夫の残り香を胸に…お互いの下着を交換した、おしどり夫婦の悲劇

夫の残り香を胸に…お互いの下着を交換した、おしどり夫婦の悲劇

カフェで流れる懐かしい音楽に、ふと学生時代や幼少期を思い出す。そんな事はよくあると思います。音楽の他にも、匂いも記憶を呼び覚ます刺激となります。香水やタバコの匂いで、元カノや元カレを思い出す曲は多くの人の共感を呼んでヒットしますね。

鎌倉時代にも、亡き夫の匂いに涙する切ない夫婦の物語がありました。

1歳の将軍候補を支えた三浦光村とは

今回紹介するのは、鎌倉前期と中期の境目にあたる時期の話です。頼朝直系の血筋が絶えてしまい、鎌倉幕府は頼朝の遠縁にあたる左大臣の幼い息子・三寅(みとら)を将軍に迎え入れます。

しかし北条氏は、元々「宮将軍(みやしょうぐん)」といって、天皇の息子(親王)を将軍にしたいと考えていました。3代目将軍・実朝(さねとも)には、子供ができません。更に跡継ぎがいないまま暗殺されてしまった事により、親王を将軍にする交渉が決裂してしまったのです。

そこで鎌倉幕府の重鎮で、北条最大の協力者である三浦義村が、頼朝の遠縁である三寅を推薦し、鎌倉に迎えることとなりました。

北条氏VS三浦光村

やがて時代が巡り、世代交代が行われ、幼かった将軍が成人すると、北条氏に反発するようになりました。北条氏も将軍を排除して今度こそ「宮将軍」を実現させようと計画します。

しかしそんな北条氏に対して「源氏の血筋であるべきだ」と真っ向から反発したのは、頼朝の先祖から代々源氏に仕えていた御家人、三浦一族の三浦光村でした。

光村は、三寅を鎌倉に呼んだ三浦義村の息子で、その後を継いだ当主の弟です。鎌倉で内政を担当する兄に対して、京都で公家や大臣たちと交流する外交官として、役割分担していました。

敏腕外交官、三浦光村の半生

三寅が鎌倉で次期将軍として育てられることとなった時は、まだ1歳になったばかり。けれど迎えに来た鎌倉の武士たちにすぐに懐いたといいます。

鎌倉にやってきた三寅の子守係……もとい側近として選ばれたのは、元服直前、14歳の三浦光村でした。しかし実は光村は相当なやんちゃ坊主だったらしく、鶴岡八幡宮で僧侶たちと取っ組み合いの大喧嘩を起こして謹慎処分となった事もあります。

そんなやんちゃ盛りの光村が、幼児の面倒を見ることで、責任感などが芽生えると思ったのでしょうか。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にはその奮闘記は記されていませんが、三寅の側には光村が控えていたことが記されています。

やがて光村が成長して、父の基盤を継ぐことを意識し始めた頃。嫡男の兄は鎌倉での内政、光村は京都との外交に力を入れます。三寅の父や祖父との交流により、朝廷からもらった階位も通常の御家人の枠を超えていました。

鎌倉の光の君!? 夫婦の馴れ初め

光村夫婦の馴れ初めは、どういったものかは記録には残っていません。しかし妻の父は後鳥羽院の側近の藤原能茂(ふじわら よしもち)であること、美貌の持ち主であること。光村はとても可愛がっていて、仲睦まじかったことが『吾妻鏡』には書かれています。

能茂の推測される年齢や、光村の息子の年齢を鑑みると、かなりの幼な妻だったことが予想されます。婚約は承久の乱(1221年)以降と考えられますが、ひょっとしたら16歳の光村に対して、妻は3・4歳の幼児だった可能性もあります。

光村は仕事で度々京都に訪れていますので、その度に幼い婚約者の家に寄っていたとしたら……。小さな女の子が未来の夫となる年上のお兄さんの事を「鎌倉の光の君」とか呼んでいたかもしれませんね!(*個人の妄想です)

源氏物語図『紅葉賀』から、光源氏と紫の上部分を切り抜き 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

それにしても、光村は小さい子にやたら縁がありますね。案外、面倒見は良かったのかもしれません。

将軍か執権か、鎌倉幕府の転換期

幼な妻も成人し、子供も生まれ、光村も将軍の側近かつ外交官として、忙しくも楽しい日々を送っていたことでしょう。しかし、平和は長くは続きませんでした。

将軍VS執権の頭脳戦! 宮騒動

仁治3(1242)年、名君と名高い3代目執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の死により、後を継いだ孫の経時(つねとき)ですが、この頃になると北条氏も庶流が多くなり、経時に反発する者が多くなっていました。

加えて、三寅も成人して藤原頼経(ふじわら よりつね)と名乗っていました。幼い頃はともかく、成人後は将軍としての自覚も芽生え、経時の政治方針と対立するようになります。

そこに危機感を持った経時は、寛元2(1244)年、将軍である頼経を廃し、頼経の幼い息子頼嗣(よりつぐ)を将軍にしました。けれど頼経は転んでもタダでは起きません。「大殿」と呼ばれ、なおも幕府内の政治に関与していきます。朝廷の上皇による院政のようなものですね。

この事が、経時にとってよっぽどのストレスだったのでしょうか。経時は重病となり、寛元4(1246)年に満22歳の若さで亡くなってしまいました。5代目執権となったのは、経時の弟の時頼(ときより)です。

このタイミングをチャンスと思ったのが、北条の庶流である名越光時です。光時は将軍の側近で反執権派だった御家人たちと連携し、時頼打倒に動きます。しかし時頼は光時の動きを読んでいて、先手を打っていました。

時頼も泰時に並ぶ名執権に称されていますが、この時の時頼の動きは、現代人から見ても実に見事な情報戦です。

まず鎌倉中に甲冑を着た武者たちを集め、デタラメな情報を流して将軍派たちを混乱させ、将軍の屋敷への橋を封鎖し、外部との連絡手段を遮断させてしまいました。

当時の連絡は人力でしかなかったので、人が通れなければどうしようもありません。首謀者の光時は負けを悟って出家し、さっさと降伏してします。なんと鎌倉を戦場にせずに戦が終わりました。

そして、この騒動に深く関わっていたのが、元服前からずっと藤原頼経に仕えていた三浦光村でした。

将軍と涙の別れ

三浦一族の当主である光村の兄・泰村(やすむら)は、この騒動の後に北条時頼の所に行って、執権側につく事を示します。時頼も御家人の中でも一番規模も軍事力もある三浦一族と対立する事を避けて、光村を不問としました。

お兄ちゃんグッジョブ! ……と、サムズアップしたい所ですが、光村はこれ以降も執権への不満や将軍への忠誠を隠そうとしませんでした。

泰村お兄さんの胃が心配になりますね

この騒動の後、頼経は鎌倉に追放され、京都へ戻る事になりました。それを送ったのが光村です。光村は帰る日になっても頼経の元を離れようとせず、泣きながら「もう一度あなたを、鎌倉の将軍にします」と言ったとされています。

こうした絶対的な将軍派であることや、京都との関りが深い事が理由で、次第に反北条の中心人物として危険視されてしまいます。

三浦一族の最期 宝治合戦

藤原頼経が追放されてしまった宮騒動から1年後、だんだんと光村だけでなく、三浦一族への反発が強くなってきました。

執権の時頼と、三浦の当主・泰村はどうにか和睦を結び、協力体制を取ろうとします。しかし周りが暴走し始め、ついに執権派の中心である安達一族が、三浦を攻めてしまいました。

光村は当然、反撃しようと戦の準備をしますが、この戦は誰が見ても、三浦一族にとって不利な状況でした。

最愛の妻との別れ

光村は頑丈な作りの寺に立てこもって戦おうとします。妻も夫の行く先がどういう所か理解していた事でしょう。それは光村も同じ事で、家から出る事がなかなかできませんでした。

しかし、いつまでもそうしているわけにはいきません。光村夫妻はお互いの小袖(こそで)を交換しました。小袖とは、現代に続く着物の原型となる袖の小さな着物のことです。鎌倉時代では着物の下に着ていました。

室町時代の小袖『白茶地桐竹文綾小袖』 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

最愛の妻の香が残る小袖を身に着け、意を決して光村はわずかな手勢を引き連れて寺に向かい、兄の泰村に「ここで戦おう」と呼びかけます。ところが泰村は、三浦の当主として最後まで戦う事を拒否し、光村にも戦を辞めるように説得しました。

この血は誰のために流れたのか。光村の壮絶な最期

どんなに奮闘したとしても、この状況では必ず負けるでしょう。当時の武士にとって、討ち取られたり、処刑される事よりも、自害する事が名誉を守る行為でした。

結局、光村は兄の説得に応じて鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝を祀る法華堂(ほっけどう)に向かいました。

三浦一族は先祖代々源氏に仕え、頼朝の作った鎌倉幕府を守るために尽くしました。彼らがその終焉の地として選んだのは、頼朝の肖像画の前です。集まったのは500人と言われています。

みんな自害する前にしみじみと思い出話を語り、栄華を懐かしみました。しかし光村はこの状況にまだ納得できなかったようです。

「これから先だってもっと三浦は大きくなれたはずなんだ。それなのに兄貴がヘタレたせいで、妻子と別れる羽目になった。オレは悔しい! この悔しさを残してやる!」

光村はそう言って刀を抜くと、なんと自分の顔を切り刻みました。その上で周囲の人たちに「この顔が光村だって解るか?」と聞いて回ります。飛び散った血が頼朝様の肖像画を汚しました。

「皆で自害した後は、法華堂に火を放とう! 死体が誰かわからなくしてやろう!」

光村はおそらく、誰の死体なのかわからなくすることで、「もしかしたらこの死体は偽物で、三浦一族はまだどこかで生きているのでは?」と思わせる事が狙いだったのでしょう。当時はDNA鑑定なんてありませんからね。

しかし、そこでピシャリと言ったのは兄の泰村でした。「肖像画を血で汚し、堂を燃やすのは頼朝様に対して無礼に当たる。三浦一族がそんなことしてはいけない」と、光村をたしなめたので、法華堂が燃える事は免れました。

泰村は「三浦がこの地位まで上り詰めたのは、周囲を蹴落として来た側面もあった。因果応報だ。私は北条になんの恨みもないよ」と語り、やがて一族は皆で読経をして自害しました。

戦の後、妻の涙

この出来事は、宝治元(1247)年6月5日に起こりました。年号を取って宝治合戦(ほうじがっせん)と呼ばれています。

戦の後、検死が行われましたが、自ら顔を切り刻んだ光村は、初めは行方不明扱いでした。しかしその最期の様子を隠れて見ていた僧侶がいたため、顔が切り刻まれた死体が光村のものと分かりました。

戦後処理はこの後も続き、三浦一族の縁者は1人残らず調べ上げられ、処分を決められました。事件から9日経った6月14日、三浦一族の妻や子供たちに調査の手が及びます。その中には当然、光村の最愛の妻がいました。

事件後、気丈に振る舞っていて涙を見せなかった彼女ですが、当日の事を聞かれ、小袖を交換した事を話しました。その時にその小袖も取り出して見せたのでしょう。「夫の匂いが、まだ残っています」そう言って彼女はポロポロと泣き出してしまいました。

ラスト・ゴケニン三浦一族

宝治合戦の後、将軍派最大の勢力だった三浦一族が滅亡し、執権の権力はより強いものとなっていきました。それから3年経った建長2(1250)年、5代目将軍頼嗣も追放され、ついに北条氏念願の宮将軍が誕生しました。

鎌倉の将軍はこれ以降、完全に傀儡となってしまいます。幼い子どもを将軍にしては、成人して自分の意見を持ち始めると追放する事を繰り返します。

頼朝が鎌倉幕府を作って65年。幕府の在り方が時代と共に変わりました。将軍を中心とした幕府に、命を懸けてまでこだわった三浦一族は時代遅れとなっていたのかもしれません。まさにラスト・サムライならぬ、ラスト・ゴケニンです。

光村の妻や乳飲み子がその後どうなったのかは、記録には残っていません。けれど三浦一族の縁者は鎌倉に住むことを禁止されていますので、もしかしたら彼女の実家の京都に戻った可能性があります。系図は何も残っていませんが、もしかしたら彼の子孫はどこかにいるかもしれませんね。

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