明智光秀は羽柴秀吉(はしば ひでよし/後の豊臣秀吉)によってすぐに討ち取られました。そして信長の死から25日後の天正10(1582)年6月25日、信長の家臣たちは織田信長の孫・三法師(さんぼうし)を織田家の後継者とし、どのような体制で支えるのかを、清洲(きよす)城で話し合うこととなります。これが「清洲会議」です。ここで、柴田勝家(しばた かついえ)と、羽柴秀吉が真っ向から対立しました。
会議の結果、秀吉が三法師の後ろ盾として権力を持つようになります。それに納得いかない柴田勝家との対立が深まり、勃発したのが、今回紹介する「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」です。
賤ヶ岳の戦い 前哨戦
戦は、対立したからといってすぐ始まるわけではありません。まず自分の味方を増やす所から始めます。
秀吉は織田家の重臣たちを味方につけました。柴田勝家は、織田信長の三男・信孝(のぶたか)と利害が一致し、他の反秀吉勢力とも協力していきます。

双方、戦に向けて動いていると思いきや、清洲会議から5か月後の天正10年11月に、柴田勝家が秀吉に和睦を申し込みました。なぜなら、このまま冬に合戦に突入すると、雪国の越前国に居城がある勝家は動けなくなります。さらに秀吉包囲網をより強固にするために時間が欲しかったからです。
秀吉はその意図を見抜いていましたが、あえて和睦を受け入れて、さらに自分も各国の大名を味方に引き入れました。
そして天正10年12月、秀吉は勝家との和睦を反故にします。柴田勝家の甥で養子でもある勝豊(かつとよ)のいる近江国・長浜(ながはま)城を攻めました。しかし以前から勝豊は勝家に反目していたので、秀吉側に寝返ります。
そしてさらに岐阜城にいる織田信孝を攻めました。理由は「信長の後継者である三法師を安土へと移さなかった」からです。12月20日、信孝は三法師を秀吉に引き渡しました。

そして年が明けて天正11(1583)年1月、柴田勝家側の武将・伊勢の滝川一益(たきがわ かずます)が挙兵して秀吉に反撃します。2月になると秀吉は大軍を率いて一益の長島城を攻撃しますが、一益もなかなか手強く、戦況は膠着状態になりました。
そしてこれらの動きを、雪に閉ざされた越前国で見ていることしかできなかった柴田勝家が、雪が溶け始めた頃に挙兵しました。

こうして勝家が味方と合流し、秀吉方と激突したのが、近江国の琵琶湖の北。余呉湖周辺の賤ヶ岳を含む山々です。
賤ヶ岳の戦い 布陣
天正11年3月12日、北陸方面の軍勢を率いた柴田勝家は、主要道を押さえる内中尾山(うちなかおやま)に本陣を置きました。対して羽柴秀吉は、3月19日に木之本へ着陣します。
両者の睨み合いが続き、勝家軍は尾根伝いに、秀吉軍は余呉湖の周りに各陣を配置しました。秀吉は勝家を挑発しましたが、勝家は反秀吉勢が揃うのを待っていたので、挑発には乗りませんでした。3月27日になると、秀吉は一旦、長浜城へと戻ります。

事態が変わったのは翌4月16日になってからです。秀吉の背後では滝川一益が再び動き出し、織田信孝が岐阜城を占拠しました。秀吉はすぐに岐阜城に向かいますが、大雨に遭って途中の大垣城で足止めとなってしまいました。
この秀吉不在のチャンスを見逃さなかった勝家軍は、4月20日に秀吉軍の陣営近くまで迫りました。
佐久間盛政の奇襲
柴田勝家軍の奇襲攻撃隊の中心となっていたのは、勝家の甥にあたる佐久間盛政(さくま もりまさ)です。佐久間は余呉湖周辺に布陣した秀吉軍陣営のど真ん中にある大岩山砦を襲いました。
字面だけ見るとちょっとどういうことか解らないミラクルのようですね。けれど砦を守っていた兵は千、対して佐久間が率いた兵は8千もいました。圧倒的な戦力差を見て、周辺の砦も撤退をしたのです。

そして余呉湖の南端にあったのが賤ヶ岳砦です。ここを守っていたのは桑山重晴(くわやま しげはる)ですが、間一髪で丹羽長秀(にわ ながひで)が合流し、なんとか柴田軍を撃退することができました。
柴田勝家は撤収するように佐久間に命じましたが、佐久間は圧倒的な優勢に立っているとみて大岩山にとどまります。翌日には賤ヶ岳砦を落とす腹づもりでした。
一方大垣城で足止めされていた秀吉は、その日の夕方に勝家軍の急襲を知り、急いで引き返しました。約50kmの道のりを、大軍がわずか5時間で踏破した「美濃大返し」です。
夜になり、本陣に秀吉が戻ると、かがり火が焚かれました。その無数の光を見た佐久間は戦況が逆転したことを悟り、すぐに撤退を開始しました。
賤ヶ岳砦の激闘
深夜になり、佐久間盛政が撤退していくことに気づいた秀吉は、本隊で追撃します。しかし佐久間も手練れの武士ですので寄せ付けません。加えて、柴田勝家の養子である勝政(かつまさ)が佐久間の援護をしたので、夜が明ける頃には行市山(ぎょういちやま)まで撤退しました。
朝になり、秀吉は攻撃目標を佐久間軍から勝政軍に切り替えて、全軍で一斉攻撃しました。そこに一度撤退していた佐久間軍も加勢して大激闘となります。この時に秀吉方で活躍した7人の武将が、のちに「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになります。
そんな大乱闘の中、さらに予想外の出来事が起こりました。柴田軍の同盟者だった前田利家(まえだ としいえ)が突然戦線離脱したのです。理由は定かではありませんが、元々秀吉とは仲がよかったので、事前に密約があったとも、秀吉と勝家の板挟みに耐えかねたとも言われています。

いずれにせよ、この前田軍の離脱によって柴田軍の士気は崩れ落ち、他にも離脱する者が相次ぎました。敵軍に囲まれた柴田勝家は、越前国へと撤退し、本拠地の北ノ庄城へと戻ります。
それでも秀吉は攻撃の手を緩めず、二日後の4月23日には北ノ庄城を取り囲みました。そしてその翌日、柴田勝家は妻であり、信長の妹であるお市と共に自害しました。
こうして最大の敵を排除した羽柴秀吉は、信長に続き天下人への道を進んでいくのでした。
アイキャッチ画像:歌川芳艶『瓢軍談五十四場 四十一 英雄勇名を賎ケ嶽にとゞむ』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献
小和田哲男監修『[図解]戦国名合戦 時々刻々』 (メディアファクトリー新書)
高柳光壽『賎ケ岳の戦い』(学研M文庫)
『歴史群像シリーズ 賤ヶ岳の戦い』(学研)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』

