館デジタルコレクション

主な参考文献:
デジタル版『日本大百科全書』
デジタル版『世界大百科辞典』
デジタル版『国史大辞典』

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小学館版 学習まんが人物館 徳川家康

書いた人

出版社勤務後、編プロ「ミトシロ書房」創業。著書に『入りにくいけど素敵な店』『似ている動物「見分け方」事典』など。民謡、盆踊り、俗信、食文化など、人の営みや祈りを感じさせるものが好き。四柱推命・易占を行い、わりと当たる。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。