なぜ義兄弟が争うことになったのかは、この2年前に起きた「姉川(あねがわ)の戦い」の記事を参考にしてもらって……。
▼やらかしからの超速リカバリー! 織田信長が姉川の戦いで見せた「魔王力」
今回はその後の話。織田信長が2年かけてじっくりと敵を追い詰めていく様子を見てみましょう。
姉川の戦いからの経緯
元亀元(1570)年6月、織田信長は近江国(おうみのくに=現・滋賀県)の姉川のほとりで、北近江の浅井長政と越前国の朝倉氏の連合軍を撃破しました。信長は深追いせず、浅井軍の監視役として木下秀吉(きのした ひでよし=のちの豊臣秀吉)を残して戦場を後にします。
一方、信長の圧力によって阿波国(あわのくに=現・徳島県)に逃げていた、将軍暗殺事件の主犯・三好(みよし)三人衆が摂津国(せっつのくに=現・大阪府北西部)に戻ってきて、8月に信長と戦になりました。「野田・福島(のだ・ふくしま)の戦い」です。
次いで9月、今の大阪城あたりにあった石山本願寺(いしやま ほんがんじ/大阪本願寺とも)が突如挙兵し、10年にわたる抗争が始まります。そこへさらにに、信長の留守を狙って本願寺と通じた朝倉・浅井連合軍が琵琶湖西岸を南下し、京に迫ってきました。そこで信長は摂津国から京へ戻り、戦の準備を始めます。(志賀の陣)

朝倉・浅井連合軍は比叡山に布陣し、織田軍を待ち受けました。比叡山の僧兵たちは信長にとっても難しい相手で、睨み合いは3か月に及びます。しびれを切らしたのは信長で、朝廷と将軍に和睦の調停を依頼しました。そして12月13日に和睦が成立し、お互い兵を引き上げたのですが……これですべて解決とは行きませんでした。
じわじわ孤立していく浅井長政
年が明けた元亀2(1571)年1月に、信長は横山城の秀吉に命じて、姉川・朝妻湊(あさづま みなと)間の通行を禁止します。これにより、浅井氏の物資補給や情報網が遮断されました。
翌2月には南の重要拠点・佐和山(さわやま)城にいた浅井氏の家臣・磯野員昌(いその かずまさ)が織田方に投降します。このように、織田信長は直接小谷城に……ではなく、小谷城を支える周辺の拠点に対して厳しくあたりました。
どんどん孤立していく浅井長政は、5月に一向一揆(いっこういっき)と手を結んで、織田信長の手に渡った鎌刃(かまは)城を攻めます。一向一揆とは一向宗(浄土真宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動で、15世紀~16世紀にかけて各地で度々起こっていました。
しかし鎌刃城攻めは秀吉の活躍で阻止されます。さらに9月1日、織田信長は柴田勝家(しばた かついえ)らに命じて一向一揆勢を攻めました。
そして9月12日には昨年の志賀の陣で朝倉・浅井連合軍に味方した比叡山の焼き討ちも決行。神仏をも敵に回す恐ろしい人物だと言われるようになります。これに危機感を抱いた石山本願寺は武田信玄にSOSを出しました。
そしてついに元亀3(1572)年7月、織田軍は進軍し、小谷城のすぐそばの虎御前山(とらごぜやま)に陣を構えました。目の良い人なら向こうの陣で動いている人が見えそうな距離感です。
けれど小谷城は山そのものが城という天然の要塞だったためすぐには攻撃できませんでした。それでも織田信長にこんな目と鼻の先に陣を構えられたら、浅井長政の感じていたプレッシャーは想像以上だったことでしょう。

しかし9月になると武田信玄が動き出しました。このときの武田信玄の動きは三方ヶ原の戦いを参照してください。
家康くん、絶体絶命!三方ヶ原に仕掛けられた「武田信玄の罠」とは?
戦国最強の武将が背後から近づきつつあり、わりとピンチが迫ってきているかに思えた織田信長ですが、その間も朝倉勢の武将たちを寝返らさせます。11月に朝倉・浅井軍が攻め寄せますが、すぐに撃退しました。その後、朝倉軍は12月に撤退していきます。
そして12月22日の三方ヶ原の戦いで武田信玄に徳川家康が大惨敗しますが、その後武田軍の進軍速度は落ちてきます。織田信長はそれを察知したのか、いったん京へ戻り敵対勢力の排除に取りかかります。その中には将軍・足利義昭(あしかが よしあき)もいました。
武田軍は信玄が病に倒れて急遽国元に引き返します。信長は足利義昭を追放し、再び浅井長政との戦いに集中することができました。
勃発!小谷城の戦い
天正元年8月8日、小谷城にとっての重要拠点・山本山城(やまもとやまじょう)が、織田信長に寝返ります。織田信長は3万の兵を小谷城に向けて進軍し、再び虎御前山に布陣しました。
対して浅井長政の方へは朝倉軍が2万の兵で援軍にやって来て小谷城の北西にある木ノ本に布陣します。そして小谷城に隣接する形で大嶽砦(おおづく とりで)などを築いていました。
しかし織田信長は街道を封鎖して小谷城とその周辺の砦を孤立させた上で、8月12日に大嶽砦を攻撃し、奪取しました。

他の砦も次々に織田軍に奪われた朝倉軍は、やむなく撤退します。ところが! 織田さんが! 後から! ついてくる!! そして刀根坂(とねざか)で追いつかれてそのまま戦闘に引きずり込まれました。(刀根坂の戦い)
朝倉軍はボロ負けして多くの武将を失いました。そして勢いづいた織田軍は朝倉氏の本拠地である一乗谷(いちじょうだに=現・福井県福井市内)まで進軍し、8月17日に朝倉一族を滅ぼしてしまいます。
織田軍は再び小谷城へ向かいます。その間浅井軍は何をしていたかというと、隣接する砦を奪われていたので、朝倉軍が織田軍を打ち破ることを願ってじっと籠城しているしかありませんでした。それでも浅井の部下たちの士気は高く保たれていたといわれています。
8月26日、ついに織田信長は小谷城に総攻撃を命じました。浅井長政は家臣たちと最後まで奮戦しますが、勝敗は明らかです。長政は妻のお市とその3人の娘を織田信長に引き渡し、8月28日に自刃しました。(日付は異説あり)
まさに「魔王」織田信長
まさに、織田信長の執念が現れているような戦です。
信長は2年以上をかけて義弟を孤立させ、味方を削り、援軍を封じ、じわじわと逃げ道を奪っていきます。そして最後には、本拠地そのものを飲み込むように滅ぼしました。
「逆らう者は決して許さない魔王」として織田信長が語られる理由が、よくわかる戦いですね。
アイキャッチ画像:
法橋玉山画作『絵本太閤記 3』(家庭絵本文庫) 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献:
小和田哲男監修『[図解]戦国名合戦 時々刻々』 (メディアファクトリー新書)
中村均監修『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
小和田哲男編『浅井長政のすべて』(新人物往来社)
山田康弘『足利義輝・義昭』(ミネルヴァ書房)

