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2021.12.04

源氏と平氏の違いって?どんな戦いがあった?3分で解説

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「社会科が苦手だった」という人でも大丈夫。よく耳にするわりに、意外と詳しいことを知らない人も多そうな「源氏」と「平氏」について、簡単に解説します。

「源氏」も「平氏」も天皇家がルーツ

時は平安時代、藤原氏のような貴族に代わり、武士が存在感を増してきました。「源氏」も「平氏」も武士のグループで、源(みなもと)の姓を名乗る一族が源氏、平(たいら)の姓を名乗る一族が平氏です。

源氏、平氏ともに天皇家にルーツをもつ由緒ある家系で、源氏は東国に、平氏は西国に権力を築き、二大派閥になっていきます。

武家の名門である、源氏と平氏。どちらも天皇家にルーツを持っていた!

▼「武士」について詳しくはこちら
そういえばいつからいたの?日本史を語るうえで欠かせない「武士」とは?を3分で解説!

っていうか「源」と「平」って何?

皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下に下ることを「臣籍降下」と言います。源氏の「源」と、平氏の「平」は、天皇から賜った姓のひとつ。姓を与えられた皇族のうち、軍事専門職についた人たちを「軍事貴族」といい、平清盛や源頼朝たちも軍事貴族です。

このように臣籍降下した皇族は何人もいるので、鎌倉幕府をひらいた源氏だけが源氏ではなく、平清盛の親戚だけが平氏ではありません。

▼そのあたりもっと詳しく知りたい方はこちらの記事がおすすめ
平家と平氏の違いとは?関連人物と合わせて解説!【鎌倉殿の13人予習シリーズ】

保元の乱・平治の乱を経て、平氏が台頭

「保元の乱(ほうげんのらん)」や「平治の乱(へいじのらん)」は、名前ぐらいは覚えていますか?

名前くらいなら……。

保元元(1156)年の保元の乱は、崇徳上皇(すとくじょうこう・兄)と後白河天皇(ごしらかわてんのう・弟)の権力争いで、これに源氏と平氏の武士が参戦。兄・上皇方には源氏から為義(ためよし、義朝の父)、平氏から忠正(ただまさ、清盛の叔父)がつき、弟・天皇方には源氏から義朝(よしとも)、平氏から清盛(きよもり)がつきました。この戦においては、源氏と平氏は共闘関係でした。

はじめは一緒に戦っていたのですね。

保元の乱によって武士の勢力はさらに拡大し、勝者となった源義朝と平清盛は、次に起こった平治元(1160)年の「平治の乱」で、対立関係になります。

月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』国立国会図書館デジタルコレクションより

平治の乱では、源頼朝(よりとも)の父で源氏のリーダーであった義朝は清盛に惨敗。頼朝はその後、遠く離れた伊豆へと追放されてしまいました。

ここから源氏と平氏の対立が激化していくのですね。

平氏の全盛期、源氏は再興への道を探る

平治の乱後、平氏は全盛期を迎えます。清盛は、貴族の頂点である「太政大臣(だじょうだいじん)」となり、政治の実権を握りました。

一方、源氏はすっかり力を失ってしまいました。流刑地の伊豆で20年を過ごした頼朝は、「平氏を倒し、武士の世を作ろう!」と立ち上がります。しかし、味方は集まりません。

政治の実権を握った平氏、しかし貴族としての地位だった!

そこで、頼朝が目をつけたのは武士たちの持つ土地でした。当時、全国に勢力を伸ばしていた平氏のため、多くの武士が土地を奪われそうになっていました。そこで、頼朝は関東の武士に、「味方をしてくれたら、土地を支配する権利を与える」と呼びかけます。これを「御恩と奉公(ごおんとほうこう)」の関係といいます。

「壇ノ浦の戦い」で平氏のトップ・平家滅亡、源氏は権力の座へ

打倒平氏を目指す頼朝のもとに、武術に長けた弟・義経(よしつね)も駆けつけます。一ノ谷の戦い、屋島(やしま)の戦いを勝利に導き、最後の決戦こと、かの有名な「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」を迎えます。

この戦いで、平氏のトップ・平家は滅亡。建久3(1192)年、頼朝は、朝廷から『征夷大将軍』に任じられ、名実ともに武士をまとめていく最高の立場となりました。

武家として最高の地位に立ったのが源氏!

宿命のライバル同士となった源氏と平氏。権力の座をめぐる駆け引きや興亡には、壮大な歴史ドラマが秘められているのです。

壇ノ浦で滅んだのは平氏?平家?

壇ノ浦で滅んだのは平氏なのか平家なのか問題について、辻 明人さんからコメントをいただきました。

平氏という言い方は平姓の者すべてを指し、たとえば関東などで土着し、土地の地名を名字とした者もそうで、千葉氏、上総氏、三浦氏、畠山氏、北条氏なども、みな平氏です。
これに対して平家は、平清盛一門のことを指します。つまり平氏の中に、平家と呼ばれる一門がいたわけです。清盛は伊勢平氏の出身ですが、彼らは名字を用いずに平氏として朝廷に仕え、保元、平治の乱を勝ち抜いて朝廷内の重職についていきます。そして永暦元年(1160)、清盛が正三位となって上流貴族の仲間入りを果たした頃から、藤原氏を藤家(とうけ)、菅原氏を菅家(かんけ)などと呼ぶのと同様に、清盛一門を平家と呼ぶようになったといわれます。従って、壇ノ浦で滅亡したのは「平家」とするのがベターでしょう。

では、「壇ノ浦で平氏滅亡」がまったく誤りかというと、微妙なところと私は考えます。現代の研究者でも、清盛一門を平氏と表記している例は少なくありません。地方の平氏が土着の名字を称する中、平姓のまま都で権力の座にあった平家(伊勢平氏)は、平氏という氏族の頂点に立つ存在だったでしょう。源氏vs.平氏という構図のわかりやすさや、壇ノ浦以後に、平氏が歴史上でクローズアップされることがないこともあって、平家の滅亡は、同時に平姓をそのまま名乗る平氏の滅亡であったと解釈されるのではないでしょうか。

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

▼2022年度の大河ドラマは、源氏の開いた鎌倉時代が舞台!
鎌倉時代とはどんな時代?幕府を開いたのは誰?2022年大河ドラマの舞台の基礎知識

参考文献:
小学館 全文全訳古語辞
日本国語大辞典

扉絵:
「源平英雄鏡 齋藤別当実盛」 国立国会図書館

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「平氏と源氏」の人物・合戦がわかる本 (PHP文庫)

書いた人

出版社勤務後、編プロ「ミトシロ書房」創業。著書に『入りにくいけど素敵な店』『似ている動物「見分け方」事典』など。民謡、盆踊り、俗信、食文化など、人の営みや祈りを感じさせるものが好き。四柱推命・易占を行い、わりと当たる。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。