冒頭で記事のテーマを発表することにしよう。
なんでも、とある場所に。
あの信長の「焼き討ち」から逃れた……があるそうな。
「えっ?」(by読者の皆さん)
だからぁ。
ほら、あの織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたやん?
「えぇ…(いや、聞きたいのはそこじゃなくて)」(by読者の皆さん)
どうやら、その時にさぁ。
延暦寺から持ち出された……があるらしくて。
「えぇ…(大事な部分が聞こえないんですけど)」(by読者の皆さん)
もうビビり過ぎて、声も出ーへんやろ?
今回の記事は。うーん。せやな、一言でいうと。
その貴重な……を拝みに行くっちゅうコトで。
しょっぱなから、マジで、読者の皆さんに。
「帰れーっ!」と突っ込まれている気がしてならない、弱気なダ、ダイソンです。
正直、全くストレートな始まり方ではなく、申し訳ない。
さて、気を取り直して。
じつは、とある噂を聞いたダイソン。
あの織田信長の悪名高き所業のひとつ「比叡山延暦寺の焼き討ち」。
その災難から逃れた当時の「仏像」が、まさかの長崎県にあるというではないか。
ホントに?
でも、なんで?
滋賀県の比叡山から?
遠く離れた長崎県なの?
そんなクエスチョンマークに頭を支配され、とうとう長崎県、それも島原半島までやって来たという次第である。
ということで、今回は大災難の危機を脱した貴重な仏像を追って。
どのような経緯で現在の場所に安置されているのかを取材した。
冒頭はおちゃらけ過ぎたきらいがあるが、内容は至って真面目。
それでは、早速、ご紹介していこう。
※本記事の写真は、すべて「本光寺」に許可を得て撮影しています
※本記事は「織田信長」「明智光秀」「松平忠房」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
「比叡山延暦寺焼き討ち」とは?
話を進める前に。
まずは「比叡山延暦寺焼き討ち」について簡単にご説明しよう。
京都府と滋賀県の境にまたがる比叡山。
その山上にあるのが「延暦寺」だ。平安京の鬼門の方角(北東)の位置にあり、東に琵琶湖、西に京都を望むことができる。開祖は最澄(伝教大師)。天台宗の総本山であり、学問と修行の場としても有名だ。
この日本屈指の大寺院を、元亀2(1571)年9月12日、織田信長は焼き討ちした。
その様子は、家臣であった太田牛一が記録した織田信長の軍記『信長公記』に記されている。
九月十二日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、僧坊・経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞(うんか)の湧き上がるごとく、無残にも一山ことごとく灰燼(かいじん)の地と化した。
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)
それにしても、である。
どうして信長は比叡山延暦寺を攻撃したのだろうか。
理由は幾つかある。
まず表立った理由としては、比叡山側が信長と敵対していた勢力に加担したことが挙げられるだろう。
当時、めきめきと頭角を現した信長を包囲すべく、様々な勢力が動いていた。そのひとつが、越前(福井県)の朝倉氏、そして信長を裏切った義弟の近江(滋賀県)の浅井氏だ。
『信長公記』によると。
元亀元(1570)年9月、信長が大坂に気を取られている間に、浅井・朝倉の軍勢が琵琶湖の西側を南下。坂本(滋賀県大津市)付近で信長軍と交戦となり、ここで信長の有能な忠臣「森可成(もりよしなり、森蘭丸の父)」らは討たれている。勢いに乗って浅井・朝倉の軍勢は京都の手前まで進軍。この事態に、信長は急遽大坂から戻り坂本へと進撃。その結果、浅井・朝倉の軍勢は「比叡山」へと逃げ上ったのである。
ここで、信長は比叡山側に対し通告を行った。
こちらに味方すれば、これまでに没収した比叡山側の領地を返還する。もし、出家の道理で一方に加担できない場合は、せめて浅井・朝倉方に味方せず中立を保つようにと。妨害はするなと警告したのである。それだけではない。これに違背すれば、「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」をはじめ様々な仏教施設が建つ比叡山をことごとく焼き払うと明言しているのだ。ちょうど、比叡山焼き討ちの1年前のことである。
これに対して比叡山側からの回答はなし。
結果的に戦は長引き、約3か月後に信長と浅井・朝倉軍は一時的に和睦した格好となった。
信長は恐らくこの時の恨みを忘れていなかったのだろう。「比叡山焼き討ち」の決意は、この時点で既に固まった可能性が高い。

ただ、そうはいっても。
あの「比叡山延暦寺」を焼き討ちだなんて、罰当たりな。だって、相手は「寺でしょう」、それも「丸腰の僧侶を」と思われた方。いやいや、彼らを決して侮ってはいけない。
じつは、当時の寺社は現在のイメージと全く異なるものだった。
特に、大きな寺社は武装した僧侶、いわゆる「僧兵」らを多く召し抱え、神社の神輿(みこし)や神木を担いでは山を下り、自らの要求を押し通す「強訴(ごうそ)」でやりたい放題。仏罰を盾にする彼らのチート技を、時の権力者たちも聞き入れるしかなかったのである。
日本史の中でも有名な「白河法皇」。
平安時代後期に院政を築き、政治の実権を40年以上握り続けた人物だ。
そんな彼が、自分の意のままにならないコト3つを列挙した「三不如意」というものがある。
『平家物語』や『源平盛衰記』にも記されているのだが。その内容がコチラ。
「白河院は賀茂川の水、雙六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬ者と、常は仰せの有けるとぞ申し傳へたる」
(早稲田大学編輯部編『通俗日本全史 第3巻 第3巻 源平盛衰記 上』より一部抜粋)
京都を流れる「鴨川」、すごろくの「サイコロ」、そして、注目すべきは最後の「山法師」である。
じつは、コレ。比叡山の僧たちのこと。じつに比叡山の中には、下図のような感じの方々がうじゃうじゃ。こうなると、なんら戦国大名と変わらない。あの白河法皇が嘆くほど「比叡山」は厄介な存在だったのである。

そんな因縁めいた過去に加えて。
「比叡山」は地理的に見ても非常に重要な場所。
京都へと繋がる交通の要所であり、さらに門前町の「坂本」は、全国各地の物資を運ぶ上で琵琶湖からの水上ルートと陸路のつなぎ目として栄えていた。この場所に信長が目をつけないワケがない。
ましてや、相手は広大な荘園と「土倉(どそう、当時の金融業者)」などで絶大な財力を蓄えている比叡山だ。この機会に彼らの経済的権力を弱めたいという意図もあっただろう。
こうして、これまでの蓄積された鬱憤を解消すべく、信長は暴挙に出る。
その様子が『信長公記』に記されている。
山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、皆はだしのままで八王寺山へ逃げ上り、日吉大社の奥宮に逃げ込んだ。…(中略)…僧・俗・児童・学童・上人、すべての首を切り、信長の検分に供して、これは叡山を代表するほどの高僧であるとか、貴僧である、学識高い僧であるなどと言上した。…(中略)…哀れにも数千の死体がごろごろところがり、目も当てられぬ有様だった。
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)
いつもながら「目も当てられぬ有様」とは。
これも「信長あるある」のひとつといえるのかもしれないが。
実際の状況はというと。じつは比叡山全体を焼き尽くすほどではなかったともいわれている。
というのも、近年の延暦寺境内の発掘調査で、大規模な火事の跡は発見されず。「根本中堂」は焼き討ちで焼失したようだが、全ての建物、そして山全体が火の海になったかどうかは定かでない。『信長公記』に記された大惨事を裏付ける証拠がなく、これほどの虐殺ではなかった可能性も大いにあるという。
ただ、そうであっても。
日本の歴史の中では、信長の「比叡山延暦寺焼き討ち」は重大事件のひとつといえるだろう。
それもかなりのインパクト。織田信長に抗えばただではすまないという、見せしめ的な意味を持つに至ったのである。
難を逃れた幻の仏像
今から450年ほど前に起きた、信長の「比叡山延暦寺焼き討ち」。
この重大な危機から奇跡的に逃れた「仏像」が実在するという。
向かった先は長崎県。
それも東側に突き出た島原半島である。
有明海に沿って、島原半島沿岸を北から東へぐるりと回る島原鉄道に乗り、黄色い列車に揺られること1時間10分。降りたのは終点から少し手前の「島原駅」だ。そこから車で5分ほどの距離にあるのが、今回のお目当ての場所。「瑞雲山 本光寺(ずいうんざん ほんこうじ)」である。

コチラの山門。
見た目は至って普通の山門だが、じつは島原市では最古の建物だとか。
島原藩藩主となった松平忠房(ただふさ、深溝松平家6代当主)が、生母の菩提を弔うために建立した「浄林寺」の山門であるという。その後、明治時代に「浄林寺」は廃寺となったが、別の場所にあった「本光寺」がこの地に移され、現在に至る。
山門をくぐると。
境内は平地だが、奥は小高い丘になっている。確かに、この地が16世紀頃に領主であった島原氏の出城「丸尾城」の跡だというのも頷ける。
そんな本光寺の縁起はというと。
「本光寺の創建は1523年ですね。愛知県にありました」
こう話されるのは、瑞雲山本光寺第36世住職の片山弘賢(かたやまこうけん)氏。
今回の取材を快く引き受けて下さった。

「愛知県に『深溝(ふこうず)』というところがありますけれども。松平家がそこの出身なんで。創建後は菩提寺という形で色んな場所を転々と(深溝松平家と)一緒についていきました」
「瑞雲山 本光寺」は、大永3(1523)年に、松平忠定(深溝松平家初代当主)が当家の祈願所、菩提寺として建立した寺である。
その後、江戸時代となり、大名らは「移封(いほう、転封とも)」による領地替えが当たり前となる。現代でいうところの転勤のようなものだ。そんな領主の移封に合わせ、深溝松平家の菩提寺である本光寺も新しい任地へ同道したという。
「一緒にと言っても、伽藍(がらん)があったりしますので、若干遅れてという形になったと思いますけれども。深溝松平家と行動を共にして、松平さんが島原に来るっていうんで、本光寺も島原に来たと」
本光寺の資料によると。
どうやら深溝松平家の当主らは、転地を繰り返していたようだ。寛永9(1632)年に刈谷(愛知県)、慶安2(1649)年に福知山(京都府)、寛文9(1669)年に島原(長崎県)、寛延2(1749)年に宇都宮(栃木県)、そして安永3(1774)年に再び島原(長崎県)。以降は動くことがなかったという。
なるほど。
だから、今も島原の地に本光寺があるのかと納得した。
それにしても、なんとまあ、移動距離の長いコト。ふと『引っ越し大名!』という映画を思い出した。てっきり大名だけが苦労したと思っていたが、寺も同じ苦労を味わっていたとは驚きである。
さらに、である。
そんな転地を繰り返した本光寺に。
まさか「比叡山延暦寺焼き討ち」から逃れた仏像が安置されているとは、誰が思うだろうか。
まずは、一目だけでもというコトで。
早速、御尊顔を拝ませていただいた。
座敷の奥の方。
ひっそりと鎮座されているお姿に、自然と足が止まる。

これまで「仏像」とあえてぼかしていたが。
正式名称は「如意輪(にょいりん)観音像」。
どのような観音様なのか。
本光寺の説明版から抜粋しよう。
六観音の一つで、如意宝珠を持ち、あらゆる人々の願望をかなえ幸福をあたえる観音
(本光寺の説明版より一部抜粋)
あらゆる人々の願望を叶えられる、なんとも有難い観音様である。
観音像自体の高さは60.9㎝。材質は檜(ひのき)で、複数の材木を合わせて造る「寄木造(よせぎづくり)」の仏像だ。鎌倉時代のものと伝わっているという。
近付いてみる。
正座すると、ちょうど見上げるような恰好となった。

何も考えずに、ただ見つめた。
心を空っぽにして、目の前の観音様に集中する。
あれ?
仏像に詳しいワケではないので、個人的な感想となってしまうが。
如意輪観音といえば、腕は6本の「六臂像(ろっぴぞう)」、また、片膝を立て、そこに肘をかけて指先が顔に触れるような、あの特有のポーズである「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」が代表的だ。
だが、目の前の如意輪観音様は。
どちらの特徴とも合致しない。
それなのに、と不思議に思う。
お姿は異なるのだが、あのなんともいえない独特の雰囲気が、妙に同じなのだ。
なぜだろうか。
つい引き込まれそうになる、不思議な魅力のある観音様だ。
そして、何より。
大事なコトを忘れてはなるまい。
なんといっても、コチラの仏像は……。
考えただけで、無意識にごくりと唾をのみ込んだ。
信長の「比叡山延暦寺焼き討ち」から……。
あの歴史的大惨事から、奇跡的に焼失を免れた仏像だというコトを。
どうして島原にあるの?
ここで、私を含め読者の皆様方が思うのは、ただひとつ。
どうして比叡山にあった仏像が、遠路はるばる島原の地に存在するのか。

これはまさしく、歴史的ミステリーと言ってもいいだろう。
さあ、ダイソンよ。
この謎が解けるのか。
ここはしっかりと話を聞かせていただこうと、身を乗り出したところで。
サラリと片山住職の方から切り出された。
「『比叡山の焼き討ち』を逃れた観音ということで、明智の一族がそういったものを保管して、それが松平に引き継がれてこっちに来たっていうのが、大体の経緯なんですけれども」
あら。
思いのほか、あっさりやん。
「あくまで書面が残ってるわけでもないし、いついつどこどこで誰それがお助けしたみたいなのはちょっとわからんのですよ」
まあ、そりゃそうだ。
だって450年以上も前の話だし、何より、当時の状況は混乱の極み。そんな中で来歴を証明するモノなど残っているとは考えにくい。
じつに、本光寺にある説明版もあっさりしたものだ。
明智一族が火中の仏像をお救いし、明智領福知山に持ち帰り、脇本尊であったものを如意輪観音に改修して密かにおまつりしていたものが、以後入封の諸大名の庇護をうけ、当松平藩島原入封の折おうつししたものと云うことです。
(本光寺の説明版より一部抜粋)
ただ、証明する手立てがないのは分かるが。
一体、どこから、この話が出てきたのか。
「『大野木(おおのぎ)』っていう家(姓)がありまして。大きい野原の木。あくまで、その大野木家の『口伝(くでん)』、口伝えとして伝わっている話なんです。(この大野木家は)滋賀県の米原(まいばら)辺りにいたらしいんで。比叡山も滋賀県なんで、やっぱりそこら辺のところで繋がりがあるのかなと」
ほほう。
口伝、つまり口伝えで大野木家に代々伝わってきた話ということか。
なかでも、説明の中で非常に気になったのが「明智」という名だ。織田信長を自刃に追いやった「本能寺の変」。それを仕掛けた「明智光秀」のコトだろう。

「比叡山を焼き討ちしたのが、明智光秀ですから。で、比叡山の麓の坂本っていうところにお城を作って、それから丹波亀山、今の京都の亀岡っていうところですね。そこに亀山城を作ったり、福知山に福知山城を作ったりと。明智さんと福知山の関係があって、比叡山の仏像なんかも、そこら辺にあったのかなと」
確かに、明智光秀は「比叡山延暦寺焼き討ち」の実行部隊であった。
一説には、焼き討ちに反対したともいわれているが、定かではない。
先ほどからご紹介している『信長公記』によると。
信長は、年来の鬱憤を晴らすことができた。そして、志賀郡を明智光秀に与え、明智は坂本に居城を構えたのである。
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)
焼き討ち後、信長は明智光秀に領地を与え、坂本城の築城を許した。
いってみれば、これはかなりの好待遇である。恐らく、光秀が信長の意図通りの働きをしたとみていいだろう。
一方で。
大野木家の口伝によると。
明智光秀、もしくはその一族が、焼き討ちの裏で火中から仏像を救い出していたことになる。逆をいえば、実行部隊だったからこそ、それが可能だったともいえる。
ただ、実際問題として。
騒然とした現場から仏像を持ち出すことなどできたのか。

村山修一著『比叡山史』によると。
当時の比叡山の仏像経典について少しだけ触れられている。
屍は山谷に満ち、仏像経巻の失われたもの数知れず、わずかの衆徒が什宝(じゅうほう)を負うて脱出し……
(村山修一著『比叡山史』より一部抜粋)
衆徒というコトは、比叡山の僧兵であろう。
どうやら彼らの中には生き延びた者もいたようで。
実際に仏像経典などを背負いながら脱出したという。彼らが言うには、豊臣秀吉が守備していた「香芳谷(かぼうだに)」付近で、情けをかけられ逃げおおせたとか。あの秀吉であれば、さもありなんという感じだが。今となっては、その気まぐれな見逃しが貴重な什宝を守ったことになる。
じつに、全国の寺社をみれば。
有志八幡講(和歌山県高野町)所蔵の国宝「阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず)」は、まさにその「比叡山焼き討ち」から救い出された什宝である。
それだけではない。比叡山延暦寺国宝殿にある「釈迦如来坐像」も同様。元は横川(よかわ)の霊山院に安置されていたというが、「比叡山焼き討ち」の際に東南寺へ移されたとのいわれがある。
つまり、他にも救い出された仏像や絵図が現に存在しているという事実。
そこから推測するに、本光寺の「如意輪観音像」も、焼き討ちの現場から持ち出すことが十分可能であったといえるだろう。
確かに、仏像が安置された厨子の扉部分など、少し焼け焦げたように見えなくもない。

さあ、ここまでくれば。
残る謎はあとひとつ。
如意輪観音様が焼き討ちから逃れ、無事に救い出されたとして。
どうして「長崎」なのか。
じつは、明智一族と深溝松平氏には確実な接点がある。
それが、京都の「福知山」である。
「六代目の(深溝松平)忠房さんという方が福知山の方に転封して。1649年に入って20年後に島原に転勤してきたんですよ。昔の大名家っていうのは、自分が領有したところのモノっていうのは、ほぼほぼ持ってきますからね。家屋敷っていうのは持っていきませんけれども、風呂釜とかお墓とか、持っていけるものは結構持っていくっていうのがあって。松平さんが福知山からこっちに来る時に、如意輪観音さんを持ってみえたようですよ」
ここでようやく繋がった。
「福知山」という場所を介して。
如意輪観音様の長崎までの意外な旅路が完成したのである。
取材後記
「まあ、(福知山では)たったの20年。ですから、(当時の福知山の本光寺が)きちんとした形の寺だったのか、ちょっとそこら辺はわからないところありますけれども。移転はしてきたんですよね。で、その時に、いわゆる如意輪さんも持ってきたし、うちの先祖もこっちに来たし。物心両面いろんなものがあっちから来たと」とご住職。
人も物も仏像も。
福知山から島原まで移動する。
当事者からすれば大変な旅路に違いないが。
それは、さぞかし壮大な景色だっただろう。
「恐らくは福知山の色んなモノも持っていこうみたいな形で、持ってみえたんだろうと思います。極端な話、福知山にお城はありますけれども、福知山城の絵図っていうのはここにあるんですよ。福知山にはないんですよ」
えっ?
そんなコトってあるのか?
「っていうのは、絵図を作ったのが松平だとすると、自分のものですから持ってくるんです。だから福知山の地図とか、福知山城の図というのは、うちの原本のコピーが福知山城に置かれてるんです。そういうことがあったりします」
なるほど。
その理論であれば、確かに持ってくることは可能だろう。
だが、実際のところ。
当時の状況をこの目で見てきたワケではない。
今回の如意輪観音様についても、そうだ。
何をもって「事実」と見るのかは人それぞれ。
様々な情報の取捨選択も解釈も、判断する者が決めること。
個人的な感想をいえば。
本光寺の如意輪観音様は、信長の「比叡山焼き討ち」から奇跡的に逃れた可能性が高いように思う。
ただ、全ての説明がスッキリというワケでもない。
なぜ、深溝松平家だったのか。正直、そこに引っ掛かりがあるのだ。
というのも、福知山に移封となったのは、松平忠房(深溝松平家第6代当主)だけではない。明智光秀による福知山城の築城は天正7(1579)年頃といわれているが、その後、慶安2(1649)年の忠房の移封までには、他の大名らが福知山の地に入封している。
どうして、彼らではなかったのか。
なぜ、深溝松平家だけが新しい任地に如意輪観音様を持ってきたのか。
そこは、謎のまま。
未だ解けずにいる。
恐らく、この先も。
決してこの疑問を解くことなどできないのだろう。
だが、それでいいのだ。
すべて解明しては、想像の余地がない。
歴史のロマンには、ほんの少しの余白が必要なのである。
最後に。
もう一度、近寄って。
如意輪観音様を見上げる。

先まで全く気付かなかったが。
あっと、思わず声が漏れた。
よく見ると、眼が……。
薄く開けられているではないか。
ふと思う。
薄く開いたその眼(まなこ)で。
これまで、一体、何を目撃されたのか。
信長の比叡山焼き討ちか。
それとも。
撮影/大村健太
参考文献
『通俗日本全史 第3巻 第3巻 源平盛衰記 上』 早稲田大学編輯部編 早稲田大学出版部 1912年
『比叡山史 : 闘いと祈りの聖域』 村山修一著 東京美術 1994年2月
『白河法皇中世をひらいた帝王』 美川圭著 角川学芸出版 2003年6月
『経済で読み解く日本史安土桃山時代』 上念司著 株式会社飛鳥新社 2019年5月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『虚像の織田信長』 渡邊大門編 柏書房 2020年2月
『日本史の偉人の虚像を暴く』 本郷和人著 宝島社 2024年11月
基本情報
名称:瑞雲山 本光寺
住所:長崎県島原市本光寺町3380
公式webサイト:なし

